2024年03月31日

洞窟と縄文人、支湖

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三ケ日人只木遺跡の洞窟(奥)

月初に引き続き浜名湖周辺を探訪

2024年3月の最終日は初夏を思わす陽気であった。
早朝より車で静岡県の浜名湖の東北部を探訪する。
今回、突発的に出発したため、あまり下調べはしていなかった。
東名高速三ケ日インターを出て、県道を北上し約10分、遺跡近くに到着。

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ミカン園

そこは収穫の終わったミカン園が広がっていた。
県道脇のスペースに停め、集落内の坂道を徒歩で上がるとすぐに洞窟の前に着いた。残念なことに、落石が危険とのことで立入禁止であった(冒頭の写真)。その洞窟は採石場の跡でもあった。
朝の光に、キツツキのドラミングが聞こえてのどかな情景だが、残念である。

今月初旬には浜名湖の東に隣接する佐鳴湖(さなるこ)を訪れ、湖の近くに大規模な貝塚があったのを見たのだが、三ケ日も訪れてみたい場所であった。
遺跡は浜名湖のそばではなく、湖の北端から、川筋を数キロさかのぼった丘陵地だった。

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みかんの産地。坂を下りた先に洞窟はあった

三ケ日人といえば旧石器時代人、と習った記憶があるが、その後の研究で、見つかった化石人骨はそこまでは古くなくて9000年前の縄文早期のものだったと訂正されたという。
あの旧石器ねつ造事件を機に、それまでの旧石器時代の人骨といわれるものが見直されたのだという。

でも9000年前といってもじゅうぶん古い。
旧石器人ではなく新石器時代の縄文人ではあるのだが、佐鳴湖近くで「蜆塚」を築いた縄文中期から後期の人たちとは数千年の隔たりがあるから、それとはまったく別時代のようでもある。
三ケ日の洞窟からは、絶滅した大型動物の骨も出ているが、それらは旧石器時代から続いてきた狩猟文化を伝えるものではないだろうか。
いっぽう、佐鳴湖の蜆塚の人たちはもっぱらシジミを採って暮らし、ときどき鹿やイノシシを狩ったようである。
数千年の間に、洞窟生活から台地の貝塚へと移るとともに、生活様式も大きく変わったかもしれない。

浜名湖の「支湖」、猪鼻湖

今回あまり計画性なく訪れたのだが、地図を見ると浜名湖の東北部が陸地で囲まれて独立した湖のようになっている。これを見に行くことにし、三ケ日の駅を目指す。そこは、旧三ケ日町の中心である湖畔の駅であった。

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ハンバーガー店のある三ケ日駅

地図をみると遠州浜名湖鉄道は浜名湖の北と西を取り巻くように走っていた。
三ケ日は浜名湖の北端に川が注ぐ地点にあり、東海道の脇往還の宿場でもあった。
こうした水辺の交通の要衝の街は私は好きである。
時間があればまたじっくり訪れてみたい。
この駅からすぐに、猪鼻湖の北端となる河口がある。

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鉄橋と列車、水鳥

川を眺めていたら、ちょうど新所原行きの列車が通過した。
潮が満ちているのか橋脚が頭しか見えない。遠州灘からだいぶ奥まった場所だが潮汐の影響を受けるのか。
水鳥が飛び立つ。
穏やかな水面に鏡写しとなって趣深い。

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猪鼻湖を望む

視線を川の下流に向けると猪鼻湖が広がっている。
面積は5.5平方キロ。
浜名湖(65平方キロ)の「支湖」と説明書きがあった。
「しこ」という言葉を私は初めて見た。
ふるさと鳥取県西部の方言では「〜だそうだ」と言うのを「〜だしこだ」と言うので、「支湖だしこだわ(支湖だそうだわ)」となる。
そんなフレーズが脳内に浮かぶ。
いまではそんな方言を使っている人も相当な年配の方だと思う。余談だった。

ただ、琵琶湖では、そこに接続する西の湖などの小さな湖を「内湖」と呼んでいる。
福井県・若狭の三方五湖では、水道でつながるなどして五つの湖があるが、どれも広さがそんなに変わらないためどれがメーンでサブといった扱いはなく「五湖」と呼ばれている。
湖の大きさ・形の違いによって、さまざまな呼称があるわけなのだが、猪鼻湖は地図で見ると、その南端は水道で、メーンの浜名湖と区切られていてひとつの独立した湖のようにも見える。

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浜名湖と猪鼻湖の水道に架かる橋

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カキ浜

そこで、猪鼻湖と浜名湖の境となっている水道まで行く。
車で約10分。
赤い橋と銀色の橋がかかっているが、赤い橋を渡るとそのまま水道を素通りして先まで行ってしまうので、大回りして戻った。
先端部に下りようと思ったら、トンネルを出てすぐに左折し、旧道の銀色の橋を渡らなければならない。

湖岸の有料駐車場に停める。
白砂の浜かと思ったらそれは積みあがったカキ殻だった。

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鳥居と湖、釣り

水道の先端部に行こうと遊歩道を歩くと、下に鳥居が見える。
釣りをしている人がいる。
水道の幅は100メートルくらいだろうか。流れがある。

釣り人に尋ねるとセイゴを狙っているという。
昔はカレイも釣りものであったが今はカレイは見かけないという。
この水道は水深があり、釣りのポインであるらしい。
「水温が上がったせいか、引きが強かった」
と40センチを釣り上げたという釣り人は語る。
セイゴ釣りの人は水道沿いの両岸に何人も竿を出しており、ここらの地域では重要な釣りもののようだった。

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猪鼻の崎

先端部には祠があるが、まるでプチ竜宮城。
ことしの初詣で行った近江八幡の藤ヶ崎龍神を思い起こさせる。
この岩の形が猪の鼻のようだということで猪鼻湖となったそうだ。
岩から生える松の木に趣を感じた。

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先端の岩。左端の飛び出た岩の形がイノシシ風

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橋上から猪鼻湖を望む

銀色の橋の上から岩の眺めが良かった。
ただ、幅が広くないので自動車やサイクリングの自転車に気を付けねばならない。

猪鼻湖は、いい感じでひなびた風光明媚な場所であった。
バイクメーカーの本場のせいか、浜松ナンバーのバイクが多く、爆音が少々うるさい。
この場所から徒歩数分のところには、浜名湖の本湖(?)が一望できる駐車場があったが、そこではライダーが集まって、堤防にもたれかかってご機嫌な様子だった。


嵩山蛇穴と水穴

まだ少々時間があったので、帰りがけにそこから北西にある「嵩山蛇穴(すせじゃあな)」を目指す。
いったん三ケ日まで戻り、国道362号を西へ約10分。愛知県境の暗いトンネルを抜けるとすぐに駐車場があった。

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蛇穴への階段

国道沿いに車を停めて徒歩約5分で、洞窟に行く石段があったがここにも駐車場があった。
ここから約30メートル登ると洞窟はあった。

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嵩山蛇穴

不気味な口を開ける鍾乳洞。
中から懐中電灯を持った親子連れが出てきた。
奥は70メートルくらいあり「広いですよ」と話していた。
しかし、危ないので中には入らず、入り口から見るにとどめる。

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入り口付近

鍾乳石が、まるでのどちんこのようにぶら下がっている。
この奥に縄文人はすんでいたのか。
冬は暖かく、夏は涼しい洞窟。
しかし内部は地下水で濡れているし、健康は保てたのだろうか。

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縄文人の想像図や洞窟内部の図解

この洞窟と、最初の三ケ日の洞窟とは10キロくらいしか離れていない。ともに縄文早期の遺跡というので、同時代に住んでいた可能性もあるかもしれない。そうすると、互いに行き来があったかもしれない。

この蛇穴のある場所は急な石段の上だったので、こんな不便な場所を選んで住むなんてと思ったが、三河と遠州を結ぶ「姫街道」にほど近い場所にあることを考えると、周辺地域との交流に便利な場所だったのかもしれない。

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洞窟近くに生えるバクチノキ

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水が湧き出る一角

洞窟から降りて、近くに湧水が出るところがあるというので、通りがかりの人に場所を訪ねるとそれはすぐ近くだった。
林道の脇から水が出ているのが見える。

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嵩山の水穴

近寄るとそこは、岩に穴があいており大量の水が湧き出ていた。

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流れ出る水

林道の反対側に勢いよく谷川となって流れ落ちている。
これだけ豊富な水が出ている湧水地点だが、案内看板も特になく不思議な感じも。

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水をくむ

いつものカップを忘れてきたので、コンビニでプラのコップを買った。
とても勢いある水。飲んでみたら、やはり地下水なので、そんな冷たくはない。夏だったら印象が違うかもしれない。
まあ、こんな水場もあるから縄文人には好都合だったに違いない。

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蛇穴近くのため池。水鳥の楽園

湖と岩、ローカル鉄道、湧水、縄文の遺跡。
浜名湖周辺はいろいろと訪れがいのある場所であった。
浜名湖といっても広いので、今回、その一部に焦点を当ててめぐったが、そのおかげかあまり人波にもまれることなく、ゆったり見て回ることができた。

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<おまけ>開花していたサクラ


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2024年03月03日

佐鳴湖とシジミ

佐鳴湖

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高さ30メートルくらいの台地に囲まれた佐鳴湖(午後2時ごろ)

静岡県の佐鳴湖を訪れた。
浜名湖の東にある、南北2キロぐらい、東西約500メートルくらいの小さな湖で、面積は約1.2平方キロメートル。
水が流出する「新川」を通じて浜名湖とつながっており、わずかに塩分がまじる海抜ゼロメートルの汽水湖だ。

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昭和33年の発掘風景。貴重なカラー写真

佐鳴湖のすぐ東には「蜆塚(しじみづか)」と呼ばれる縄文時代の貝塚があった。
市の博物館が整備されていた一角に「貝層」と看板がある。

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「貝層」の案内

階段を下りると。ガラス越しに積みあがった貝を見ることができた。

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午後の光に照らされる「貝層」の断面

遺跡には貝塚が3か所あり、住居は貝塚に囲まれるようにして存在していた。
積みあがった厚さは1.5メートルくらいある。
説明によると1000年くらいの間、人が住み続けていたのではないかという。

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ほとんどがヤマトシジミという部分

蜆塚と呼ばれるだけあって、たくさんあったのはシジミであった。
ヤマトシジミと説明があった。宍道湖や、鳥取県の東郷池などにもいる汽水域にすむシジミだ。
そのほか、アサリ、ハマグリ、カキなど二枚貝や、アカニシといった巻貝もあったがこれらは潮干狩りでおなじみの海の貝。
どの貝もラージサイズや特大サイズだったが、干潟には大きいのも小さいのもいることを考えると、縄文人は大きいやつだけをとって、資源管理を図っていたように思えた。

縄文時代の温暖な時期は、海面が現在よりも高かったというので、浜名湖には海水が流入し、佐鳴湖も浜名湖とつながって奥の入江みたいな感じで、汽水域と海水のゾーンがあったのだろうか。

貝塚から湖に降りる緩いスロープ状の地形があり、湖に出るとそこは、家康が正妻の瀬名(築山殿)を殺害した現場であった。
観光ボート乗り場があったが、貝塚との位置関係からいって、縄文人もおそらく丸木舟をここらへんに停めていたのではないか。

貝塚と佐鳴湖との高低差は30メートル近くもあった。
そこは三方原と呼ばれる台地で、天竜川の扇状地が隆起してできた地形とされる。
佐鳴湖の東西は、高低差約30メートルの三方原台地によって囲まれる形となっていた。
このおかげで、この日は北風が強かったのだが、佐鳴湖の西岸側は風が遮られおだやかだった。
風よけをしながら、弁当をコンビニのシジミ汁とともにいただいた。
蜆塚を見て、佐鳴湖をみながらシジミ汁を食べようという趣向だ。

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コンビニみそ汁具材の殻付きシジミ(ピンぼけ)

セブンイレブンのシジミは、インド産で何と殻付きだったが、サイズはスーパーで売られているやつの半分くらいのスモールサイズだった。
そのサイズは貝塚でみたやつは殻の幅が3センチくらいはあったが、このインドシジミは1センチあるかどうかというサイズ。
いくらインドでも、こんな小さいやつを捕り続けていたら早晩枯渇してしまうのではないか。そんなことを思った。

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佐鳴湖の流れ込み

たくさんの市民が湖周を歩いたり、犬を連れて散歩したりしている。
1周が5.5キロというので、速足で歩けば1時間ほどで1周できるので、健康づくりにちょうどよさそうな感じがする。
数年前までは、「日本でいちばん汚い湖」ともいわれたそうだが、下水道の整備もすすんで水質は改善傾向にあるという。
崖からの住んだ湧水が流れ込み、湿地の周辺では鳥の鳴き声がうるさいくらい。

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ウ(中央やや下左の水鳥)

管理棟施設で佐鳴湖を描いたり撮ったりした絵画写真の作品展では、カワセミや、ミサゴ、オシドリ、などの鳥類が愛好家によって撮られていた。鳥類の豊富な湖であるようだった。


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2023年11月09日

北勢への遠足(下)

四日市あすなろう鉄道

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ナローゲージの車両

北勢への遠足旅行、東海道を歩き、四日市あすなろう鉄道の内部(うつべ)駅に着いた。
時刻は11時すぎ。発車までの時間を利用し、20分ほど写真を撮る。
線路幅762ミリのナローゲージで営業をしているのは日本で3か所だそうだ。
そのうち2カ所が三重県の北勢地方にあり、ひとつはこの四日市あすなろう鉄道、もう一つは桑名から出ている三岐鉄道北勢線で、そちらは昨年などに乗車したので、北勢のナローゲージ鉄道はどちらも乗車となる。

上の写真の車両はモ260形で車体長15メートル。
JR在来線の車両の4分の3の長さしかない。小さな駅に小さな電車が愛らしい。
ナローゲージ沿線の住民になり、駅前に住んで「マイ鉄道」として日常の足にしたい。そんな気持ちにさせる。

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内部駅には車庫もあった。内部車庫の内部が見える。

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延伸しようとした線路

そして反対側に目をやれば、線路を延伸させようとした形跡も残る。
駅で配布されていたパンフによれば、内部川に橋を架けて対岸には采女駅、さらに西進してあと5駅設けられる予定だったというが、ついに川を越すことはできなかった。

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電車に乗り込む

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幅が狭い車内

ミニ電車のミニ旅

さて乗り込むと、幅の狭い車内には一人がけシートが並ぶ。
車体の幅が約2.1メートルで、これは大型バスの2.5メートルより40センチも狭い。
3両編成の車両の両端の車両は、席は運転台のほうを向いており、中間車両は通路をはさんでシートの向きが逆になっていた。
二つ先の追分駅まで乗車。

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車両の先頭

走り出した。
内部の駅端には大きなアガベ(竜舌蘭)が植わり、ミニ電車と不思議なコントラストを醸し出す。
モーターがうなりを上げ、左右への揺れが大きい。
最高速度は、スマホのアプリで確かめると42キロ。
のちほど乗った、日永〜南日永間の下り坂で45キロを記録した。
しかし、速度以上にがんばって走っている感じが強い。
野球に例えれば、力感のないフォームから130キロの速球を繰り出すピッチャーがJRの東海道線の新快速だとしたら、力いっぱい投げているのに球速は45キロしか出てないというのがこちらの車両であろう。

ただ、乗り物に乗っている臨場感と言ったらおかしいが、モーターが力を発して一生懸命に走っている乗り物に乗っている感じは、こちらのほうが強い。

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追分駅付近の踏切

崖下の湧水

降りたのは2駅先の追分。
距離にしてわずか1.4キロ。
この内部線は全線乗っても5.7キロしかなく、これは先日旅した、岐阜県のJR東海道線垂井〜大垣間(8.1キロ)の1区間分より短い。
しかし5.7キロの営業でも8駅もあって、市街地を走っているためか、高校生をはじめ多くの人に利用されていた。

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崖下にある水源(路地の突き当り)

追分駅は、東海道と伊勢街道が分岐する有名な「日永の追分」の最寄り駅である。
そこでは「追分鳥居の水」と呼ばれる湧き水が出るというが、さらに調べると、その水源は、そこから西に入った崖の下だったという。
場所は追分駅から徒歩5分くらいの路地奥だった。
現場の崖の上には、要塞のようなマンションがそびえる。
路地の横には、ブルーの波板の住宅が目立つ。
しかも、波板は塗料を塗りなおした形跡もあって色鮮やかさが保たれている。
この水色は湧き水へのオマージュなのだろうか。

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水量が多い

コンクリート擁壁の穴数か所から水があふれ出ている。
ホースから出ている水を持参したカップにつごうとしたら、勢いが強くてカップが吹っ飛んだ。そこで滑らない場所に置いて汲みなおす。
一人、ポリタンクに汲んでいるおじさんがいるのでたずねると、40年来通っているとのこと。盆栽にやっているのだという。「水道水とは全然違う」と言っておられた。
飲んでみるとまろやか。
この水は道路わきの溝を伝って下流に流れていたが、まさかこの水が、街道の分岐点で飲まれているのだろうか。江戸時代ならいざ知らず。

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日永の追分

東に進むこと数分、東海道・伊勢街道の分岐点「日永の追分」に至る。
ひろい空をバックに、鳥居が立っていて祝祭感。これから伊勢参りですよという旅の高揚を感じさせる。
それに比べたら、滋賀県の草津の東海道・中山道の分岐点は本当にあっさりとしたただの街角だなあと思わされた。

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湧水が汲み上げられている

現代の「追分鳥居の水」は、さきほどの崖下から引かれたものではなく、やはりポンプで汲み上げられているように見受けられた。
その水を汲みに人が訪れていた。水量はさきほどの崖下よりは少ない。

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公園にはミカン成る

狭かった東海道

さて、ここからは東海道を北へ歩く。
日永は五十三カ所の宿場ではないが、宿場と宿場の間の宿で宿屋もあったという。
名残の一本松を見る。立派な大きい松だ。
滋賀県でもそうだが、東海道は、国道の抜け道となっており、広くない道幅を多くの車がすれ違い、しばしば立ち止まらねばならず歩きにくかった。

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名残の松

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最古の東海道の道標

江戸時代の前期の道標が南日永駅近くの神社の境内にあった。
明暦2年(1650)建立で、当初は先ほどの「日永の追分」に立っていたという。

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木製の枕木

このようにして追分から2駅分を主に旧東海道に沿って北に進み、南日永駅に着いた。
昼の食べ物を買おうと、いったん同駅の北側にあるローソンに行こうとしたら大通りだったが、踏切が硬木で固定され、よい質感だった。
また、踏切の遮断機の長さに限界があるのか、4車線道路に、遮断機が計4本据えられているのも見慣れぬ感じ。
八王子線を含めても総延長7キロにすぎないが、市街地に路線があるので、踏切の数も多くて設備の維持も大変ではないだろうか。
道標のあった神社に戻って食べようと思ったが、案外座るところがなく、立ったまま食べた。

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南日永駅

八王子線

南日永駅から再び乗車。
こんどはクリーム色と青色ツートンカラー車両がきた。
ここから隣の日永駅で、八王子線に乗り換えるのである。

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日永駅のホーム

日永駅に着いた。八王子線が分岐する駅のホームは広かった。

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三つの線路幅を現す展示

ホーム上にはナローゲージと、日本の在来線の線路幅である狭軌(1067ミリ)、新幹線や関西の大半の私鉄が採用する標準軌(1435ミリ)が並べられ、どれくらい幅が狭いのかがひとめで分かるようになっていた。
あまり眺める間もなく、八王子線の西日野行きが四日市方面から入線してきた。
カタカナの「ト」の字を逆向きにしたような四日市あすなろう鉄道の路線であるが、「ト」の横棒にあたる八王子線の電車は、日永ー西日野のひと駅を往復しているのかと思ったらそうではなく、全便が四日市を起点として四日市−西日野間の運転だった。

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西日野駅

八王子線は約3分後、ひと駅目の西日野で終点となった。
降りてみると、特に目立つものもない郊外だった。川が隣を流れている。
線路はもともと「八王子」まで伸びていたが、川が洪水をおこして路線が破損、以後、西日野が終点となり、駅位置も川からすこし離れた東に移ったようだ。

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西日野駅のとなりの川

折り返し出発までの9分の間、駅の外をめぐる。
駅を出ると川があり、対岸の高台には高校があった。学校の近くに駅を移したのか。

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駅構内に掲示されていた写真

西日野駅の構内にあった「旧西日野駅」の写真を見ると、川のすぐ脇に駅舎がある。
川も現在の深く掘り込まれた姿とは違って、砂が堆積してすぐ間近に川の流れがある。
川の風情と一体化したいい駅の光景だなと思うが、この川との近さのために、洪水で再起不能となってしまったのが残念だ。

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列車の行き違い

9分がたち、西日野から「四日市行」に乗車。つぎの駅日永で降りると、再び内部行きの電車が連絡しており、待ち時間なしで乗り換える。
再び南日永で降りた。午後2時くらいだった。
この駅でなぜ降りたのかというと、この南日永からJRの南四日市駅まで徒歩10分くらいで目指せそうだったからだった。
亀山駅に車を停めている関係上、JRで帰らなくてはならないが、四日市あすなろう鉄道はJR関西本線とは交わっておらず、いちばん駅間が近そうなのがこの南日永と、JR南四日市の間だった。

旧国鉄感の残る駅

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南四日市駅

南日永の駅近くからは、太いまっすぐな道路が通じており、商業施設の横を通って約10分ほど東に進み、左に入るとほどなく、駅前広場があって南四日市の駅舎が見えてきた。
戦後の近代的な駅舎というか、広い窓が屋根の下までつながった軽快な雰囲気の建物で、「明るい社会」という標語のような懐かしい感じがした。
しかし中に入ると券売機もなく、建物も朽ちかけて荒廃していた。
駅前広場のだだっ広い開放感。自転車も止め放題のようで、あんまり管理がされておらず国鉄時代の風情がそのまま残っているようだった。

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ちいさなホーム上の待合所

駅舎を抜けると、貨物線が何本も走る中、ホームが島のようにぽつんとあって、小さな屋根付き待合がある。ホームの長さとの対比がすごい。広い敷地の中に、おまけのようにホームが据え付けられ、味わい深い。タイの鉄道駅を思わせた。

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コンクリ通路スペースが広いJR四日市駅

このあと同駅から、亀山とは逆方向に四日市駅まで行ってみたが、これまた国鉄時代の風情が濃厚な、重厚かつ武骨なコンクリ駅舎で、滋賀を含めた京都近郊区間のJR東海道線沿線の近代化駅舎からはとうに失われてしまった雰囲気があり、旅情緒にひたった。午後2時半ごろだったが、駅前のマルシェはすでに客は去り撤収モードに入っていた。そのにぎわいの少なさもまた味わい深い。
四日市ではJRよりも近鉄沿線のほうがにぎわっているので、JRの駅前はうら寂しいものだった。関西の東海道線でも、向日町駅とか、そんな雰囲気が残っている駅もあるが、向日町は東口開発の話もあって、ほどなく姿が変わってしまうかもしれない。そう思えば、この昭和後期で時間が止まったような雰囲気は貴重なものに思える。

このようにして後半は、すっかり乗り鉄の旅のようになり、自宅から距離的にはそんなに遠くはないがあまり知らない地域を歩いたり、ユニークな鉄道や昭和時代を感じさせる駅・路線を利用したりして、半日旅を楽しんだのだった。



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2023年11月04日

北勢への鉄道遠足(上)

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JR関西線で亀山から名古屋方面へ3駅目、河曲(かわの)駅

三重方面への遠足

晩秋の晴れた日。
三重県の亀山駅から朝、8時の電車で出発する。
同駅を起点に見立て、北勢方面への「鉄道遠足」を企画。同駅までは車で1号線を経由し到着し、コイン駐車場(1日300円)に停めた。
滋賀から三重へは草津線がつながっているので、ここまで車を使わずに来ることもできるが、草津線終点の柘植(つげ)で亀山方面の連絡が良くなく、亀山でも乗り換えが不便という二重苦が待ち受けているためそれは採用しなかった。
いっそのこと車だけを使って移動すれば時間もかからず便利だが、どこか知らない場所に行くとき、鉄道で行く方が、だんぜん旅をした感じが強まる。
車は自宅と始発駅を結ぶ手段に限定し、あくまで「鉄道と徒歩の旅」という体で、亀山「始発」の半日旅とした。

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朝の亀山駅(午前7時50分ごろ)

亀山駅は1890年開業という古い駅だそうだが、駅前は真新しいロータリーが広がっていた。
ホームに待機する名古屋行き電車には乗客が乗り込み、始発のムードは満点。
亀山から東は鈴鹿川の左岸沿いに丘陵と平野が広がり、まっすぐな路線を電車は快走。
3駅目の「河曲(かわの)」に8時21分に着いた。
対面式ホームの駅から、踏切を渡り小屋のような駅舎抜けると静かなロータリーに朝の日が差す。
数人の高校生が駐輪場から自転車で走り去った。

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河原の広い鈴鹿川

鈴鹿川の土手沿いに道路が走る。
鈴鹿川は全長32キロの川で、規模でいえば滋賀県の愛知川よりすこし小さいくらいか。平野部が広めで、山間部は滋賀県の川より浅い。
河原には白砂がいっぱい堆積している。
対岸は近鉄鈴鹿線が走り、大規模な建物が望めるが、JR沿線であるこちら側は田園そのものの風情だった。
ここに何があるというのか。

古びた「御井」

さて河曲駅前の看板を見ると近くに「山辺の御井(やまのべのみい)」というものがある。
どうも昔の井戸か池の跡のようだ。

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藪の中に案内される

予定していなかったが行くことにした。
西に向かって約10分。「公家坂」という石柱のところから林の中に分け入り、すぐのところに表示があった。

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見る影もない「山辺の御井」。奥に石碑

藪に囲まれた、泥のたまった小さな池で草など生えて、使用されていない様子。
江戸時代にこの土地の伊賀神戸藩の殿様が訪れたことを記念して石碑が建っている。
この水たまりが、そこまで著名な池だったのか。

山辺の御井は奈良時代の初期の和銅5(712)年、古代の皇族である長田王が伊勢斎宮への途中に立ち寄り、歌を詠んだ現場とされる。
さらには山部赤人の屋敷があったとの言い伝えも。
万葉歌人として名高い山部赤人だが、調べると関連の旧跡は千葉や滋賀や静岡など各地にあるようだ。
そして山辺の御井についても、この場所のほか県内でも4カ所の比定地があるという。
実際ここがその歌に詠まれた場所であったのか。

ここが大和盆地から伊勢斎宮に行くルートからやや外れている点も気になる。すぐさま南下すれば行けなくはないのだが。
現在の姿は、ただの蚊が出る湿地である。
しかし、丘陵の崖下に位置しているので、泥の堆積を取り除いたら清水が湧き出る池が復活するかもしれない。
これから徒歩で向かう先には、国分寺の跡もあったりして、古代の北勢地域の中心地だったような場所なのだ。
皇族が伊勢に行く途中、少し寄り道をして立ち寄ったとしてもおかしくはない。
何せ1300年も前の話である。確かなことはよくわからず、想像は膨らんでいく。
1300年前の清水の跡が、いまも残っているとしたらすごいことだ。
丘陵の崖から出る清水、これがこの後の行程にも現れるのだった。

伊勢国分寺へ

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門のように立つ二棟の建物の間に、石柱が立つ

さてもういちど河曲駅に引き返したら9時。
こんどは進路を北に取って比高約30メートルの丘陵地を上がっていく。
するとなだらかな坂の入り口で道の両側に石柱が立っている。
この先に、伊勢国分寺跡があるという。

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史跡公園が整備されている伊勢国分寺跡

そこは考古学博物館があり、国分寺跡は史跡公園として整備されていた。
高台の上は平坦になっており、資料館の2階から全景を眺めることができた。
この日はもやがかかり、鈴鹿山脈までは望めず。

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蓮や蔓草文様の国分寺の軒瓦

伊勢国分寺は金堂・講堂・僧坊・食堂などの施設を備えていた。塔は、小院と呼ばれる区画から一辺が26メートルの建物跡は見つかったが、念入りな地固めがされた跡が見受けられず、そのことから塔の存在を疑問視する見方もあるという。だが、資料館のパンフには、奈良県の寺で地固めをしていない塔跡が発掘されたことから「塔と考えてよいでしょう」とある。どうなんだろう。でも、1300年たって地形が変わっていないことからも、地盤はしっかりしてそうな印象で、塔が立っててもおかしくはない気はする。

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巫女の埴輪

山辺の御井、そして伊勢国分寺。
この河曲のあたりには古代の遺跡が多い。
館内を見学すると、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡や遺物が紹介されている。
縄文と弥生で遺跡の場所がほぼ変わっていないことから、平野の中に点在する高台を拠点として、長い間、人が連続的に住み着いている印象を受けた。

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左の人と右の人

展示されていた一対の巫女の埴輪は、右の人と左の人で背の高さや、顔まで違う感じ(左の人は面長で目尻が下がり、右の人は切れ長の目で丸顔、薄笑い)で作られていて、実際にモデルがいたのではと感じさせる。
この後で訪れたが采女(うねめ)という地区もあって、それは雄略天皇の時代に機転を利かせて残忍な仕打ちを免れた賢い采女の出身地だという。この2人の巫女にも存在感がただよう。「できる女性」を輩出する土地柄だったのか。

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同じ高台にあった前方後円墳

国分寺から東へ約500メートルには、立派な古墳も見られた。
表面を覆っていたとみられる葺き石や、周囲には壕らしき跡も確認。つい3年前に竹藪が伐採されて丸裸になったばかりだったようで、全容が見られるのはラッキーだった。
など遺跡を見て古代情緒に浸った。
この高台では新しい家や規模の大きな住宅も多く見られ、集落をみても建て替えや、外構を新しくするなどの形跡が端々に見られ、人の暮らしの勢いのよさのようなものが感じられた。
日当たりも良く、柿やビワ、ミカンなどの果樹が至る所に生えている。
駅から近くはなく便利とは思えないが、人が好んで住む場所というものがあるのではないかと思えた。

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道の脇の林にはアケビも

東海道を行く

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1号線(左)と旧東海道

さて北上するとやがて国道1号線に突き当たり、広大なガレージをそなえた「采女食堂」の前を通り過ぎると、旧東海道が分離する。
1号線のほうは台地を切り崩してなだらなか下り坂になっているが、東海道は台地の上をそのまま進む。

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旧東海道の風景

江戸から数えて101個目の「采女一里塚」がこのあたりにあったという説明板があった。
モータリゼーション進む高度成長期、国道1号線の拡幅時に、徒歩旅の目印である一里塚が撤去されたとあり、移動手段の移り変わりを何とも象徴的に物語っていた。


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血塚社

昔ながらの街道の雰囲気を残す一角に「血塚社」とあった。
東国を征服した日本武尊が伊吹山の神にたたられ傷を負い、足を見たら血が流れていたという故事に由来。
「三重」という地名のおこりは、日本武尊が遠征に疲れ果てて、足が三重に曲がっているようだ、と言ったことに由来するという。
三重はつまり移動や旅の地、しんどさがピークに達する場所、というニュアンスを含んでいるのか。

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急坂始まる

血塚社から先の東海道は突然、急坂となっていた。
これが東海道の難所「杖衝坂」ということだったが、正直、少し迂回するなり、道をもっとS字にするなりして傾斜を緩くすることはいくらでもできたのではないか。わざわざ急坂を残したようなルート設定には理由があるのだろうと思った。随所に「難所」を残しといて、往来する人の把捉をしやすくするとか。

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坂の途中の弘法の井戸

いずれにしても今回は丘の上から下る行路だったので、この急坂を登らずに済んだのは楽だった。
資料館は残念ながら、土曜日休館ということであった。

さて私は何ゆえに東海道を歩いているのか。
それはこの先に、レール幅762ミリというナローゲージの鉄道「四日市あすなろう鉄道」があり、それに乗りたかった。

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内部川。国道1号の橋から上流方向を見る

坂を下りて国道1号に出、内部(うつべ)川の橋を渡ると、旧東海道はこんどは1号線の西側を並走する。
内部駅は左岸にあるが、内部小学校やうつべ資料館は右岸にある。川のどちら側が内部の内部なのか、外部なのか。
とにかく歩いている間は、このようなことばかりが頭に浮かんでくる。

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ロータリーが整備されていた内部駅

そして内部川の橋から東海道にいったん回って5分もしないうちに駅前にたどり着く。
グーグルの2017年撮影のストリートビューでは、駅前をふさぐように住宅が立っていたが、2021年にはロータリーとなっており、現地は数多くを収容する駐輪場が整備され、鉄道利用促進の政策が打たれていた。

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ちいさな終点の駅舎

ロータリーから下がっていくようにして内部駅の小さな駅舎があった。
切符を購入し、総延長7キロという「四日市あすなろう鉄道」に乗り込もうとする。

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四日市あすなろう鉄道の車両

穏やかな晩秋の日差しの中、古代の遺跡から、江戸時代の街道を通り、大正時代敷設のナローゲージ鉄道という「時間旅行」をぶらぶらと楽しんでいるのである。
(続く)


posted by 進 敏朗 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年10月01日

八幡湧水池(下)

岐阜県・西濃地方を代表するハリヨ生息地のひとつ、池田町の「八幡湧水池」を訪れ、ハリヨが実際にいることを確認した。
数はそんなに見られなかったが、いることはいたのでよかった。

池田町の平地に湧き出す水(現在はポンプであるが)は、元々濃尾平野が西側のほうが低くなっており、かつての揖斐川の本流が杭瀬川であったのと、西側にそびえる池田山の伏流水もあるためではないかと思われた。
周囲の地形を足で確かめようと、池田山のふもとまで湧水池から西へと歩く。

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平野の西にそびえる池田山(924メートル)

標高が900bを超す山頂は、しんどすぎるので、ふもとの公園を目指し、濃尾平野のひろがりを見た。
東向きの水に恵まれていそうな水田は良田ではないかと思ったが休耕田もあった。
平地が終わり坂道が始まるとその境目に集落があり、そこより上の緩斜面は茶畑。
そして坂が急傾斜となったところで登山道の入り口があり、奥は山林だった。田(平地)、集落、茶畑(緩斜面)、林(山)と土地利用がなされている。

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満開のヒガンバナ

濃尾平野を見下ろしながら、コンビニで買ったハンバーガーを食べた。水を飲む。
ここから下りて、天井川沿いの道を急ぎ足で東へ進む。

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柿色の揖斐行き電車

池野駅から、柿色の3両編成の電車で終点、揖斐駅へ。
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アユをかたどった揖斐駅看板

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終点だが、線路が奥まで延びているような

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揖斐駅の駅舎と、広々とした駅前

駅前から揖斐川の大橋へと幹線道路がつながっている。
まずさしかかったのが揖斐川支流の粕川であった。

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粕川の広い河原

池田山の西側の、伊吹山とにはさまれた山深い地域を源流とする川。
長さは18キロに過ぎず、揖斐川の支流でもそこまで大きいほうではないが水量豊富にして透明。
岐阜の川の迫力を感じた。

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シーズン終盤のアユ釣り客がいた揖斐川

そこから歩くこと数分にして、揖斐川の岡島橋に出た。
そこは堰のすぐ下流であった。河口まで56キロと表示もある。

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河口まであと56キロと表示する国交省の標識。

揖斐川の長さは121キロなので、源流まであと65キロ。
その長さは滋賀県最長の野洲川の源流から河口までとほぼ同じだが、やはり揖斐川のほうがだんぜん大きい。
それはやはり山の深さの違いによるものだろう。
揖斐川はこの大橋の上流がすぐに山地となっていて、山並みが迫っている。


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大きな堰がある 

山地が急におわって平地が広がるこの大橋の地点は、京都の保津川(桂川)でいえば、嵐山のごとき場所なのであろう。もっとも桂川では、保津峡の上流は亀岡盆地となっているが、揖斐川ではそれにあたる盆地が存在せず、どこまでも山深い地域のようだ。
さて、橋から川をのぞき込むと、水は思ったほど透明度はない。
上流に巨大ダムもあるというからこんなものなのか。清流への期待は外れた。

シーズン終盤の鮎釣りをする人が数人。透明度ではさきほどの粕川のほうがだんぜん良かったが、大きな鮎を狙うにはやはり本流か。
川の向こう側には揖斐川町の中心地があり、廃線となった名鉄揖斐線の終着駅がかつてあったのだが、そこまでは行かず引き返す。
揖斐駅前には観光センターもあって、自転車が借りられるほか、飲み物も。
沿線は平地なので自転車を借りて、サイクルトレインを使って周遊するのも楽しいかもしれない。

ローカル鉄道は、徒歩での旅に重宝する乗り物である。
この養老鉄道、線路幅はJRの在来線と同じ1067ミリであった。
先日乗った、大垣からふた駅だけのJR東海道線の美濃赤坂行き盲腸線は、そこからさらに貨物用の西濃鉄道が数キロ北まで線路を延ばしている。

そこで思ったがこの貨物鉄道を北へ4〜5キロ延伸させれば養老鉄道に池野駅あたりで行き会う。JR東海道線の美濃赤坂線と西濃鉄道、養老鉄道をつなげば、大垣を下端に、アルファベットの「b」を逆にしたような形の路線ができる。3会社の線路をつなぐことで、西美濃の平野にミニ周遊路線が描けるのではないか。などと空想にふけりながら大垣に戻った。

posted by 進 敏朗 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする