2016年10月24日

猿沢池にて

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「正倉院展」会場となりの池で、角を突き合わせるシカ

昼間、「正倉院展」を見に行った。

毎年、混んでいるというイメージがあって敬遠していたが、たまたま平日昼間に行くことができる機会を得て、意外に混んでなくて待たずに入れた。

展示品の目玉のひとつ、鳥のような形をした水差しは、薄い木の皮のようなものを輪状に積み上げたか巻くかして、その上に漆を塗った技法と説明されていたが、それにしては形に歪みが認められずすごかった。中国製という説明だった。

工具が発達していなかったのか繊細な装飾は道半ばといった感じだった。しかし、イグサや柳の枝などを用いた蔓工芸は精巧だった。シンプルな形の箱に、ちゅんちゅんと装飾模様があって、絹糸で結ばれている。あんな傷みやすそうなものが1300年も保存されているのは驚きだった。

写経をする職人が、休暇が月5日以上ほしい、服が臭くて洗っても落ちないので新しいのを支給してほしい、机に向かう仕事で胸や足が痛いので3日に1回酒を支給してほしい等、要望する文書があった。その文書だけが格調高さがなく生身の人間の赤裸々な欲求を伝えていた。時代が違っても、人の考えることは昔も今も変わらないんだなと親近感を持ち、デスクワーカーの待遇改善要望は同情をさそった。

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猿沢池

観覧は思ったより早く終わり、まだ時間があったので、近鉄奈良駅に向かう道を南に折れて猿沢池を見た。

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サギ

奈良の名勝である猿沢池で亀を見ようと思ったが、亀は見えず、サギが丸太の上にとまっていた。

五重塔を望む場所にはベンチが並んでいて、子供がコイにパンを投げ与えている。ハトも寄ってくる。

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カイツブリ

水面にカイツブリがおり、何かをくわえている。小魚のようだった。

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パンに群がる小魚や金魚

水中をよく見てみると、コイだけではなくて子供が投げたパンに、小魚が群がっていた。種類はわからないが細いからクチボソかもしれない。あと、赤い魚影もみえて金魚のようだった。それらは、水につかってふやけたパンに突撃し、ちゅんちゅんと突いていた。

すると、最初に見たサギが、池を横断して飛来してきた。

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真剣なサギの表情

パンでにぎわう水面を見て、こちらのほうがエサの小魚にありつけると判断したのか。

人に慣れているようで、たくさんの人を前にしているのに逃げない。真剣な表情をして魚を待ち構えている。

と、サギが首をS字にすぼめたかと思うと、さっと水中に首を伸ばし、一瞬で何かを捕えた。あっという間でシャッターを押すこともできず。

つぎ、餌を捕るところを撮ってやろうと、カメラを構えサギが首をすぼめるのを待つ。

サギは泳げないので(たぶん)、じっと魚が近寄って来るのを待っているが、子供が投げたパンは岸近くを浮遊しており、サギが立っている丸太の端とは2メートルくらい離れている。サギはじっと待っている。まるで、水に入りたくても怖くて泳げない子供のよう。しかしサギは、いくらエサがほしくても泳ぐなどということはしない。冷静にじっと待つ。

でも浮遊パンはサギの近くには来ない。小魚の群れには、首を伸ばしても届きそうにない。それでもサギは表情を変えず、じっと待つ。待つことに徹する。そこにサギのプロフェッショナルを感じた。

いっそのことパンを拾って投げてやりたい、そうすれば小魚がやってきて、サギが魚を捕えるところが撮れるかもしれない。

と、真下の水面を見ると、石垣に流れ着いたパンに何かが付いている。

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パンに群がるエビや小魚、金魚

エビだった。



猿沢池は、石垣に囲まれているので、そこがエビのすみかになっているようだった。

それが証拠に沖のほうに漂っているパンにはエビが付いていない。

いっぽう石垣に着いたパンには群がるエビがどんどん増えてきた。
いやーたくさんいるぞ。

なんだか小エビのかき揚げが食べたくなってきた。

これだけたくさんいれば、簡単に捕れそうなんだけど、この猿沢池は、興福寺の放生会のためにつくられたという池で、あんまりそういった魚捕りとかはしないんだろう。

エビに興味を奪われ動画など撮るうちにサギは捕食をあきらめ飛び去ってしまった。

ところで猿沢池といえば亀のイメージがあったが、どういうわけかこの日は、一回だけ亀を水面でちらっと見たがすぐに潜られてしまった。

亀にとっては、これだけエビがいれば餌の宝庫だのに。

以前、猿沢池で外来種のミシシッピアカミミガメが増えて困った、という記事をみたことがあったが、もしかするとその後、駆除が行われたのかもしれない。

猿沢池のシカや鳥、魚、エビら、人馴れしたそれらの生き物の中にあって亀だけは警戒心が強そうだった。




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2016年03月08日

神泉苑

北側から見た池.jpg
北側から見た神泉苑全景

京都市営地下鉄東西線の二条城前で降り、二条城の堀沿いに西へ歩くと、南側にグレーの塀で囲まれた一角があってその中に神泉苑があった。

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南に入る道路は不自然に下り坂となっていて、神泉苑に北側から入ると、池は地面より1.5メートルくらい低いように見えた。

神泉苑説明板.jpg
案内看板

この神泉苑は、自然の泉だったといい、いまでは半町四方の池だがもとは南北4町、東西2町の広大なものだったという。

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敷石。赤色チャートや、緑色岩などの川石

1962年刊行の岩波新書「京都」(林屋辰三郎著)は「京都は、神泉苑からうまれた」とはじまる。この一見、特別な印象を感じられない池が、京都の肝であったという。空海が雨ごいをした。そうすると、法力によって雨が降ったんだという。

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二条城の堀と門

しかし江戸幕府が成立すると、神泉苑の北側は徳川家康の二条城に取られてしまった。神泉苑の池の肝となる水湧出場所も、二条城のなかの庭園にあるといい、竜王の霊力も江戸幕府に取り込まれてしまった。

二条城の堀をみたら、出口は50センチくらいの滝になっていて、神泉苑の池よりも水面が高いみたい。

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二条城堀の出口

もともと二条城の堀と神泉苑の池はおなじ水面だったはずだが、二条城が築造された時点で、切り離されて堀のまわりに堤防が築かれたのか。それが坂道の起源なのかもしれない。

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神泉苑西端を示す石碑

神泉苑の東端と西橋を示す石碑もたっていて、これは地下鉄東西線を掘った際にわかったそうだ。それは「京都」掲載の地図とくらべてみると、東側については大宮通でほぼ正確だったが、東側については、壬生よりも数十メートル東寄りだった。

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陸地との高低差がほとんどない池の南端

池の南端にいくと、池の水面と地面は10センチくらいの高低差しかない。これは、豪雨なんかあったら、あふれることもあるんじゃないかと思わせた。

神泉苑はいまよりもっと南にも広がっていて、南端は三条通だったという。いまではアーケードの商店街になっている。池の痕跡はあるのだろうかと南に行くと、南西側が低い土地になっているように感じられ、そこには「池ノ内町」という地名もあった。ちょくせつの池とか川とか、水気は感じられなかった。

「京都」掲載の地図によると、神泉苑の池には中島があったらしく、それは神泉苑の南側をとおる御池通があるあたりにあったようだ。その中島で、空海も雨ごいをしたんじゃないか。しかし、いまの御池通に立ってもその痕跡は、認められないのだった。二条城の堀から出た水も、神泉苑の池の水も、下流は暗渠になっていて、流れというものが見えないようになっている。人口が密集する都市部だから、すこしでも車や人が通る道を確保したいと事情があるのだろう。

いまの神泉苑よりも30倍は広かったと推定される平安時代の池や湿地を想像するのは、ちょっと難しかった。その痕跡のようなものは、残された現在の池の、水面の高さに感じられた。

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神泉苑のスズメ


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2015年04月27日

平等院鳳凰堂の州浜

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州浜の水際

子供が電車で遠足に行くという。その行先は宇治の平等院鳳凰堂だった。
そこで、鳳凰堂に行ったら、池の水際が州浜になっているから、それをカメラに撮ってほしいと依頼したところ、撮影してきてくれた。それが冒頭の写真である。感謝。

 平等院鳳凰堂を、創建時の姿に戻そうとして、池の水際が、それまでの切り立った擁壁から、州浜形式に戻されたのが10年くらい前だったことのように思う。ニュースで見て「いいね」と思ったが、実際に見に行ったことはなかった。写真で見ると、州浜は、砂ではなくて、1月に訪れた和歌山県新宮市の海岸のような丸石浜だった。

 池の際を、擁壁ではなく、浜でつくるという考えは、庭に掘ったメダカ池にも影響を及ぼしている。平安時代に花開いた国風文化は、こういう洲浜池を作ったのだった。

 平等院鳳凰堂は、浄土をイメージして作られた建物だから、彼岸ということで、船に乗って近づくのが良い感じだ。やっぱり浜のほうが趣があると思う。

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平等院鳳凰堂と池

 これを建物とともに見ると、浜に立っているように見える。ちょっと引きがない。浜の幅が30メートルくらいあったら、かなり浄土感が出るのではないかと思う。

 だが、古代の平等院の池の水際とはそのような固定したものではなかったようだ。平等院はは、宇治川のすぐそばにあるが、創建時は、宇治川は蛇行していて、平等院が立っているのはもともと中州のようなワンドのようなところだったという。そうなるともう、増水時には柱のへんまで水が来るたかもしれないし、大変なことになったのは想像に難くない。建てるとき、大工の棟梁か誰かが「ここは危ないでっせ」などと反対したかもしれないが、貴族は聞く耳を持たなかったのかもしれない。こんなところでよく1100年もの間、建物が流されもせず存続していたものだ。のちの時代に、宇治川をまっすぐにして堤防が作られ、洪水を免れたようだ。そんな水防とともに、池の形も、州浜から、しっかりした擁壁へと改変されたようだ。

 つまり池の原型は自然の川かワンドのようなものだったということになるが、そういう、陸地と水際とがあいまいになったような場所に、わざわざこんな建物を建てたというところに、平安時代の貴族の美意識があったのか。
posted by 進 敏朗 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以西) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月24日

平等院鳳凰堂の洲浜

州浜の汀線.jpg
洲浜の水際

子供が電車遠足で宇治の平等院鳳凰堂に行くというので、行ったら、池の水際が洲浜になっているので、それを撮ってきてほしいと頼むと、撮ってきてくれた。感謝。

創建時の姿を復元しようと、池の水際がそれまでの擁壁のような感じから、州浜に戻されたのが約10年前くらいだったが、まだ行ってみたことがなかった。どんな感じだろうと思っていたら、砂ではなくて、こぶし大の丸石が敷かれた石浜だった。1月に訪れた和歌山県新宮市の海岸を思い起こさせた。洲浜は、やはり彼岸という感じを増幅さすだろう。報道で知った、池の水際を浜でつくるという形式が、わが庭のメダカ池にまで影響を与えている。

平等院鳳凰堂と池.jpg
平等院鳳凰堂と池

これを建物を入れた構図で見ると、ちょっと引きが足りない気がする。浜の幅が30メートルくらいあったら、藤原頼道が目指した浄土感がかなり増していたのではないかと思えた。

しかしそれは、浜を固定したものとして見ているからそう見えるのではないかとも思えてきた。いろいろ調べてみると創建当時は、この建物は蛇行する宇治川の中州のようなところに建っていたのだという。となると、洪水があったりすると、柱のところまで水が来たりしたかもしれない。逆に渇水のときは池が枯れて、巨大な陸地になったりして、水位の変動で水際というものが一定していなかった可能性もある。

 よくこんな場所に建てて、1100年もの間、流されもせず存続していたものだ。大工の棟梁が、ここは危ないでっせ、もっと地盤のしっかりした山手のほうに建てなはれ、と助言したかもしれない。しかし、頼道は美と彼岸の追求しか眼中になく、そうした意見には耳を貸さなかった。それが幸いした。変動して水際か陸なのかあいまいな場所に美を追求するという平安貴族の感性に感慨深いものを感じる。
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2015年04月12日

上賀茂の水路

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社家の水路

京都は上賀茂で開かれた花見宴に、昨日捕獲し調理したホンモロコ南蛮漬けを差し入れた。
夕方からの仕事前で短時間の滞在。
そこは上賀茂神社の境内から流れてくる川だった。明神川というそうだ。

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しだれ桜

しだれ桜は開花期が遅めで満開だった。
この日、現場から上流の上賀茂神社では曲水の宴開催だったという。
川沿いに歌人が立ち、酒が入った盃が流れてくるまでに和歌を詠む催し。
そんな宴の余波が水流とともに伝わってくるかのような祝祭感。

この日花見宴に訪れた現場は同神社のゆかりの近世歌人加茂季鷹(かものすえたか)邸跡で、狂歌を得意としたという。江戸時代には今日の文人歌人のサロンだったという。今は邸宅はなく更地となっていたが、柿本人麻呂をまつった歌仙堂が建っていた。川は、邸宅敷地の中央を東西に貫く形で流れている。

現代では都市の自由人の国際感あふれるサロンとなっており、庵主よりシナモンの効いたカレーや、蒸し野菜料理、自然な風味のペーストのタコスを頂いた。感謝。缶ビールまでいただいた。

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金魚がいる

中をのぞくと、金網ごしに、丸々とした20センチくらいの金魚が群れを成していた。金色のコイもいるぞ。池は、けっこう広くて、幅3メートルくらい、長さは10メートル以上はありそうだった。池には中の島がある。南方向に枝分かれした湾もついている、手の込んだ地形に。川から取水しているので、水を換える手間がいらない。水量豊富で枯れる心配もない。濁らない。神社から流れてくる水は汚染の心配もない。これだけの水なら、渓流のマスとかも飼うのは不可能ではないのでは。なんというすばらしい池環境だろうとうらやましくなった。

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川(左)からの取水の仕組み

いったい誰がエサやりをしているのかと花見宴主催者の庵主氏に訪ねると、池を管理している地主の方は、郊外に住まれており、池の金魚の餌はタイマー式自動エサやり機で与えられているのだという。以前は金網はなかったが、サギに食われるので、金網を設置したのだという。

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川と石橋

東西に流れる川は、けっこう急流で、両岸が石垣で固められている。地面から水面までは、1メートルもないくらい低い。しかし、この急流のゆえに、水はけはよさそうで、かなりの大雨にも耐えられそうだ。これは、扇状地先端部の上賀茂であるがゆえに、意外と土地に勾配があるからこうした低い水面が可能なんだろう。

池は、その川の南側に、東西に長い形をしている。筆者をこの花見宴に招いた左京著述人氏は、この池は川跡ではないかという。がしかし、完全に東西方向に伸びた川筋は、人工の水路としか考えられない。まあ人工水路を引いたところ、それが氾濫して蛇行するようになったとも考えられる。だいたい家の敷地内を川が流れているなんて、あまり見たことがない光景だ。

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カーブした細長い池。もとの川跡だったという見方も

川底の石を拾ってみた。丸みは少なくて、もともとそこにあった石みたいにも見える。

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川の石を拾ってみた

1時間もしないうちに辞去。季節感のあふれる庭だ。庭の池というものを考えるうえで多大な参考となった。


posted by 進 敏朗 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以西) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする