2023年03月12日

早春のビオトープ

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アオサギのいる早春の湿地

三重県の知人を3年ぶりに訪ねた帰り。亀山で、広いビオトープに立ち寄った。
国土地理院の地図を見ていて、亀山市に池が数か所並ぶ場所があり、これは人の手で整備されたビオトープではと思ったが詳しくは調べず、たまたまそこを通りがかったのだった。
車を1号線のバイパスの脇に進ませると「亀山里山公園みちくさ」とあった。
春の芽吹きがようやく始まろうとしており、訪れる人もいない。

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うごめきの見えた小さな池

でも静かなのでゆっくりと見て回れる。
どのような風に池を造っているのかを見た。
それは田んぼの跡地のようだった。
魚のうごめきが小さな池からあった。オタマジャクシかもしれない。

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水草の芽生え

全体に水が少なかったが、これからどこかから流してくるのか。

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小高い場所から見る

案内所のおじさんに話をうかがった。
やはりここは休耕田で、2008、09年に、谷地形の3.5ヘクタールを市が整備した。
これだけ広かったら、管理が大変でしょうと尋ねると、「いや、草は生やしとくから、そんなに大変ではないよ」とおじさんは答えた。
いや、でも、木は伐採とかしてあるし、水の管理も大変なのではないか。
おじさんによると今はザリガニの除去が課題となっているという。
特定外来生物に指定されたザリガニは、捕った場所から移動させることが禁じられた。
この公園では以前からザリガニ駆除として子供に手伝ってもらい、ザリガニ釣りを行い、子どもは熱中して取り組んでいたが、今後は持ち帰らすわけにはいかなくなったのだと。

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小魚たち

小魚もいる。カワムツや、タナゴ、クチボソのようなやつが水槽を泳ぐ。
メダカもいるんだそうだ。カワバタモロコが減っており、これを増やすことも課題となっているという。
ちなみに魚の捕獲は禁止である。

早春だったため、あまり花とかは見られず、静かだった。
こういう季節だからのんびりと歩いて回れるのだが、4月ともなれば、さまざまな行楽などが忙しく、せっかくこうしたビオトープで生物観察に適した季節になっても、なかなか来ようという気になれない。


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2022年03月15日

三方五湖三館巡り(下)

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年縞博物館の内部

水辺の周辺を歩きに三方五湖を訪れ、日程の後半は主に、博物館の展示などを見て、数万年の記録が残る湖と人の営みについてあれこれ思いにふける。
福井県立年縞(ねんこう)博物館には、お隣の若狭三方縄文博物館との共通チケットで入館。
水月湖の湖底にたまった、7万年分の規則的な縞模様のある堆積物「年縞」が、横倒しの形で長さ45メートルにわたり展示されている。
壁沿いを左から右にたどるとだんだん古くなり、最初の1000年分は幅が広いが、そこから先は堆積物の重みで締まって1000年分で1メートル以下になっている。
鬼界カルデラの噴火が7253年前。鹿児島南方の太平洋から降ってきたにしては厚くてびっくり。
氷河期の終わりが1万1653年前。
28888年前、大山の噴火。
3万78年前に、日本最大級の姶良カルデラ噴火とあり、5万9500年前にも大山の噴火があった。
これらの噴火では厚く火山灰が積もっているので、その際にはいずれも動植物、そして人がいたとしたら壊滅的になっていただろう。
1〜2万年に1回は、破局的な事態が訪れているようだ。
水月湖の年縞は7万年ちょっと前に始まっている。そこから下の層は堆積物が混ざって年代がきっちり計れないという。しかし、さらに下部には12〜13万年前ごろとされる年縞の状態がみられ、最終的には73メートル掘ったところで岩盤に達する。水月湖の歴史は20万年よりは新しく15、16万年前くらいだと館内のシニア解説員の方から教えてもらった。

つぎに、隣の若狭三方縄文博物館に入館。
こちらは「縄文のタイムカプセル」といわれる鳥浜貝塚を紹介する若狭町の施設。コンクリート製の巨大竪穴式住居のよう。

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鳥浜貝塚周辺

館内は写真撮影禁止。
三方湖の南岸、鰣(はす)川の河口に近い湿地から見つかった鳥浜貝塚の遺物もまた、水月湖と同様に沈降する地盤と、湿地の泥によって守られた。

土器は古くて1万3000年前くらいから。それは氷河期の末期だった。
1万2600年前のウルシの木の小片も見つかったそうな。
ウルシは、日本では人里近くにしか生えていないことなどから、日本にはもともと自生していなかったとの見方が有力になっているそうだ。
そして衣の素材である大麻も、そこらへんに自生はしておらず移入された植物。そして、アフリカ原産のヒョウタンは1万年以上前の出土物の中にあったという。水筒として長期の航海には必需品だっただろう。
切れ味のするどい黒曜石は、長野や隠岐の島、奈良の二丈山、香川産。
縄文時代の人は、まわりの自然を熟知して、有用なものをより分けて利用するだけでなくて、遠方と広範囲に交易をし、必要な道具や技術を身に着けたようだった。

この日は、同じ三方地域の藤井遺跡に関する展示があって、実はこれを見たかったが、思ったよりは展示が簡素で少し物足りなかった。
藤井遺跡は小浜線の藤井駅付近から出てきた縄文時代からの遺跡で、ちょうど鳥浜貝塚があまり利用されなくなって以降の時代に遺物が出てくる。
鳥浜貝塚の場所が、5000年前ごろに地滑りに見舞われるなどして住めなくなり、古三方湖の南岸に位置していた藤井地区に移住した、というようなことだったのか、などと想像するも資料が少なすぎてわからない。
興味深いのは、東側からの尾根が延びて平野に接する部分にある同地区が、弥生時代になると拠点的な集落となり、古墳時代までの遺物が出、そして現在も集落があるので、縄文時代からスムーズに暮らしが続いてきたような印象を受けることだった。

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鮒バーガー

さて昼になった。もういちど年縞博物館にあり、併設のカフェ「縞」で、期間限定のメニュー「鮒(ふな)バーガー」を食べる。
三方湖で、伝統の漁法「たたき網漁」によって捕獲されたものを使用。
揚げたフナがはさまれていた。タラなんかの白身魚よりも身離れがぱらぱらと細かく「フナの食感」がする。
滋賀県に住んでいるので何度かはフナの煮付けなどを食べる機会があったので覚えのある、淡白なフナ味だった。
鳥浜貝塚から出土した魚類では、マグロやタイなど海の魚もあるが、圧倒的に多かったのがフナの骨だという。
海に出なくても、鳥浜貝塚の目の前に広がる三方湖で、大量に捕れたのがフナだったのだろう。湖の一角にいけすを作ってしばらく活かすことも、海産魚と違って簡単にできただろう。

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縄文人がよく食べた、三方湖のフナ

縄文時代から食べ続けられてきた三方湖のフナ。
これを食べてみて、三方五湖と、縄文人とつながった気になってみた。

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鳥浜貝塚付近。現在の小舟

外に出る。鳥浜貝塚のあった場所は公園と船溜まりがあり、現在のフナを捕る小舟も、サイズ的に縄文の丸木舟とそう変わらない。

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鳥浜貝塚西側の丘から東北方向を見る

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南東側を見る。手前の平野は、縄文時代は湖(古三方湖)だったという

鳥浜貝塚西側の高さ数十メートルの丘に登ると、木々が生えているものの南や北の眺望が得られる。
愛宕神社となっており、尾根筋をいくと、平たくならされた土地も段々状につくられている。ここからだと、木を切り倒せば北や東(三方湖)や南(古三方湖)の眺望が得られる。
鳥浜貝塚の縄文人のメーン住居は、浜よりは丘の上にあったのではないか。という気もするがどうなのだろう。

さて本日はもう一館、舞鶴若狭道で行くこと約20分の、県立若狭歴史資料館(小浜市)にも行った。
そこで、バーガーでも提供されたフナの漁に関する展示がしており、鳥浜貝塚出土品のうち重要文化財はそちらで展示されているのだった。

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縄文時代前期の鳥浜貝塚丸木舟1号

そこには、付近で計9艘見つかった丸木舟のうち、いちばん古い1号が展示されており、展示物の写真撮影も自由にできた。
丸木舟は、杉の木で作られる。なお、縄文時代の中期以降になると、浅くて波静かな湖の航行に特化した浅底タイプの丸木舟が登場する。

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漁具や植物を編んだ製品、そのほか石臼、石製のもり、木製の弓など、縄文時代の暮らしを知る数々に見入った。
見終わったころには午後4時半で、早朝から半日を費やしたこの日の三方若狭めぐりも終盤となった。

縄文のタイムカプセル鳥浜貝塚と、地球のタイムカプセル水月湖の年縞。これらは、沈下しながらも土砂の堆積が続くことで、数万年にわたり「平衡状態」が保たれている三方五湖からもたらされていた。
鳥浜貝塚は7000年以上もの間、利用されていたが、その年月の長さは、千数百年の時間しか経過していない「日本」の歴史の数倍。
現代の社会は、ひと世代違うごとに生活はがらっと変わってしまうのに、縄文時代の前半では、同じ暮らしが数千年続いていたように見える。人口も増えない。自然の恵みは豊かだが、けっこう厳しい暮らしであっただろう。三方五湖の自然に埋め込まれた地球と人間の暮らしをめぐってばくぜんとした思いにふけった。


















posted by 進 敏朗 at 13:11| Comment(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月12日

三方五湖三館巡り(上)


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三方五湖の地図

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国道303号、高島市杉山の雪原(午前6時半ごろ)

暖かく穏やかな日和の休日。
水辺ファン待望の水辺巡りをしたい。
5時過ぎから車を駆り三方五湖を目指す。
福井県との県境付近は厚い雪が残り、これは川の流れとなって今年のコアユ捕りなども期待できるかもしれない。

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久々子湖

7時よりだいぶ前に、福井県若狭町の久々子湖南岸に着いた。
三方五湖の湖岸の大部分はコンクリ護岸で固められているが、久々子湖はこうした干潟がところどころに残っている。

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水や砂の動きがつくりだす文様

湖は波静かなので外洋の浜辺より繊細な汀線のカーブがみられる。
潮の満ち引きや、潮流などの動きと、風によってつくりだされる柔らかい縞模様と、波打ち際の線、山の形などがまざりあって混然とした空気感の風景が広がる。

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波打ち際

三方五湖周辺は、河口や湖、低山、湿地といったものが見られるので、「水辺ファン」としては楽しい場所。
こういう場所だから海や淡水の魚、鳥類などがいろいろといる。

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そんな水辺なら琵琶湖にもあるじゃないかということだが、琵琶湖にない要素としては海がある。
潟湖である久々子湖には海水が入り込んでいる。
浜にはシジミとともに、海産とおぼしき貝も落ちていた。
砂は白っぽい花崗岩の風化したものと、黒っぽいやや大きな石とでできている。
こうした粗っぽい砂の浜は、琵琶湖だともうちょっと急深になっており、遠浅の浜はもっと粒が細かくて泥っぽい。

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苧集落の周辺

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菅湖周辺の地図

ここからまず湖の周辺を歩くことにし、宇波西(うわせ)川の河口付近から西に歩いて、浦見川の水道沿いを歩き、水月湖(上の地図で「∴三方五湖」と表示のある湖)に出る。

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浦見川の橋から水月湖を望む

久々子湖と水月湖をつなぐ浦見川は江戸時代に開削された水路。
久々子湖と水月湖はもともとつながっておらず、最上流の三方湖に流れ込んだ鰣(はす)川の水は、水月湖に流れ、次に菅湖(すがこ)を経由して川を通って久々子湖にそそいでいた。こうしたことは5年前に訪れた際に学んだ(2017年3月4日「三方五湖と梅、縄文ロマン(上〜下)」)。
菅湖から久々子湖へは、江戸時代の大地震までは気山川という川でつながっていた。縄文時代以来、三方湖から海に出るルートはこの浦見川ではなくて、菅湖から今は途切れてしまった川だったとみられる。
三方の地名の由来は「三潟」つまり、三つの潟というのだそうだ。三方五湖というのに、なぜ五潟ではないのか。
それは一つには、古代には久々子湖はまだ湖を形成しておらず口の開いた湾の状態だったことが考えられる。
でもそれだと四潟でもいいのではないか。
割とつながっている水月湖と菅湖を一つとして数えたかなどして、「三つの潟」として古代人はカウントしたのだろうか。ただ、どことどこを数えて三つととらえたかについては、調査不足で何とも言えない(すみません)。

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咲きはじめの梅と菅湖

そこからいったん低い山に挟まれた地峡を南下して菅湖沿いの切追(きりょう)集落に出る。
菅湖。三方五湖で最大の水月湖の東隣に引っ付いたような、どんづまりの「盲腸湖」(そんな言葉はない)。
水辺について釣り目的に魚を求めていた時期には、ほとんど情報もなくただの地味な湖にしか感じられなかった。
だが湖の風情という点では、静かなたずまいに趣を感じさせる。
梅は咲き始めではあったが、朝日を浴びた峰が対岸に見えて美しい景色だ。

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鳥の足跡

湖岸に近づいて、コンクリート護岸から見ると鳥の足跡がみられた。
波静かなせいか、ふわふわの泥が流れずに積もるようだった。

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(参考)かつて菅湖で見られた文様(2017年3月)

2017年に菅湖を訪れた際には水底に繊細で奇妙な砂泥の文様が見られたが(2017年3月4日「菅・三方湖と梅、縄文ロマン(中)」参照)、あの文様は部分的にしか見られなかった。文様は何の作用なのかはわからないが刻々と変化するらしいことを知った。

さて今回、ここから菅湖と気山地区を隔てる山を越えて寺谷地区に向かい、宇波西神社のほうに向かう。
高さ111メートルと110メートルのふたつのピーク(名前は不明)の中間付近の、70メートルくらいの峠を越える破線の道が地図に書かれている。これくらいの高さなら、冬場、運動不足でいた筆者の足でも無理なく行けるんじゃないか。
と思って歩き始めたが、途中で傾斜がきつくなり、意外にたいへんな山道だなと思っていたら、背にしてきたはずの菅湖の水のきらめきが、前方の木々の間から目に入って来た。道を外れた。危なかった。
引き返すと峠と思しき場所があった。そこを越すと、急に自動車の走行音や小浜線の踏切音が耳に飛び込んできた。
低い山一つで、音の環境もだいぶ違うものだなと思い知る。そちら側に国道や線路など若狭地方の交通網がルートが集まっている。

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来た道を振り返る。山の向こうが菅湖

お堂のところに下りて、やれやれ助かったと胸をなでおろす。
振り返ると、まあ低い山だったが、こんな山でも迷うことがあるのだなと心にとめる。

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立派な石垣の宇波西神社。神木の杉が立つ

お寺の北隣が宇波西神社で、立派な石垣だ。背後の山に貼りついたような形で、奥行きが少ない。


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神社の案内

案内に書かれた由来では、神社は相当に古くて、宇波瀬の宇は「鵜」だったようだ。
鵜は、人間にとって身近な鳥だったのだね。
氏子は近郷一帯の村に及んでおり、興味深いのは川筋も違う日向地区の漁業関係者の守り神でもあることだった。

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神社と山

神社は山を背にして、東を向いて立っている。
古い神社は、どこに行ってもその地域の要所に立っているように思われる。
ここは、かつての菅湖から久々子湖へ出るルート上にある。そんな海べりにある感じでもないのに、海の漁師の守り神となっている。古代にはこの神社付近が海べりだったのではなかろうか。

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紅梅が咲く

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宇波西川

神社の真ん前を流れる宇波西川。かつては鰣川の本流でもあって、丸木舟が悠々と行き来していたのかも。
琵琶湖の湖西地域にも似た花崗岩の白砂が川底にたまっている。

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段丘と鉄道

神社正面の宇波瀬川の川岸に立ってから東の方角をみると、田んぼの向こうに集落があり、手前をJR小浜線の列車が走っている。
田んぼよりも3メートルくらい高くて、集落と同じ高さ。山に向かってだんだんと土地がせりあがっている。
あそこらへんに、地面の隆起や沈降を引き起こす三方断層が走っているのか。

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跡松原の地名

車を停めた河口付近へ歩く途中に「気山跡松原」とある。「跡松原」とは、かつて松原だったという小字名だろうか。今では農地となっている。
久々子湖の南岸は隆起し、波打ち際はどんどん北に後退し、陸地が広がっているようであった。
これだけ海に近い場所に湖がありながら、10万年以上もの間、水月湖では湖底部が沈降しながらも、湖と海の境目にあたる部分は隆起し、海に呑まれて消滅することもなく、かといって土砂に埋められるでもなく、存在し続けているのはなかなか珍しい現象ではではなかろうか。

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漕艇

湖岸を東に行くと、漕艇の練習が繰り広げられていた。
漕艇が見られるとは想定していなかった。いや、想定はできた。
波静かな三方五湖はボートにも適していた。
そしてそのサイズ感は、三方湖の鳥浜貝塚で出土した縄文時代の丸木舟を連想させた。
先ほどの宇波西神社にも、大きな杉の木が神木としてまつられていたがその幹の太さもそのようなサイズだった。
とにかく三方五湖周辺では、時間の流れ、人の営みが途切れることなく連続しているように感じられる。
漕艇が盛んなのも単なる偶然ではなく、縄文時代からの流れをくんでいる部分もあろう。

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小浜線気山駅付近から西を見る

車を取り戻し、気山駅を見ると、立派に舗装された神社の参道が西に伸びており、直交する小浜線の下をくぐっている。
明治時代に建てられた石柱は段丘上にある。
このラインが、かつて海(久々子湖)と陸を分ける境界だったのだろう。


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〈おまけ〉見かけた素敵な鉢植え。こんな風にやってみたい

三方五湖のごく一部を歩いただけの小規模な水辺低山行。
ほんとうはもっと広範囲に歩いてみたかったが、ここからは、三方湖畔にある博物館の展示を見るのに時間を費やし、いろいろと三方五湖について思いを巡らしてみたのだった(続く)
























posted by 進 敏朗 at 11:23| Comment(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月02日

湖南と湖東 雪の境界

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琵琶湖岸から比良山系を望む

枯野を車で駆り、野洲川河口近くの湖岸から琵琶湖ごしの比良山系を眺めた。
こちら側に雪はないが、対岸の山は雪を戴き、麓まで積雪している。
雪山はきれいだな。

湖ごしに山並みが眺められるこの景観。なかなか見られない景観と思う。
雪山は特にきれいだ。
思えば、故郷の、大山が平野にそびえる様子も、きわだった特徴のある景観だった。
それを毎日見ている間は、珍しいとも何とも思わなかったが。
細かな地形の変化がどこにでも見られる日本の中で、はっきりと特徴のある景観というものが各地にあるのだなと思う。

海抜約85メートルの琵琶湖から、1200メートル級の山並みが壁のようにそびえている。
あっちは雪で、こっちは雪がない。日本海からの北西の季節風を受けた雪があそこで降り、風下の湖南地域までは雪が届かないのかも、などと想像する。
先日、大雪のあった彦根は、琵琶湖の対岸が高島の平野なので、日本海からの湿った雪雲がまともに吹き寄せるのかもしれない。

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雪に覆われた大地

ところが、わずか10キロだけ東に移動した近江八幡市は、一面が雪に覆われていた。どうなっているのだ。
このあたりは比良山系の最高峰武奈ヶ岳の南東方向。ということは、比良山系が雪雲をブロックする説は正しくなかった。
ということは、日本海からの距離の違いによるものなのか。

積雪の量が北と南では大きく違う滋賀県。
そこには、山陰と山陽のような、間を画する山のようなものがない。同じ標高の琵琶湖沿いの盆地が広がっているだけなのに、こうも景観が変化するのはいつ見ても不思議だ。

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雪の境内

彦根や米原では大雪とはニュースでやっていたが、近江八幡ではどうだったのかは特に調べずにやって来たため、思いがけない雪原を新鮮な気持ちで眺めた。適度に晴れて路面の雪が消えていたのもよかった。

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除雪された道

ただし、住む人にとっては除雪作業や雪かきは大変だったろうと思われる。
子どもの頃は、冬でも天気が良いという山陽地方や太平洋側へに憧れていたものだった。


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西(奥のほう)に行くにつれ雪がなくなっていく

帰り道、湖岸道路の岡山の切通しを越え、西に広がる田が目に入るや、手前には白い雪があるのに、向こうのほうは黒い土の冬田へと、農地がグラデーションを描いているのが見て取れた。近江盆地では雪の境目がこのように存在するのだなあと興味をひく。

思わず車を引返し、いましがた通った切通しの道を歩いて登る。自転車用に歩道の拡幅が完成間近で、いい感じ。ただし南側には歩道がなくて危ないので、道路の奥から南西方向を撮る格好に。逆光でわかりにくいが、雪原が裸の土へとシームレスに移っていく様子が眺められた。

その境目が近江八幡市と野洲市の間くらいだった。これが滋賀県における湖東地域と湖南地域との境目にもなるので、奥深いものだ。

posted by 進 敏朗 at 18:03| Comment(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月11日

ハナノキ紀行

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赤い花が咲くハナノキ

ハナノキの群落を見に岐阜県の東濃へ行く。
ハナノキはカエデの仲間で、春になると、葉が出るよりも先に赤い花が枝一面に出て、木全体が真っ赤に染まるのだそうだ。
ハナノキ、名前もいいし、花の咲きぶりも色も、いい感じだと思って、家を建てた時にハナノキの苗木を買って庭に植えた。
ところが高木なので、みるみるでかくなり枝を切るのが大変だった。花はなかなか咲かないし、植えた場所が悪かったのか数年して枯れてしまった。思えば、計画性もなく苗木を買ったことがよくなかった。
いつか自然の木を見に行こうと思い幾歳月。ついに意を決して朝から出かけた。

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空に向かって咲く

ハナノキは愛知、岐阜、長野の限られた場所にしか生えていないという。
滋賀にも湖東の北花沢、南花沢に1本ずつ、神社にそれぞれ雌株と雄株の老木があり、国の天然記念物に指定されているが、それは岐阜や愛知からだいぶ離れているので、移植されたものではないかとみられているという。
この日行ったのは岐阜県中津川市の千旦林地区。ここには、数十本の状態の良い群落が湧水湿地沿いに見られるという。
数十本が生えていて、最大級の群落というから、いかに自然に生えているハナノキが少ないかという話だ。

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坂本のハナノキ

中央自動車道中津川インターで降り、まず向かったのが坂本のハナノキ群落で、中央本線美乃坂本駅の南側に中学校があり、その東隣の場所だった。フェンスの外から観察。土地は東側が低くて、湧水が出ているかもしれない。木は見上げるほどの高さで、どれも大きくて立派だ。ウグイスも鳴いていて、いい感じに空が晴れ渡っていた。

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遊歩道

フェンスの中には遊歩道があったが、木の高さは相当高くて、花が咲いているのを見るには首を上に向けなくてはいけなさそうだ。
遊歩道の周りは、湿地の雰囲気もかんじられる。

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フェンスにからまる植物

4月はいろいろな花を見かける。はじけたポップコーンのような形をした、中が紫色の花があった。これは何だ。
花はあまり詳しくなく、あとで調べたらこれが、アケビの花のようだった。

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アケビの花

正確には白いところは「萼(がく)」で、紫色の部分が花なのだという。
見たこともない形と色の組み合わせだったので、外来の植物かとも思ったがそうではなかった。
こうやって花を見るのも楽しいな。

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田と林が入り混じる

そこから車で5分ほど行った岩屋堂地区。
田と小規模な林、ため池が入り混じって、滋賀県でいえば甲賀市の旧甲南、甲賀町あたりに似た感じがする。

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(冒頭の写真) 

新緑の季節なのにまるで紅葉のような赤い高木。
新緑の高木もあって緑、赤のコントラスト。
たしかにこれは、これまで見たことがない光景だ。

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林と田園

天気がよくて風もない。ぽかぽかとして絶好の散歩日和。
花が日差しを浴びて喜んでいるかのよう。




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ため池のスイレンとコイ

農作業中の地元の方から、見られる場所を教えていただいた。
今年の見頃は少し過ぎたかな、ということだった。
4月10日前後の今頃が見ごろかなと思って来たが、例年より咲いたのが早かったようだ。
看板はない。あぜ道の草刈りがしてあって、歩きやすくなっていた。

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ため池とハナノキ

ため池沿いにハナノキがある。
ハナノキは、やはり湿地を好むようだった。
この群落には大木だけじゃなくて若木もある。

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幹から新芽が出る

若木の幹は、表面がつるつるしているが、老木はひび割れていて、違う木なのかと思ったが花が同じだ。
一本一本、番号札がつけてあり、個体が識別できるようになっていた。
このあたりは数百万年前にあった大きな湖、東海湖の名残といい、ハナノキなど、この地域に特有の植物を、東海丘陵要素植物群というそうだ。
東海湖、いつだったか、上石津町に最後の東海湖の痕跡を見に行った(2017年3月10日「幻の東海湖」参照)。
最大時で琵琶湖の数倍の広さがあったという東海湖だが、東のほうからだんだん土地が隆起していって、最後は美濃地方の西端に追いやられて消滅した。それが100万年前のことだという。

そうしたらその次には、山を隔てて西側の伊賀地方にあった湖が北に移動していって、琵琶湖として成長し始めた。
東海湖の消滅と、琵琶湖の成長が、なぜか連続している。本州が東西から圧を受けて沈降、隆起した動きが、東から西へと伝わっていったような感じをイメージするが、実際はどうなのかはわからない。

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シデコブシ

シデコブシの花もその一つなのだそうだ。ハナノキと同じ場所に生えていた。
花の季節はもう終わりかけだった。

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ヒガンバナのような花

ヒガンバナのような形をした花もある。
きょうはいろんな花を見る日だ。


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ため池ごしに山が見える。見晴らしがよさそうな山だ。

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雪山の稜線が

はるか北のほうに雪山の稜線がのぞいている。
御嶽山? いまごろ雪があるなんて。

のどかな風景だが、このあたりに、リニアモーターカーを通す計画があると聞いた。
通ったらどのように景観が変わるのだろうか心配だ。
そう今回は、リニアで景観が変わってしまう前に見ておきたいとも思ったのだった。

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ツツジの誘い

つぎに、すぐ近くにある恵那峡を目指す。
駐車場にとめると、ツツジの花の間に道があって、花が誘っているようだ。

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この中に止まっているはずだが

さきほどのハナノキの場所でも見かけたが、アゲハチョウのようなチョウが2羽、舞っていた。
岐阜県だけに、ギフチョウかと思ってカメラを向けるが飛び去ってしまう。東濃地方では、春に地表に日が差す落城樹林のところにいるようだが、まさにそのような条件を備えた場所。
上の写真は、チョウが止まったあたりを撮影したもの。枯草の上にとまったのを確認し、数メートルの距離を置いて撮影、近づいたら再び飛んで逃げてしまった。
画像を拡大したら、チョウが確認できるんじゃないかと思ったが…ついに分からなかった。
あの羽の模様は、すごい迷彩色なんだなと納得。

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恵那峡。対岸の崖の上に苗木城が見える

木曽川やその支流が、100メートル以上も土地を削り込んで峡谷をつくっている。
滋賀県で似た光景を探すとすれば、瀬田川の立木観音あたりだろうか。
対岸の崖の上に、苗木城が見える。
岩質は花崗岩なので、大津と信楽を結ぶ大戸川の渓谷の規模を10倍にしたような感じだ。
隆起していく大地を、木曽川が削っていた結果、このような雄大な渓谷ができたという感じだろうか。

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岩屋の大祭

崖上の巨岩をくりぬいた祠で神事が行われていた。
朗々とした声で宮司さんがお祓いをしている。
戦国時代に吉田源斎という力自慢の男がすんでいたと伝えられる岩で、今では土地の人々を守る大明神として、年に1回の大祭が営まれていたのだった。神妙な様子に同行の友感激。
いつも大祭では飲食をするが、コロナのため神事を縮小したということでほどなく大祭はおわった。


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大明神への供え物

岩屋の中をのぞかせてもらった。
宮司さんから、真正面からは撮らないでほしいとお願いされ、斜めからのアングルで撮る。
花崗岩をL字型にくり抜いたんじゃないかと思ったが、どうなのか。
調査では炭化した物が見つかっており火を炊いて食事が行われていたようだ。

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恵那峡(パノラマ撮影)

この源斎岩の左側を通ると展望台があり、上の写真のようなパノラマが広がっている。
手前の木曽川は左方向が下流で、奥から流れ込んでいるのは支流の付知川だが、支流といっても滋賀県の大きな川くらいの流域面積、水量があるのだろう。

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川底が見える

下流で川がせき止められているので、ダム湖のようになっているが、見ると水が濁っておらず、エメラルドグリーンの水には川底が見える。
これは、花崗岩地帯のため川底は泥じゃなくて、白砂がじゃんじゃん供給されるからもしれない。木曽川の本流だから流量が多くて、水がすぐに入れ替わるだろう。だがこれだけ森に囲まれているから、落ち葉とかも相当、落ちるはずなのに。ダム湖なのに濁らないのは不思議だ。

ハナノキと新緑の大規模な渓谷を見て、東濃地方の自然を堪能した。







posted by 進 敏朗 at 16:50| Comment(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする