2024年11月16日

境川

尾張と三河の国境の川

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鏡のような川

愛知県の境川沿いを歩いた。
尾張と三河の国境の川ということで境川。同名の川は滋賀にもあるし、東京都の町田にもあった。各地にあるだろう。
この日は豊田市まで美術展に行った。
その余興で、近くの川を見ようと訪れたのだった。

境川が気になったのは、源流部の標高が100メートルくらいという低さだった。
川というものは山の奥に源流部があるものと思い込みがあるが、この境川はゴルフ場になっている。
源流部が見える川というのはどのようなものだろうと思って歩くことにした。

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田んぼの向こうの集落は高台になっている

JR東海道本線の逢妻(あいづま)駅で下車。
境川の左岸で三河の刈谷市の駅。
川の下流部にあたる地域だ。
集落は高台になっていて、田んぼよりも数メートル高い。「高津波町」という町名も、水の記憶がにじみ出ているのではないだろうか。
駅からまっすぐ進み、左に折れると住宅地の先が下り坂になって田園に出る。
田んぼは、海抜ほぼゼロメートル。
田んぼの先に、高さ5メートルほどの高い堤防があり、その内側が境川だ。

堤防で区切られた支流や樋門

境川大橋を渡る。
川は2本の堤防で区切られており、東側は支流の逢妻川が、境川と合流することなく堤防で区切られている。
これと同じ構造は淀川の三川合流地点にもあった。洪水を防ぐ対策だろう。

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河口から5キロを表示するくい

境川の下流はぼわーっと広がっていき、衣浦湾につながっている。
河口から約5キロの境川大橋の地点でも、川幅は広くて橋は200メートルくらいある。
川の流域面積はそれほどでもないが川幅は広い。
これだけの幅でいわば沼沢地が広がっていたわけだから、陸上交通の妨げになったであろう。
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石づくりの樋門が見えてきた

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樋門の上を渡る支流

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切り石を固めた「たたき」

明治時代の樋門もあった。
境川は天井川で、支流が立体交差して境川に注ぐ。花崗岩が風化した真砂土の土質のようだ。天井川は滋賀県でもなじみがある。

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渡ろうとした清水橋であったが…

その上流、東海道新幹線の鉄橋の手前に「清水橋」があったが、老朽化のため2018(平成30)年から通行止めとのこと。
グーグルのストリートビューで事前学習してきたが、同橋の上から捕った画像もあったので渡れるかと思っていたらそうではなかった。
仕方なく上流まで川の右岸側を歩き、次の橋で渡る。

橋の上からはコイ、ブラックバス、オイカワかカワムツのような魚が見られた。
鳥ではカワウ、サギ、カモなど。

思ったより人を隔てる川

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川の合流地点に設けられた排水機

左岸側の本流わきの排水路沿いを歩いた。
境川が天井川のため、排水対策で脇に幅約10メートルの川が並走していたのであった。
川のはコイが多数見られた。

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コイが多かった排水路

犬と散歩しているおじさんに「コイがいますね」と声をかけてみた。
「この川の魚はこの50年食べていない」とおじさん。
なぜかと問うと、上流にパンの工場ができ、下流には養豚場があり、垂れ流しでヘドロがたまった、という。
「下流の橋のところにはわき水があった」との情報も。

そして境川について、ここが三河と尾張の国境だと教えてくれたのだが、
「川の向こうとは仲が悪い」と話す。
なぜですか、と聞くと、
尾張徳川の威をかりて、無理なことを言ってきたからなのだという。

そうなのか。江戸時代の昔の遺恨が、今でも年配の人の口をついて出てくるのか。
川とは思った以上に人を隔てるものなのだなと思った。
そこから名鉄の富士松駅に向かった。

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お富士の松(3代目という)

源流は小規模だった

美術館のあと、名鉄豊田線で「三好ケ丘」下車。
この先に、境川の源流部があるのだ。
駅の脇にすぐ、境川があった。

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源流への道

川幅はかなり細くて、数メートルになっていた。あと2キロ足らずで源流なのだ。
住宅地が切れて、低い丘陵に挟まれた田んぼの真ん中を、鉄分で茶色くなった川底の流路がまっすぐに続く。
徒歩約20分、ため池についた。ここが水源である。
昨夜、雨が降ったためか、水が池から流れ下りている。

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ついに源流か

人工的な水源だ。
こんな風に川が始まっているのか。
あまり源流感がないというか。

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水源のため池。奥はゴルフ場のようだが入れず

滋賀県では、瀬田丘陵から流れてくる長沢川とか、野洲の希望が丘あたりが源流の家棟川とかに似ている。
だが、長さが22キロもある川の源流とはとうてい思えない。

境川の下流部は海抜ゼロメートル地帯が続く低湿地だ。
この川の東にある矢作川の中流は海抜が数十メートルあって、この高低差をうまく利用して明治用水がつくられたのだが、なぜ矢作川は低地の境川流域に流れ込まないのか。不思議な感じがした。











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2024年09月16日

西濃メダカ探訪

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なつかしい近鉄カラー車両行き違い(養老鉄道・東赤坂駅)

残暑の中、小川探訪へ

東海道線で米原で乗り換え岐阜県の大垣までに行く。
平野部の小川のメダカが見たい。そんな乗り鉄と散歩の周遊を企画した。
JR西日本から東海に乗り継ぐとき「エリア外」に出た感。

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河間に着いた

大垣駅で9時28分発の養老鉄道に乗り「東赤坂」下車。
北西約1キロ、北方町の「河間(がま)」を目指す。
河間とはわき水の池で、現在も残っているのは珍しいという。

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白ゴイ泳ぐ池の中。水位が下がり石垣露出

10年前に同所を訪れた(2014年9月7日「水都と古生代の海(上)」)。その際は周囲の湿地に水があふれメダカの群泳がみられたが、今回は周囲は草むらとなっていた。

以下の写真3枚は2014年の同じ場所である。

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池の周囲に水があふれている

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建設中の高架道路

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メダカが見られた

ハリヨの池で目を懲らしたが…

10年前には水が豊富でメダカが見られたのだったが、今回は池の水位が低かった。
次に、さらに北西方向に歩き曽根沼を目指す。

集落内の保育園のあるお寺の外周の溝でメダカ群泳。
眺めていると住職さんらしき方から声をかけられる。
「それはメダカですよ」と住職さん語りかける。しばらくメダカの話をする。
溝には境内からわき水が流れ出ている。やはり、わき水やメダカを愛好する人は一定存在するのだな。
お寺は環境を守るセンターなのかもしれない。

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趣のある果物店

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ハリヨがいるという池。確認できず

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萩の花

途中、趣あるバナナや果物の店の前を通過し、ハリヨがいるという池に着く。目を懲らしたがハリヨを確認できず。
ザリガニ捕りとみられるわなが数個仕掛けられている。池の中には水草がほとんどない。
駆除に力を入れている様子だった。
私は「下流からの侵入を防いで」と、心の中で叫んだ。

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ブラックバス

隣に大きな池があり、そこでは少年が20センチほどのブラックバスを釣り上げていた。
趣ある池だが、ブラックバスもすみやすそうだ。

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水量豊富な平野井川

池のすぐ西側には平野井川があった。
平野のわき水(井)が豊富な川のようだ。
水量が豊富で流れが緩やか、カーブの内側は避難所になりそう。
水も澄んでいて水草も豊富だ。
メダカも水がないときとか冬場にはここに逃げ込めば、消滅することなさそうだ。

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中世は城だったという華溪寺

曽根沼の南側には華渓寺があり、自噴水を提供していた。

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自噴水をいただく

深さ140メートルの掘り抜き井戸から噴出する水は量が多かった。

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バイカモ咲く

井戸の出口には小さな水路がこしらえてあって、バイカモが咲いていた。

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メダカがいる小川(拡大すると確認できます)


そして付近の水路で、メダカの群れを確認。
やっと見たい光景を見ることができた。
やはり、お寺は環境を守るセンターなのかもしれない。
大垣では、ハリヨの生息地があることが誇りとなっているが、メダカが身近に見られる場所も他ではだいぶ少ないので、メダカにも目を向けてもらえればうれしい。

用水路にバイカモ、ハリヨの池

それにしても、9月も中旬というのに暑い。
路線バスで大垣駅まで戻ろうとしたが、11時半ごろの便にわずかに間に合わない。
そこで別路線を目指し、約1キロ南の岐阜共立大まで歩く。
コンクリ水路にメダカ、小ブナの群れをみる。
正午ごろ到着。あと35分くらいの待ち合わせだったので、近くの中華料理店で昼食をとっているうちに、バスの時間が過ぎてしまう。

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駐車場から吐出される澄んだ水。水源は何だろう

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水路のバイカモ群落出現

そこで仕方なく、その地点から南西に歩き、ハリヨの池として知られる西之川の池を目指す。
午前中は曇っていたが、午後になると日差しが出、苛烈な暑さとなった。

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いろんな水生植物が見られる

西之川に近づくにつれ、アスファルトで覆われた駐車場の排水口から、わけもなく大量の澄んだ水が吐出されていたりする光景出現。
道順の関係で南から池に近づくと、地区の水路にバイカモが生えている。
相当の水量がないと、こんなバイカモは維持できない。

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わき水の池

池をのぞいたらハリヨ1匹確認。
1匹しか見ることができなかったが、ここでは生息しているようだった。
水草も豊富に生えている。
ただ、誰もいないため話しを聞くことはできず。危険な暑さだった…。

下流にはザリガニよけネットが張られている。
でもそのすぐ下流にザリガニがおり、そのネットと石垣との「きわ」に隙間もあったので、できれば隙間を完全に詰めて、さらにネットをもう1カ所下流に講じるなどして、万全を期してもらえたら…と、自らの池へのザリガニ侵入を体験した者として願った。

「領家」バス停には、座る場所がない狭い場所で、ローソンで飲み物を買ってから、ひとつ先の「中川」バス停で14時20分過ぎのバスを待つ。ベンチに座ろうとしたら灼熱状態で、道路向かいの日陰で10分ほど待った。
大垣駅北口まであとバス停4つだった。前を走る車が交差点で衝突事故を起こし立ち往生したが、休憩には役立った。

posted by 進 敏朗 at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月31日

洞窟と縄文人、支湖

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三ケ日人只木遺跡の洞窟(奥)

月初に引き続き浜名湖周辺を探訪

2024年3月の最終日は初夏を思わす陽気であった。
早朝より車で静岡県の浜名湖の東北部を探訪する。
今回、突発的に出発したため、あまり下調べはしていなかった。
東名高速三ケ日インターを出て、県道を北上し約10分、遺跡近くに到着。

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ミカン園

そこは収穫の終わったミカン園が広がっていた。
県道脇のスペースに停め、集落内の坂道を徒歩で上がるとすぐに洞窟の前に着いた。残念なことに、落石が危険とのことで立入禁止であった(冒頭の写真)。その洞窟は採石場の跡でもあった。
朝の光に、キツツキのドラミングが聞こえてのどかな情景だが、残念である。

今月初旬には浜名湖の東に隣接する佐鳴湖(さなるこ)を訪れ、湖の近くに大規模な貝塚があったのを見たのだが、三ケ日も訪れてみたい場所であった。
遺跡は浜名湖のそばではなく、湖の北端から、川筋を数キロさかのぼった丘陵地だった。

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みかんの産地。坂を下りた先に洞窟はあった

三ケ日人といえば旧石器時代人、と習った記憶があるが、その後の研究で、見つかった化石人骨はそこまでは古くなくて9000年前の縄文早期のものだったと訂正されたという。
あの旧石器ねつ造事件を機に、それまでの旧石器時代の人骨といわれるものが見直されたのだという。

でも9000年前といってもじゅうぶん古い。
旧石器人ではなく新石器時代の縄文人ではあるのだが、佐鳴湖近くで「蜆塚」を築いた縄文中期から後期の人たちとは数千年の隔たりがあるから、それとはまったく別時代のようでもある。
三ケ日の洞窟からは、絶滅した大型動物の骨も出ているが、それらは旧石器時代から続いてきた狩猟文化を伝えるものではないだろうか。
いっぽう、佐鳴湖の蜆塚の人たちはもっぱらシジミを採って暮らし、ときどき鹿やイノシシを狩ったようである。
数千年の間に、洞窟生活から台地の貝塚へと移るとともに、生活様式も大きく変わったかもしれない。

浜名湖の「支湖」、猪鼻湖

今回あまり計画性なく訪れたのだが、地図を見ると浜名湖の東北部が陸地で囲まれて独立した湖のようになっている。これを見に行くことにし、三ケ日の駅を目指す。そこは、旧三ケ日町の中心である湖畔の駅であった。

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ハンバーガー店のある三ケ日駅

地図をみると遠州浜名湖鉄道は浜名湖の北と西を取り巻くように走っていた。
三ケ日は浜名湖の北端に川が注ぐ地点にあり、東海道の脇往還の宿場でもあった。
こうした水辺の交通の要衝の街は私は好きである。
時間があればまたじっくり訪れてみたい。
この駅からすぐに、猪鼻湖の北端となる河口がある。

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鉄橋と列車、水鳥

川を眺めていたら、ちょうど新所原行きの列車が通過した。
潮が満ちているのか橋脚が頭しか見えない。遠州灘からだいぶ奥まった場所だが潮汐の影響を受けるのか。
水鳥が飛び立つ。
穏やかな水面に鏡写しとなって趣深い。

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猪鼻湖を望む

視線を川の下流に向けると猪鼻湖が広がっている。
面積は5.5平方キロ。
浜名湖(65平方キロ)の「支湖」と説明書きがあった。
「しこ」という言葉を私は初めて見た。
ふるさと鳥取県西部の方言では「〜だそうだ」と言うのを「〜だしこだ」と言うので、「支湖だしこだわ(支湖だそうだわ)」となる。
そんなフレーズが脳内に浮かぶ。
いまではそんな方言を使っている人も相当な年配の方だと思う。余談だった。

ただ、琵琶湖では、そこに接続する西の湖などの小さな湖を「内湖」と呼んでいる。
福井県・若狭の三方五湖では、水道でつながるなどして五つの湖があるが、どれも広さがそんなに変わらないためどれがメーンでサブといった扱いはなく「五湖」と呼ばれている。
湖の大きさ・形の違いによって、さまざまな呼称があるわけなのだが、猪鼻湖は地図で見ると、その南端は水道で、メーンの浜名湖と区切られていてひとつの独立した湖のようにも見える。

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浜名湖と猪鼻湖の水道に架かる橋

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カキ浜

そこで、猪鼻湖と浜名湖の境となっている水道まで行く。
車で約10分。
赤い橋と銀色の橋がかかっているが、赤い橋を渡るとそのまま水道を素通りして先まで行ってしまうので、大回りして戻った。
先端部に下りようと思ったら、トンネルを出てすぐに左折し、旧道の銀色の橋を渡らなければならない。

湖岸の有料駐車場に停める。
白砂の浜かと思ったらそれは積みあがったカキ殻だった。

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鳥居と湖、釣り

水道の先端部に行こうと遊歩道を歩くと、下に鳥居が見える。
釣りをしている人がいる。
水道の幅は100メートルくらいだろうか。流れがある。

釣り人に尋ねるとセイゴを狙っているという。
昔はカレイも釣りものであったが今はカレイは見かけないという。
この水道は水深があり、釣りのポインであるらしい。
「水温が上がったせいか、引きが強かった」
と40センチを釣り上げたという釣り人は語る。
セイゴ釣りの人は水道沿いの両岸に何人も竿を出しており、ここらの地域では重要な釣りもののようだった。

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猪鼻の崎

先端部には祠があるが、まるでプチ竜宮城。
ことしの初詣で行った近江八幡の藤ヶ崎龍神を思い起こさせる。
この岩の形が猪の鼻のようだということで猪鼻湖となったそうだ。
岩から生える松の木に趣を感じた。

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先端の岩。左端の飛び出た岩の形がイノシシ風

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橋上から猪鼻湖を望む

銀色の橋の上から岩の眺めが良かった。
ただ、幅が広くないので自動車やサイクリングの自転車に気を付けねばならない。

猪鼻湖は、いい感じでひなびた風光明媚な場所であった。
バイクメーカーの本場のせいか、浜松ナンバーのバイクが多く、爆音が少々うるさい。
この場所から徒歩数分のところには、浜名湖の本湖(?)が一望できる駐車場があったが、そこではライダーが集まって、堤防にもたれかかってご機嫌な様子だった。


嵩山蛇穴と水穴

まだ少々時間があったので、帰りがけにそこから北西にある「嵩山蛇穴(すせじゃあな)」を目指す。
いったん三ケ日まで戻り、国道362号を西へ約10分。愛知県境の暗いトンネルを抜けるとすぐに駐車場があった。

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蛇穴への階段

国道沿いに車を停めて徒歩約5分で、洞窟に行く石段があったがここにも駐車場があった。
ここから約30メートル登ると洞窟はあった。

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嵩山蛇穴

不気味な口を開ける鍾乳洞。
中から懐中電灯を持った親子連れが出てきた。
奥は70メートルくらいあり「広いですよ」と話していた。
しかし、危ないので中には入らず、入り口から見るにとどめる。

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入り口付近

鍾乳石が、まるでのどちんこのようにぶら下がっている。
この奥に縄文人はすんでいたのか。
冬は暖かく、夏は涼しい洞窟。
しかし内部は地下水で濡れているし、健康は保てたのだろうか。

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縄文人の想像図や洞窟内部の図解

この洞窟と、最初の三ケ日の洞窟とは10キロくらいしか離れていない。ともに縄文早期の遺跡というので、同時代に住んでいた可能性もあるかもしれない。そうすると、互いに行き来があったかもしれない。

この蛇穴のある場所は急な石段の上だったので、こんな不便な場所を選んで住むなんてと思ったが、三河と遠州を結ぶ「姫街道」にほど近い場所にあることを考えると、周辺地域との交流に便利な場所だったのかもしれない。

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洞窟近くに生えるバクチノキ

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水が湧き出る一角

洞窟から降りて、近くに湧水が出るところがあるというので、通りがかりの人に場所を訪ねるとそれはすぐ近くだった。
林道の脇から水が出ているのが見える。

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嵩山の水穴

近寄るとそこは、岩に穴があいており大量の水が湧き出ていた。

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流れ出る水

林道の反対側に勢いよく谷川となって流れ落ちている。
これだけ豊富な水が出ている湧水地点だが、案内看板も特になく不思議な感じも。

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水をくむ

いつものカップを忘れてきたので、コンビニでプラのコップを買った。
とても勢いある水。飲んでみたら、やはり地下水なので、そんな冷たくはない。夏だったら印象が違うかもしれない。
まあ、こんな水場もあるから縄文人には好都合だったに違いない。

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蛇穴近くのため池。水鳥の楽園

湖と岩、ローカル鉄道、湧水、縄文の遺跡。
浜名湖周辺はいろいろと訪れがいのある場所であった。
浜名湖といっても広いので、今回、その一部に焦点を当ててめぐったが、そのおかげかあまり人波にもまれることなく、ゆったり見て回ることができた。

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<おまけ>開花していたサクラ


posted by 進 敏朗 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月03日

佐鳴湖とシジミ

佐鳴湖

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高さ30メートルくらいの台地に囲まれた佐鳴湖(午後2時ごろ)

静岡県の佐鳴湖を訪れた。
浜名湖の東にある、南北2キロぐらい、東西約500メートルくらいの小さな湖で、面積は約1.2平方キロメートル。
水が流出する「新川」を通じて浜名湖とつながっており、わずかに塩分がまじる海抜ゼロメートルの汽水湖だ。

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昭和33年の発掘風景。貴重なカラー写真

佐鳴湖のすぐ東には「蜆塚(しじみづか)」と呼ばれる縄文時代の貝塚があった。
市の博物館が整備されていた一角に「貝層」と看板がある。

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「貝層」の案内

階段を下りると。ガラス越しに積みあがった貝を見ることができた。

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午後の光に照らされる「貝層」の断面

遺跡には貝塚が3か所あり、住居は貝塚に囲まれるようにして存在していた。
積みあがった厚さは1.5メートルくらいある。
説明によると1000年くらいの間、人が住み続けていたのではないかという。

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ほとんどがヤマトシジミという部分

蜆塚と呼ばれるだけあって、たくさんあったのはシジミであった。
ヤマトシジミと説明があった。宍道湖や、鳥取県の東郷池などにもいる汽水域にすむシジミだ。
そのほか、アサリ、ハマグリ、カキなど二枚貝や、アカニシといった巻貝もあったがこれらは潮干狩りでおなじみの海の貝。
どの貝もラージサイズや特大サイズだったが、干潟には大きいのも小さいのもいることを考えると、縄文人は大きいやつだけをとって、資源管理を図っていたように思えた。

縄文時代の温暖な時期は、海面が現在よりも高かったというので、浜名湖には海水が流入し、佐鳴湖も浜名湖とつながって奥の入江みたいな感じで、汽水域と海水のゾーンがあったのだろうか。

貝塚から湖に降りる緩いスロープ状の地形があり、湖に出るとそこは、家康が正妻の瀬名(築山殿)を殺害した現場であった。
観光ボート乗り場があったが、貝塚との位置関係からいって、縄文人もおそらく丸木舟をここらへんに停めていたのではないか。

貝塚と佐鳴湖との高低差は30メートル近くもあった。
そこは三方原と呼ばれる台地で、天竜川の扇状地が隆起してできた地形とされる。
佐鳴湖の東西は、高低差約30メートルの三方原台地によって囲まれる形となっていた。
このおかげで、この日は北風が強かったのだが、佐鳴湖の西岸側は風が遮られおだやかだった。
風よけをしながら、弁当をコンビニのシジミ汁とともにいただいた。
蜆塚を見て、佐鳴湖をみながらシジミ汁を食べようという趣向だ。

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コンビニみそ汁具材の殻付きシジミ(ピンぼけ)

セブンイレブンのシジミは、インド産で何と殻付きだったが、サイズはスーパーで売られているやつの半分くらいのスモールサイズだった。
そのサイズは貝塚でみたやつは殻の幅が3センチくらいはあったが、このインドシジミは1センチあるかどうかというサイズ。
いくらインドでも、こんな小さいやつを捕り続けていたら早晩枯渇してしまうのではないか。そんなことを思った。

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佐鳴湖の流れ込み

たくさんの市民が湖周を歩いたり、犬を連れて散歩したりしている。
1周が5.5キロというので、速足で歩けば1時間ほどで1周できるので、健康づくりにちょうどよさそうな感じがする。
数年前までは、「日本でいちばん汚い湖」ともいわれたそうだが、下水道の整備もすすんで水質は改善傾向にあるという。
崖からの住んだ湧水が流れ込み、湿地の周辺では鳥の鳴き声がうるさいくらい。

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ウ(中央やや下左の水鳥)

管理棟施設で佐鳴湖を描いたり撮ったりした絵画写真の作品展では、カワセミや、ミサゴ、オシドリ、などの鳥類が愛好家によって撮られていた。鳥類の豊富な湖であるようだった。


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2023年11月09日

北勢への遠足(下)

四日市あすなろう鉄道

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ナローゲージの車両

北勢への遠足旅行、東海道を歩き、四日市あすなろう鉄道の内部(うつべ)駅に着いた。
時刻は11時すぎ。発車までの時間を利用し、20分ほど写真を撮る。
線路幅762ミリのナローゲージで営業をしているのは日本で3か所だそうだ。
そのうち2カ所が三重県の北勢地方にあり、ひとつはこの四日市あすなろう鉄道、もう一つは桑名から出ている三岐鉄道北勢線で、そちらは昨年などに乗車したので、北勢のナローゲージ鉄道はどちらも乗車となる。

上の写真の車両はモ260形で車体長15メートル。
JR在来線の車両の4分の3の長さしかない。小さな駅に小さな電車が愛らしい。
ナローゲージ沿線の住民になり、駅前に住んで「マイ鉄道」として日常の足にしたい。そんな気持ちにさせる。

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内部駅には車庫もあった。内部車庫の内部が見える。

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延伸しようとした線路

そして反対側に目をやれば、線路を延伸させようとした形跡も残る。
駅で配布されていたパンフによれば、内部川に橋を架けて対岸には采女駅、さらに西進してあと5駅設けられる予定だったというが、ついに川を越すことはできなかった。

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電車に乗り込む

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幅が狭い車内

ミニ電車のミニ旅

さて乗り込むと、幅の狭い車内には一人がけシートが並ぶ。
車体の幅が約2.1メートルで、これは大型バスの2.5メートルより40センチも狭い。
3両編成の車両の両端の車両は、席は運転台のほうを向いており、中間車両は通路をはさんでシートの向きが逆になっていた。
二つ先の追分駅まで乗車。

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車両の先頭

走り出した。
内部の駅端には大きなアガベ(竜舌蘭)が植わり、ミニ電車と不思議なコントラストを醸し出す。
モーターがうなりを上げ、左右への揺れが大きい。
最高速度は、スマホのアプリで確かめると42キロ。
のちほど乗った、日永〜南日永間の下り坂で45キロを記録した。
しかし、速度以上にがんばって走っている感じが強い。
野球に例えれば、力感のないフォームから130キロの速球を繰り出すピッチャーがJRの東海道線の新快速だとしたら、力いっぱい投げているのに球速は45キロしか出てないというのがこちらの車両であろう。

ただ、乗り物に乗っている臨場感と言ったらおかしいが、モーターが力を発して一生懸命に走っている乗り物に乗っている感じは、こちらのほうが強い。

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追分駅付近の踏切

崖下の湧水

降りたのは2駅先の追分。
距離にしてわずか1.4キロ。
この内部線は全線乗っても5.7キロしかなく、これは先日旅した、岐阜県のJR東海道線垂井〜大垣間(8.1キロ)の1区間分より短い。
しかし5.7キロの営業でも8駅もあって、市街地を走っているためか、高校生をはじめ多くの人に利用されていた。

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崖下にある水源(路地の突き当り)

追分駅は、東海道と伊勢街道が分岐する有名な「日永の追分」の最寄り駅である。
そこでは「追分鳥居の水」と呼ばれる湧き水が出るというが、さらに調べると、その水源は、そこから西に入った崖の下だったという。
場所は追分駅から徒歩5分くらいの路地奥だった。
現場の崖の上には、要塞のようなマンションがそびえる。
路地の横には、ブルーの波板の住宅が目立つ。
しかも、波板は塗料を塗りなおした形跡もあって色鮮やかさが保たれている。
この水色は湧き水へのオマージュなのだろうか。

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水量が多い

コンクリート擁壁の穴数か所から水があふれ出ている。
ホースから出ている水を持参したカップにつごうとしたら、勢いが強くてカップが吹っ飛んだ。そこで滑らない場所に置いて汲みなおす。
一人、ポリタンクに汲んでいるおじさんがいるのでたずねると、40年来通っているとのこと。盆栽にやっているのだという。「水道水とは全然違う」と言っておられた。
飲んでみるとまろやか。
この水は道路わきの溝を伝って下流に流れていたが、まさかこの水が、街道の分岐点で飲まれているのだろうか。江戸時代ならいざ知らず。

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日永の追分

東に進むこと数分、東海道・伊勢街道の分岐点「日永の追分」に至る。
ひろい空をバックに、鳥居が立っていて祝祭感。これから伊勢参りですよという旅の高揚を感じさせる。
それに比べたら、滋賀県の草津の東海道・中山道の分岐点は本当にあっさりとしたただの街角だなあと思わされた。

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湧水が汲み上げられている

現代の「追分鳥居の水」は、さきほどの崖下から引かれたものではなく、やはりポンプで汲み上げられているように見受けられた。
その水を汲みに人が訪れていた。水量はさきほどの崖下よりは少ない。

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公園にはミカン成る

狭かった東海道

さて、ここからは東海道を北へ歩く。
日永は五十三カ所の宿場ではないが、宿場と宿場の間の宿で宿屋もあったという。
名残の一本松を見る。立派な大きい松だ。
滋賀県でもそうだが、東海道は、国道の抜け道となっており、広くない道幅を多くの車がすれ違い、しばしば立ち止まらねばならず歩きにくかった。

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名残の松

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最古の東海道の道標

江戸時代の前期の道標が南日永駅近くの神社の境内にあった。
明暦2年(1650)建立で、当初は先ほどの「日永の追分」に立っていたという。

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木製の枕木

このようにして追分から2駅分を主に旧東海道に沿って北に進み、南日永駅に着いた。
昼の食べ物を買おうと、いったん同駅の北側にあるローソンに行こうとしたら大通りだったが、踏切が硬木で固定され、よい質感だった。
また、踏切の遮断機の長さに限界があるのか、4車線道路に、遮断機が計4本据えられているのも見慣れぬ感じ。
八王子線を含めても総延長7キロにすぎないが、市街地に路線があるので、踏切の数も多くて設備の維持も大変ではないだろうか。
道標のあった神社に戻って食べようと思ったが、案外座るところがなく、立ったまま食べた。

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南日永駅

八王子線

南日永駅から再び乗車。
こんどはクリーム色と青色ツートンカラー車両がきた。
ここから隣の日永駅で、八王子線に乗り換えるのである。

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日永駅のホーム

日永駅に着いた。八王子線が分岐する駅のホームは広かった。

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三つの線路幅を現す展示

ホーム上にはナローゲージと、日本の在来線の線路幅である狭軌(1067ミリ)、新幹線や関西の大半の私鉄が採用する標準軌(1435ミリ)が並べられ、どれくらい幅が狭いのかがひとめで分かるようになっていた。
あまり眺める間もなく、八王子線の西日野行きが四日市方面から入線してきた。
カタカナの「ト」の字を逆向きにしたような四日市あすなろう鉄道の路線であるが、「ト」の横棒にあたる八王子線の電車は、日永ー西日野のひと駅を往復しているのかと思ったらそうではなく、全便が四日市を起点として四日市−西日野間の運転だった。

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西日野駅

八王子線は約3分後、ひと駅目の西日野で終点となった。
降りてみると、特に目立つものもない郊外だった。川が隣を流れている。
線路はもともと「八王子」まで伸びていたが、川が洪水をおこして路線が破損、以後、西日野が終点となり、駅位置も川からすこし離れた東に移ったようだ。

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西日野駅のとなりの川

折り返し出発までの9分の間、駅の外をめぐる。
駅を出ると川があり、対岸の高台には高校があった。学校の近くに駅を移したのか。

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駅構内に掲示されていた写真

西日野駅の構内にあった「旧西日野駅」の写真を見ると、川のすぐ脇に駅舎がある。
川も現在の深く掘り込まれた姿とは違って、砂が堆積してすぐ間近に川の流れがある。
川の風情と一体化したいい駅の光景だなと思うが、この川との近さのために、洪水で再起不能となってしまったのが残念だ。

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列車の行き違い

9分がたち、西日野から「四日市行」に乗車。つぎの駅日永で降りると、再び内部行きの電車が連絡しており、待ち時間なしで乗り換える。
再び南日永で降りた。午後2時くらいだった。
この駅でなぜ降りたのかというと、この南日永からJRの南四日市駅まで徒歩10分くらいで目指せそうだったからだった。
亀山駅に車を停めている関係上、JRで帰らなくてはならないが、四日市あすなろう鉄道はJR関西本線とは交わっておらず、いちばん駅間が近そうなのがこの南日永と、JR南四日市の間だった。

旧国鉄感の残る駅

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南四日市駅

南日永の駅近くからは、太いまっすぐな道路が通じており、商業施設の横を通って約10分ほど東に進み、左に入るとほどなく、駅前広場があって南四日市の駅舎が見えてきた。
戦後の近代的な駅舎というか、広い窓が屋根の下までつながった軽快な雰囲気の建物で、「明るい社会」という標語のような懐かしい感じがした。
しかし中に入ると券売機もなく、建物も朽ちかけて荒廃していた。
駅前広場のだだっ広い開放感。自転車も止め放題のようで、あんまり管理がされておらず国鉄時代の風情がそのまま残っているようだった。

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ちいさなホーム上の待合所

駅舎を抜けると、貨物線が何本も走る中、ホームが島のようにぽつんとあって、小さな屋根付き待合がある。ホームの長さとの対比がすごい。広い敷地の中に、おまけのようにホームが据え付けられ、味わい深い。タイの鉄道駅を思わせた。

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コンクリ通路スペースが広いJR四日市駅

このあと同駅から、亀山とは逆方向に四日市駅まで行ってみたが、これまた国鉄時代の風情が濃厚な、重厚かつ武骨なコンクリ駅舎で、滋賀を含めた京都近郊区間のJR東海道線沿線の近代化駅舎からはとうに失われてしまった雰囲気があり、旅情緒にひたった。午後2時半ごろだったが、駅前のマルシェはすでに客は去り撤収モードに入っていた。そのにぎわいの少なさもまた味わい深い。
四日市ではJRよりも近鉄沿線のほうがにぎわっているので、JRの駅前はうら寂しいものだった。関西の東海道線でも、向日町駅とか、そんな雰囲気が残っている駅もあるが、向日町は東口開発の話もあって、ほどなく姿が変わってしまうかもしれない。そう思えば、この昭和後期で時間が止まったような雰囲気は貴重なものに思える。

このようにして後半は、すっかり乗り鉄の旅のようになり、自宅から距離的にはそんなに遠くはないがあまり知らない地域を歩いたり、ユニークな鉄道や昭和時代を感じさせる駅・路線を利用したりして、半日旅を楽しんだのだった。



posted by 進 敏朗 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする