今年は承久の乱から800年。
京都文化博物館でそれを特集した展覧会が開かれているのを4月下旬に見た。後鳥羽上皇や藤原定家の筆跡はじめ、後世に描かれた合戦の絵図。後鳥羽天皇の下がり眉、など、味わい深かった。ほどなく緊急事態宣言で閉館となり、展覧会もそのまま終わってしまった。ぎりぎり見れてよかった。
歴代皇族の中でも行動的だった後鳥羽上皇。僧侶への弾圧も行っていることも知り、それは残念な気がしたが、歴史上の人物の実像のほうを自分がイメージするキャラクターへ落とし込むことはできない。展覧会の説明だと、ねたみから女性に人気の若手僧侶らを捕えて処刑、流罪としたというが、そういうこともやったのか。まあそこは昔と今は社会も違うので、現代の感覚で昔の人の行いを断じてはいけないということだろう。
後鳥羽上皇は24年間で28回も熊野詣をしたそうである。いちど旅立ったら1か月くらいの行程となり、これを毎年、行っていたわけだから相当な体力で、定家らお伴の人もだいぶ消耗しただろう。それだけ世の中も平穏だったのか。
熊野に行っている間に女官が出家してしまい、それが法難につながったがったということもあったそうだが、ひと月も家を空けるようなことが定期的にあったら、目が届かなくなることも仕方ないだろう。
さて後鳥羽上皇らは熊野に参詣しただけでなくて、行った先で和歌も詠んだ。そのときの紙が「熊野懐紙」といって今でも残っているからすごいものだ。
その現場に行ってみたくなり和歌山を訪れた。滋賀から和歌山はけっこう遠いのだが、行ける時に行っておきたい。後鳥羽上皇ではないがお朋を連れて。
千里の浜
高速道路で出ること約3時間。
和歌山県に入り、和歌山市から海南、御坊と南下した。
高速道路は山を突き抜けてトンネルの連続だ。
御坊市より南から海岸に近づき、印南で降りて海辺に出た。
そこには王子という、熊野大社を本拠地とする神社が海岸にあった。
和歌山の道沿いに王子社が続いている。
千里(ちさと)浜に面していたが、浜は波が打ち寄せ不気味だった。
ウミガメも産卵にやってくるようでキャンプ禁止などとなっている。
筆者は山陰の日本海を海の基準としているためウミガメ、さすが太平洋側だと思った。
置かれた貝類
ここにも後鳥羽上皇らご一行が来ていたことが伝えられる。
貝の王子ともいわれ、貝が奉納されていた。
柵の上に、この浜で拾われたと思われる小安貝といわれるタカラガイ類や、イモガイがびっしり並んで印象的な光景をかたちづくる。
小安貝の口を並べてみた
この神社、これだけ海に直面しているから、津波が来たら流失してしまいそうだが、過去にそのようなことはあったのだろうか。
そこで私と朋も、貝を拾って奉納した。
拾った貝
そして一部を持ち帰った。
砂浜の植物をいろいろと見学。
また、崖を見ると礫岩のような、石が集まってできたピーナッツチョコのような黄色っぽい岩で、これがために、このへんの浜の色は、紀伊半島に多い黒っぽい砂利ではなくて、黄色いやつと黒いやつの二つの色の場所からできていた。
崖から落ちてきたとみられる大石
滝尻王子社
そこから、田辺を通り過ぎ、富田川沿いを上ること約10キロ。
中辺路の入り口に滝尻王子があった。
そこで後鳥羽上皇のご一行が和歌を詠んだ。
そこは川沿いの静かな社だった。その場所までは谷沿いに、わりと平坦な道を進むが、そこから先は峠道となり、さあいよいよここからだ、というポイントであったようだ。
歌を詠む興趣も盛り上がったのだろうか。
富田川
富田川の水は透明であった。鮎は、まだ遡上していないみたいだった。
翌日はかなり早い梅雨入り。田辺にある南方熊楠邸を見た。
朋が、子供の頃熊楠が好きだったといい邸宅訪問に興奮気味だった。
町の一等地らしく大きなお屋敷が並んでいた。
熊楠邸も敷地が広くて母屋や別棟、収蔵庫となっていた倉庫を備えた立派な邸宅だった。
小屋の一角には年月がたって色褪せた貝もある。
広い庭園には多種の樹木があって、新種の粘菌を発見した柿の木などが残っていた。
安藤ミカンというミカンがあり、そのミカン汁を熊楠は毎日飲んでおり、地域での栽培をすすめたということだった。
粘菌と言えば先日、田上の山中で、友人らと山をめぐり、それらしきものを源流部で見たばかりで、粘菌づいている。
熊楠邸では梅雨がはじまって、蚊も出現したが、熊楠は夏季、裸ですごしていた上に、蚊屋に入らなかったとある。どうやって蚊の来襲に備えていたのだろう。刺されても平気だったのか、刺されないような蚊取り線香類、薬などの対策が入念だったのか?
標本箱のありようについて、マッチ箱のような方式がきれいだなと朋と話す。
海と山、川、入り江や谷間に広がる町や集落。
田辺の町は、駅前の規模や雰囲気からは滋賀でいえば近江八幡か、長浜くらいの感じの大きさに感じられた。
熊楠の書斎
熊楠は和歌山城下で生まれ、進学で東京、その後アメリカ留学、イギリスに渡ったのち、帰国して、住んだのが和歌山県南部の中心都市、田辺で、明治から大正、昭和初期にかけての時代にこれだけ世界を見て回った人が、帰国後に地方の町に住み続けて、わりと食べて飲んで自然に分け入り、やりたいことをやって心安らかに生活を送っていたように見受けられた。
そのころ田辺にはまだ鉄道も通っておらず、交通手段は汽船だった。背後には古くからの信仰を集めた熊野の森があって、港がある田辺の町は汽船の便があり、新聞社や慰楽の場もあって、文明世界との結節点のようだった。こうした地域の中心地に定住して、中年以降晩年までをすごした人生を思い浮かべた。