2025年09月14日

勧修寺メダカ楽園

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勧修寺の氷室池

京都は山科区の勧修寺(かじゅうじ)に行った。
インバウンドでごった返す京都だが、ここ勧修寺は訪れる人もあまりおらず閑散としていた。
平安期創建の同寺には広大な池があった。
「氷室の池」と呼ばれ、池泉回遊式庭園の中心だが、想像以上に広くて驚いた。
9月も中旬となったがハスの花がちらほら咲いている。

あまり手入れはされておらず、池底から気泡がぼこぼこと湧いて出る。
泥がたまり、コイの姿は見られず。
カルガモが数羽、水上を移動しているが、ときおり体が上下動し、足を底に着け歩いているものと見受けられた。
優雅さに欠ける動きだ。

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鴨とハスの花

冬に枯れるハスが何年分も積もり、泥となって堆積しているのではではないだろうか。
草津市の琵琶湖では、西日本最大級といわれたハス群落がある年、とつぜん姿を消した。堆積した泥で酸欠となり、ハスの新芽の生育を阻害したのが原因とされた。
この池もこうした状態が続けばいつか、ハスが生えなくなる、などといったことが起きるのではと案じてしまう。

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蓮の葉陰のメダカの群れ

水面に波紋が立つので何だろうと思っていたらメダカがいた。
泥と同じ色をしているので気づきにくかった。
ハスの葉の陰になっているところにいたが、よく見るとそこらじゅうがメダカだらけだった。
ほかの魚は見られず、この巨大な池全体がメダカに占有されているようだ。

係の人に聞くと、このメダカは放して増やしているわけではなく、昔からいたものだという。
これを食べにカワセミもやってくるのだというが、これだけ繫栄していたらカワセミも食べきれないだろう。

京都市内にこんなメダカが繁栄している池があったのかとびっくりしたが、思い返すと、右京区の花園駅前の法金剛院の池にもメダカが繫栄していた(2023年7月2日「花園の池」参照)。
こうした古寺の池は水が完全に干上がることがなく、これがメダカの楽園となっているのか。

勧修寺の案内によると「氷室の池」は、平安時代には毎年1月2日に、池に張る氷を宮中に献上し、その厚さでその年の豊凶を占ったとされる「京都でも指折の古池」という。
おそらくその時代には、池はもっと深くて澄んでいたのではないだろうか。
池を浚渫し、厚くたまった泥を除去して、願わくば多分、他の水草が生えない原因になっているであろうザリガニを駆除し、美しい水を復活させれば、素晴らしい情緒が再現できるんじゃないかと思った。

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2023年07月02日

花園の池

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法金剛院で池をバックにハスの花

山陰線の花園駅は市街地に立地する駅の割に駅前がひっそりとしている。
駅の前を走る丸太町通の向かいの左手には、法金剛院の緑の生垣がまっすぐなラインをつくり、まちづくりの「にぎわい創出」とは対極の静穏な空気を漂わせていた。
ここは平安時代の初期に貴族の別荘が築かれて以来、こんにちまで連綿として邸宅や寺院として続いており、京都でも数少ない平安時代の遺構が見られる場所という。
天長7年(830年)ごろ、右大臣の清原夏野が別荘地としたのが始まりといい、珍花奇花を集めた。それで花園という地名となったそうだ。
その数年前の平安京では、空海が雨乞いの祈祷をして各地に雨を降らせたりしていた。いにしえの時代。
花園付近には花園高校や花園大学もあり、これは妙心寺派が設立した学校なので花園=妙心寺のイメージを抱いていたが、それよりも数百年古い法金剛院が花園の元祖であった。
平安遷都以来つづく京のまちだが、平安時代のものがこんにちまで続いている場所はそんなに多くない。

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夏空の庭園全景

そんな古寺にふと入ってみた。池があって夏の蓮が有名だ。
満開だったのはアジサイで、盛りを過ぎたナツツバキもきれいだ。蓮は、咲き始めで多くはなかったが、緑の葉に張りがあって美しい。

池は、昭和45年(1970)に掘り出され、復元された。
平安時代末期の大治5年(1130)、鳥羽天皇の中宮、待賢門院がこの場所にあった天安寺を復興して「法金剛院」としたときと同じ場所、遺構なのか。そうだったらいいなと思ったが、後で調べると、平安時代そのままの遺構ではないようである。

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水際が曲線を描く洲浜

もともと境内は丸太町通りや山陰線の南側まで広がっていたらしく、昭和43年の丸太町通拡幅時や、その後の花園駅の駅舎高架化の際の調査で遺構が出土している。花園駅の駅前広場のあたりに寝殿造の建物があったと、京都市埋蔵文化財研究所の資料にあった。池の本体も、いまの場所よりも南の丸太町通から花園駅にかけて広がっていた。
こうしてみると花園の駅は、法金剛院のもともとの敷地内につくられたことになり、駅名が「花園」であるのは由緒深いものだったのである。

さて、庭を訪れ、池をめぐる。
池でよかったのは、丸石を敷き詰めた洲浜。
そこは陸地と水際とのゆるやかな境目であり、水へのアプローチ。やっぱり、これがあることで池の趣はぜんぜん違ってくるように私には見える。
池造り、やっぱり洲浜がないとね。
この洲浜は復元されたものと思われるが、発掘された平安期の池跡からも洲浜が見つかっているそうである。
私のメダカ池は畦シートで取り囲み、それを粘土や砂、小石で埋め立てて造り、何とかして州浜を表現しようとしたが、できたのは州浜ではなくて草やコケが入り乱れた湿地で、浜というより潟という感じになってしまった。
何がだめだったのか。法金剛院の洲浜をよく見ると、水際が曲線を描いている。
これが洲浜の秘密かと、あらためて気づかされた。

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メダカが立てる波紋

池には、無駄な餌を与えていないか、もしかするとまったく餌を与えずに育てているのではと思わせる引き締まったニシキゴイのほか、浅瀬に無数のメダカが集まり小さい波紋を立てる。
ぱっと見える範囲だけで1000匹以上はいるだろう。浅瀬の大群のほか、池の全域に見られ、稚魚も多数で繁栄している。
メダカ、黒い在来種なのが素敵である。ボウフラ退治にも役立つだろう。

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巨石を組み合わせた青女の滝

池の奥には、日本最古級の人工滝遺構「青女の滝」。
待賢門院の発注で仁和寺の僧、静意と、林賢によって造られたとされる。
昭和の発掘調査時には、岩の上部が地表に露出しており、掘り下げたところ滝石が発掘されたという。
京都では長い歴史の中に戦乱も多くて、以前の遺構が残らないことが多い中、かなり貴重だと思う。

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滝からの流れ込み。池まで距離がある

滝の奥は小さな山となっており、巨石を組み合わせて、深山の趣を表現しているのだろうか。
そして滝は直接池に落ちるのではなくて、流れ込みがあって、「川」となって池に注いでいる。
「極楽浄土」をテーマに築かれた庭園と伽藍。
山、滝、流れ込み(川)、池と、地形を再現している。
そこには平安時代の何かの世界観が反映されているだろう。どこかおおらかというか。
もっと時代をさかのぼると、飛鳥時代の玉石張りの人工感満載の庭園があるが、そこよりも時代が新しい平安京のこの庭園からは、自然をトータルに再現して極楽浄土を表現したいという欲求を感じる。
右京の地域が都から外れた別荘地だったということもあるかもしれない。
滝は直接、池に落ちてはいないのは大覚寺の名古曽の滝の遺構でも同じであった。滝水がいったん川となって池に注ぐことに興趣を感じていたのである。

私は自宅の庭にメダカ池を築いたが、偶然にも同じように、池に水を引くのに流れ込みをつくり、ちょっと川っぽくした。自然の地形を再現しようとしてそうなったのだが、平安時代の感性につながっていたのだった。
法金剛院の池、私の理想とするメダカ池が、ここにあるのではという気がした。
平安時代の人は、庭園に極楽浄土を求めた。末法の世到来とされた時代ムードのなか極楽浄土を求める心は、現代にはそのまま通じるかはわからないが、自然をミニチュア的に再現した庭などに理想世界を求める現代人の心は、平安時代と案外通じるものがあると思う。
本尊である平安期の国宝の阿弥陀仏を拝観するのも忘れ、池に見入った。










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2022年05月11日

大田神社のカキツバタ

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カキツバタ群落

有名な大田神社のカキツバタを鑑賞した。
平安時代から貴族にめでられていたカキツバタ群落。
尾形光琳の絵にも。
これがあのカキツバタか。そんなことを思って眺めた。
青紫色の花が、池一面に見られた。
千年以上も、遷移もせずに同じ植物が生え続けているのはすごいことだなと思う。

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満開のピークは少し過ぎていたものの見ごたえは十分だった。
有名だから、観光客がもっと来ているかと思ったがそんなことはなく、静かに距離をとってみることができた。
コロナも3年目になり、この連休は蔓延防止などの対策も取られず京都の有名観光地はかなりの人出でにぎわったという。
しかしカキツバタ群落は、観光客が沸騰する以前の、のんびりした風情が残っていた。平日だったからか。

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神社に流れる水

神社の境内には、山からと思われる水が流れており、タゴガエルというカエルがいるそうだ。
石垣のあたりから鳴き声が聞かれた。腹の黄色い小鳥が2羽、石製の樋のところで水浴びをしていた。




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2022年03月07日

昆陽池

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昆陽池公園の入り口

兵庫県伊丹市の昆陽池(こやいけ)に行く。
昆陽池は、奈良時代に行基が築いたとされる古いため池。
かつては「昆陽下池」もあり広大だった模様。
武庫川、猪名川に挟まれた断層地帯の地形を利用したとされる。湖には「断層湖」があるが、ため池にも「断層池」があるのか。

それが今では、公園として市民の憩いの場になっているという。
JR伊丹駅からバスに乗り約10分、住友の広大な工場の生垣の横を通り、池の入り口の「松ヶ丘」バス停で降りると、売店、大きな石彫作品も備わった公園の入り口が見えた。

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公園の案内看板

公園の案内看板があった。
池の中に島が浮かんでおり、日本列島の形になっていた。
伊丹空港から発着する飛行機から見えるようにと発案されたそうだ。伊丹市によると1968年に一部公園化、72・73年に現在の姿に整備。

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池全景

通路をまっすぐ歩くと池全景が見える。西のほうから東の方角を見ていることになる。
日本列島の形をしている島は、横からみるとその形は判別できない。左のほうが九州で、四国や紀伊半島、関東地方が眼前に見えているはずだ。
樹木が白くなっていて、雪かと思ったら樹上にいたのはカワウだった。
新聞記事の情報などによると1996年に最初の巣が見つかったといい、2000年代初頭には2000羽を数えたということだった。現在も、相当の数がいるように見受けられる。
カワウ、木を枯らすし、魚も食べまくるので、琵琶湖周辺では「害鳥」として嫌われている。
昆陽池では放逐せずに20年以上も営巣が続く。真黒な見た目もダークなイメージだが、耳に届く鳴き声はヒルルルと透明感がある。

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鴨休む

いっぽう、鴨たちは手前の岸におり、人が近寄っても動かずに休んでいる。慣れているようだ。
鴨の低いグワッグワッという鳴き声のほうが、抱いていたカワウのイメージに近いがそれは違う。



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コウノトリもいる(池のいちばん奥の岸の白い点)

池の北岸を進むと、対岸にコウノトリもいた。
双眼鏡で確認。
望遠レンズがなかったので、撮ったが、池のいちばん奥の岸辺にたたずんでいた。
最近、3羽が飛来してきたという。同池に飛来したのは公園整備以来初だということのようだ。

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昆虫館

遊歩道の奥には、チョウのモザイクが鮮やかな建物。昆虫館があった。
1990年の開館。中にはチョウを放つ温室があった。

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温室の中

チョウ温室としてはかなりの規模で、極彩色の花やチョウの楽園が広がっておりまるで幻覚を見ているようだった。
早春とはいえまだ寒い外のモノトーンの世界と対照的な世界が広がる。
滋賀県にも灌漑用ため池は多いが、ここまで盛り立てられた池はないと思う。
野鳥いろいろ見られて密度の濃い場所だった。


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2021年10月27日

寺戸川のコイ

JR向日町駅から阪急東向日駅へと向かう途中に渡る深田橋から、寺戸川が見える。
そこの壁沿いにコイが泳いでいた。1年間通ったが、この川で魚を見たのは初めてだった。

posted by 進 敏朗 at 23:27| Comment(0) | 水辺を見る(滋賀以西) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする