2022年05月11日

大田神社のカキツバタ

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カキツバタ群落

有名な大田神社のカキツバタを鑑賞した。
平安時代から貴族にめでられていたカキツバタ群落。
尾形光琳の絵にも。
これがあのカキツバタか。そんなことを思って眺めた。
青紫色の花が、池一面に見られた。
千年以上も、遷移もせずに同じ植物が生え続けているのはすごいことだなと思う。

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満開のピークは少し過ぎていたものの見ごたえは十分だった。
有名だから、観光客がもっと来ているかと思ったがそんなことはなく、静かに距離をとってみることができた。
コロナも3年目になり、この連休は蔓延防止などの対策も取られず京都の有名観光地はかなりの人出でにぎわったという。
しかしカキツバタ群落は、観光客が沸騰する以前の、のんびりした風情が残っていた。平日だったからか。

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神社に流れる水

神社の境内には、山からと思われる水が流れており、タゴガエルというカエルがいるそうだ。
石垣のあたりから鳴き声が聞かれた。腹の黄色い小鳥が2羽、石製の樋のところで水浴びをしていた。




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2022年03月07日

昆陽池

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昆陽池公園の入り口

兵庫県伊丹市の昆陽池(こやいけ)に行く。
昆陽池は、奈良時代に行基が築いたとされる古いため池。
かつては「昆陽下池」もあり広大だった模様。
武庫川、猪名川に挟まれた断層地帯の地形を利用したとされる。湖には「断層湖」があるが、ため池にも「断層池」があるのか。

それが今では、公園として市民の憩いの場になっているという。
JR伊丹駅からバスに乗り約10分、住友の広大な工場の生垣の横を通り、池の入り口の「松ヶ丘」バス停で降りると、売店、大きな石彫作品も備わった公園の入り口が見えた。

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公園の案内看板

公園の案内看板があった。
池の中に島が浮かんでおり、日本列島の形になっていた。
伊丹空港から発着する飛行機から見えるようにと発案されたそうだ。伊丹市によると1968年に一部公園化、72・73年に現在の姿に整備。

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池全景

通路をまっすぐ歩くと池全景が見える。西のほうから東の方角を見ていることになる。
日本列島の形をしている島は、横からみるとその形は判別できない。左のほうが九州で、四国や紀伊半島、関東地方が眼前に見えているはずだ。
樹木が白くなっていて、雪かと思ったら樹上にいたのはカワウだった。
新聞記事の情報などによると1996年に最初の巣が見つかったといい、2000年代初頭には2000羽を数えたということだった。現在も、相当の数がいるように見受けられる。
カワウ、木を枯らすし、魚も食べまくるので、琵琶湖周辺では「害鳥」として嫌われている。
昆陽池では放逐せずに20年以上も営巣が続く。真黒な見た目もダークなイメージだが、耳に届く鳴き声はヒルルルと透明感がある。

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鴨休む

いっぽう、鴨たちは手前の岸におり、人が近寄っても動かずに休んでいる。慣れているようだ。
鴨の低いグワッグワッという鳴き声のほうが、抱いていたカワウのイメージに近いがそれは違う。



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コウノトリもいる(池のいちばん奥の岸の白い点)

池の北岸を進むと、対岸にコウノトリもいた。
双眼鏡で確認。
望遠レンズがなかったので、撮ったが、池のいちばん奥の岸辺にたたずんでいた。
最近、3羽が飛来してきたという。同池に飛来したのは公園整備以来初だということのようだ。

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昆虫館

遊歩道の奥には、チョウのモザイクが鮮やかな建物。昆虫館があった。
1990年の開館。中にはチョウを放つ温室があった。

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温室の中

チョウ温室としてはかなりの規模で、極彩色の花やチョウの楽園が広がっておりまるで幻覚を見ているようだった。
早春とはいえまだ寒い外のモノトーンの世界と対照的な世界が広がる。
滋賀県にも灌漑用ため池は多いが、ここまで盛り立てられた池はないと思う。
野鳥いろいろ見られて密度の濃い場所だった。


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2021年10月27日

寺戸川のコイ

JR向日町駅から阪急東向日駅へと向かう途中に渡る深田橋から、寺戸川が見える。
そこの壁沿いにコイが泳いでいた。1年間通ったが、この川で魚を見たのは初めてだった。

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2021年05月25日

水無瀬の滝


五月の心地よい天気の中。
大阪府島本町を訪ねた。
島本は京都府大山崎町に隣接していて、阪急の大山崎駅でおりると、水無瀬離宮はあちら、という道標が立っており、駅前の西国街道を大阪方面に歩くと、5分もしないうちに府境に出る。
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水のある水無瀬川

水無瀬川は、その名が表すように下流部は、水が伏流して流れがないはずだが、2日前の大雨の影響で、この日は豊かな流れがある水有り川だった。
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島のような水無瀬神宮の森

水無瀬神宮には平日ながら、ポリタンクに名水をくむ人がたえない。この日の島本来訪の目的は、後鳥羽上皇の水無瀬における滞在地の探索。
かつて水無瀬離宮だった神宮は桂川から近い低地にあり、船でのアクセスが便利だったとみられる。
船着き場もあったはずだが、それはどこだか分からない。川の地形も、800年前とは変わっている。

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森の周りの堀

神宮は濠に囲まれていたような感じで、低地の趣があった。
離宮はいちど、桂川の洪水を受け、その後は近くの高台に建て直された。それが承久の乱の5年前の1216年のことだったという。
その場所は、10年前くらいの調査で、大手製薬会社の研究棟が建っている高台のところから庭園跡が出てきた。
ちょうど水無瀬神宮からは真西の方向だった。

さて、そうした水無瀬離宮関係の施設を確認した後、滝に向かった。
五月の午後はさわやかで、少しだけ暑かった。
西国街道の水無瀬川の橋から、少し山崎方向に進んで、セブンイレブン前を山手に進む。

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滝へ誘う名神下のトンネル

住宅街の道を行くと、名神の下をくぐる道があった。名神の向こうが滝だった。

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名神高速道路には島本町の看板が

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滝が近づいてきた

滝は、高低差は20メートルくらいだろうか。岩を削って見事な景観。

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水無瀬の滝

これも2日前の大雨の影響で、天王山からの水量が多く、涼をさそった。
やっぱり滝は、水が多い時に見るに限る。
後鳥羽上皇や定家も訪れただろう。その時は静かな滝だっただろう。
西国街道の分岐から徒歩10分とアクセスもよくて、地元のシンボル的な景観ではないかと思われた。

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滝のすぐ前は名神高速道路

すぐ脇が名神だったとは知らなかった。注意していれば、運転していても、左ルートの左車線からは一瞬、ちらっと見ることができるのではないだろうか。
だから通過車両の音も相当するので、音環境はあまりよろしくない。

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少し暑い日

こうして歩いてみると、後鳥羽上皇の鎌倉時代には存在していた街道や滝などがあって、高速道路から見るのとはまったく違った空気感があった。





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2021年05月16日

紀州の浜と川

今年は承久の乱から800年。
京都文化博物館でそれを特集した展覧会が開かれているのを4月下旬に見た。後鳥羽上皇や藤原定家の筆跡はじめ、後世に描かれた合戦の絵図。後鳥羽天皇の下がり眉、など、味わい深かった。ほどなく緊急事態宣言で閉館となり、展覧会もそのまま終わってしまった。ぎりぎり見れてよかった。

歴代皇族の中でも行動的だった後鳥羽上皇。僧侶への弾圧も行っていることも知り、それは残念な気がしたが、歴史上の人物の実像のほうを自分がイメージするキャラクターへ落とし込むことはできない。展覧会の説明だと、ねたみから女性に人気の若手僧侶らを捕えて処刑、流罪としたというが、そういうこともやったのか。まあそこは昔と今は社会も違うので、現代の感覚で昔の人の行いを断じてはいけないということだろう。

後鳥羽上皇は24年間で28回も熊野詣をしたそうである。いちど旅立ったら1か月くらいの行程となり、これを毎年、行っていたわけだから相当な体力で、定家らお伴の人もだいぶ消耗しただろう。それだけ世の中も平穏だったのか。
熊野に行っている間に女官が出家してしまい、それが法難につながったがったということもあったそうだが、ひと月も家を空けるようなことが定期的にあったら、目が届かなくなることも仕方ないだろう。

さて後鳥羽上皇らは熊野に参詣しただけでなくて、行った先で和歌も詠んだ。そのときの紙が「熊野懐紙」といって今でも残っているからすごいものだ。
その現場に行ってみたくなり和歌山を訪れた。滋賀から和歌山はけっこう遠いのだが、行ける時に行っておきたい。後鳥羽上皇ではないがお朋を連れて。

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千里の浜

高速道路で出ること約3時間。
和歌山県に入り、和歌山市から海南、御坊と南下した。
高速道路は山を突き抜けてトンネルの連続だ。
御坊市より南から海岸に近づき、印南で降りて海辺に出た。
そこには王子という、熊野大社を本拠地とする神社が海岸にあった。
和歌山の道沿いに王子社が続いている。
千里(ちさと)浜に面していたが、浜は波が打ち寄せ不気味だった。
ウミガメも産卵にやってくるようでキャンプ禁止などとなっている。
筆者は山陰の日本海を海の基準としているためウミガメ、さすが太平洋側だと思った。

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置かれた貝類

ここにも後鳥羽上皇らご一行が来ていたことが伝えられる。
貝の王子ともいわれ、貝が奉納されていた。
柵の上に、この浜で拾われたと思われる小安貝といわれるタカラガイ類や、イモガイがびっしり並んで印象的な光景をかたちづくる。

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小安貝の口を並べてみた

この神社、これだけ海に直面しているから、津波が来たら流失してしまいそうだが、過去にそのようなことはあったのだろうか。
そこで私と朋も、貝を拾って奉納した。

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拾った貝

そして一部を持ち帰った。
砂浜の植物をいろいろと見学。
また、崖を見ると礫岩のような、石が集まってできたピーナッツチョコのような黄色っぽい岩で、これがために、このへんの浜の色は、紀伊半島に多い黒っぽい砂利ではなくて、黄色いやつと黒いやつの二つの色の場所からできていた。

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崖から落ちてきたとみられる大石


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滝尻王子社

そこから、田辺を通り過ぎ、富田川沿いを上ること約10キロ。
中辺路の入り口に滝尻王子があった。
そこで後鳥羽上皇のご一行が和歌を詠んだ。
そこは川沿いの静かな社だった。その場所までは谷沿いに、わりと平坦な道を進むが、そこから先は峠道となり、さあいよいよここからだ、というポイントであったようだ。
歌を詠む興趣も盛り上がったのだろうか。

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富田川

富田川の水は透明であった。鮎は、まだ遡上していないみたいだった。

翌日はかなり早い梅雨入り。田辺にある南方熊楠邸を見た。
朋が、子供の頃熊楠が好きだったといい邸宅訪問に興奮気味だった。
町の一等地らしく大きなお屋敷が並んでいた。
熊楠邸も敷地が広くて母屋や別棟、収蔵庫となっていた倉庫を備えた立派な邸宅だった。
小屋の一角には年月がたって色褪せた貝もある。

広い庭園には多種の樹木があって、新種の粘菌を発見した柿の木などが残っていた。
安藤ミカンというミカンがあり、そのミカン汁を熊楠は毎日飲んでおり、地域での栽培をすすめたということだった。

粘菌と言えば先日、田上の山中で、友人らと山をめぐり、それらしきものを源流部で見たばかりで、粘菌づいている。
熊楠邸では梅雨がはじまって、蚊も出現したが、熊楠は夏季、裸ですごしていた上に、蚊屋に入らなかったとある。どうやって蚊の来襲に備えていたのだろう。刺されても平気だったのか、刺されないような蚊取り線香類、薬などの対策が入念だったのか?

標本箱のありようについて、マッチ箱のような方式がきれいだなと朋と話す。
海と山、川、入り江や谷間に広がる町や集落。
田辺の町は、駅前の規模や雰囲気からは滋賀でいえば近江八幡か、長浜くらいの感じの大きさに感じられた。

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熊楠の書斎

熊楠は和歌山城下で生まれ、進学で東京、その後アメリカ留学、イギリスに渡ったのち、帰国して、住んだのが和歌山県南部の中心都市、田辺で、明治から大正、昭和初期にかけての時代にこれだけ世界を見て回った人が、帰国後に地方の町に住み続けて、わりと食べて飲んで自然に分け入り、やりたいことをやって心安らかに生活を送っていたように見受けられた。
そのころ田辺にはまだ鉄道も通っておらず、交通手段は汽船だった。背後には古くからの信仰を集めた熊野の森があって、港がある田辺の町は汽船の便があり、新聞社や慰楽の場もあって、文明世界との結節点のようだった。こうした地域の中心地に定住して、中年以降晩年までをすごした人生を思い浮かべた。










posted by 進 敏朗 at 00:00| Comment(0) | 水辺を見る(滋賀以西) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする