2023年09月09日

金生山と湧水池(下)

路線バス乗車、印象的な停留所名

P9101191.JPG
旧中山道の赤坂の町並み

休日に東海道線で岐阜県大垣市を訪れ、金生山を往復して汗だくになった後、美濃赤坂駅から電車に乗って、南西の方角数キロ先にある趣ある田園の池を目指そうとするが、3時間に1本しかない電車に乗り遅れ、待ち時間が惜しいことから路線バスに乗ることにする。
池に近づくには、大垣駅行きとは逆方向の「消防赤坂分署」行きに乗る。同署の詳しい位置をグーグルで見ようとしたら東京の赤坂消防が表示される。響きが都会的なバス停。
途中「昼飯(ひるい)」「昼飯南」のバス停を通過。ここで昼食を取れば、忘れられない思い出になりそうだったが、暑さによる疲労でそのような余興を試みる余裕もなし。

終点の消防赤坂分署からは、目的地の池にさらに近い場所まで運んでくれるコミュニティーバスが接続しているはずだが、時刻表を見ると1時間の待ち合わせ。さらなるバス利用はあきらめて歩くことにした。
グーグルマップによると、池まで3.3キロ。金生山を下山した地点からは4.6キロだったので、1.3キロ近づいたことになる。わずかだが昼の暑い時間帯、この違いは大きい。幸い、午後から雲も出てきて日差しが遮られてきた。

P9101192.JPG
頭を出す伊吹山

水田転作のエダマメ畑が広がる田園の道を歩く。
何の変哲もないように見える農道でも、訪れたことのない場所を歩くのは楽しい。
前方には西美濃の山並みから頭を出す伊吹山。

P9101202.JPG
採掘が進む金生山

北側を見やれば、採掘の進む金生山の姿。凹んでいる部分の右側を登ったことになる。
あれがまるごと、数億年前のサンゴ礁であったというのはにわかに想像しにくい。

P9101199.JPG
矢道川。

歩くこと約40分、一級河川「矢道川」に差し掛かる。
橋のたもとから、この夏公開されたジブリ映画で注目された鳥、アオサギが飛翔。
澄んだ水が勢いよく流れる。草が刈り取られた直後だが、行きがけの電車からは草刈り作業の様子が見られた。
川の看板の真後ろに、ヤナギの木が2本立っているのが見える。あそこが目指す池だ。

水量豊富 趣ある池だが

P9101203.JPG
池に到着

池に着いた。もともとの湧水池を整備し、ポンプで水をくみ上げていると説明があった。

P9101204.JPG
排水口

池から用水路へ、かなりの水量が排出されている。正確にはわからないがバケツ1杯分が2、3秒で満杯になりそうな量。
これだけの水量があれば気温の上昇による温度変化も少なく、ハリヨの生育には好条件ではないか。

P9101205.JPG
池の全景

さて池には魚はいるのか。
静かな水面にはアメンボ、黄色いイトトンボ。
岸近くに、カワムツ幼魚らしき群れ。
水中は髪の毛のような緑色の藻で大半が覆われている。

P9101208.JPG
水源付近

池の南西側に水源が2カ所。
ここに隠れているかも、と凝視するが見当たらない。
橋のところではいつくばって下をのぞき込むと、カワムツとともに、ザリガニ発見。
ハリヨの姿は確認できず。
私の低い観察眼のため、見つけられなかった可能性は大いにあるが、ポンプで復活させた各地のハリヨ池を訪ねて、ハリヨが見られなかったのはこれが初めてではない。

P9101215.JPG
脇を走る東海道線を電車が通過

せっかくの事業費を投じて整備されたハリヨ池であるが、趣ある湧水の中の光景は淋しい。
このような生き物の乏しさの原因は、やはりザリガニではないかと私は思う。

環境省によると近年、各地の水辺でオニバス等の在来水草が急減、それによってゲンゴロウなどの水生昆虫も姿を消しているが、同省は、ザリガニによる食害が原因と断定した。今年6月、アメリカザリガニを含む外来ザリガニ全種が「特定外来生物」に指定され、再放流禁止となった。
かつては私もザリガニ捕りなんかを楽しんでいたが、その生態系への影響の大きさが知られるようになり、認識をあらためた。
今となっては水辺からの根絶はかなり難しいかもしれないが、琵琶湖でのブルーギル・ブラックバスのように官民挙げて減らしていく取り組みが、特定外来生物指定を機に、趣ある水辺の復活に向けて求められると思う。
ハリヨの生態にも好影響となるだろう。

美濃路から垂井 不可侵な雰囲気の鉄路

P9101218.JPG
美濃路の松並木

さて帰路につく。
最も近いバス停からも距離があることから、西に3キロほどの垂井駅を目指す。
東海道線の関ヶ原−大垣間を北回りする「垂井線」の脇を南進。
そこから東海道と中山道を連絡する脇往還の「美濃路」に入り西進。
立派な松並木が沿道に続くが、歩道を圧迫した形に。心理的に車道から離れた側を歩きたいんだけど、並木の前で迂回するような格好になってしまう。昔のものが残っているのは貴重ではあるが、もうちょっと歩道幅に余裕があったら。車道を確保しなければならないので、歩道が制限されるのは仕方ないかもしれないが。なんかこう、景観がまとまらない感じがする。
できれば車通りの少ない静かな道を歩きたかったのだが、美濃路を並走する東海道本線を渡ったりくぐったりする道路がなくて、そのまま垂井駅の手前まで行くしかない。
沿線に市街地が広がっているにもかかわらず、駅間が8キロ以上もあったりして、かつ滋賀県では新設例も多い線路を跨ぐ道路はおろか、踏切すらないのは不思議な感じがする。地域<<<鉄道、というような、この地域における東海道本線の存在の絶大さというか、不可侵な雰囲気を感じ取った。


P9101224.JPG
旧中山道、垂井のまちなみ

そして池から歩くこと約40分、垂井のまちに着く。
美濃赤坂と同じく旧中山道の宿場町。上の写真の左奥の建物が酒店で、ここで缶ビールを買い、400メートルほど南にある垂井駅の広場に座り、ささやかな打ち上げとした。本日、金生山に行き、計約12キロを歩いたが、暑くて疲れた。
今回、東海道線の赤坂支線やバスを使い、半日歩き旅をしてみたわけだが、本日訪れた池にしても、車以外の交通手段を使って訪れることは想定されていないようだった。
まあ大体、行きたい場所は、そういったマイナーな場所が多いので仕方がない。
車で行くより、鉄道とかバスで行ったほうが、到達したときの感興が、がぜん大きい。
でも、車でしか行けなかったりする場所も多いし、何といっても短い時間で移動できるので、車が威力を発揮するケースも多々あるのだが。
歩きも含めて、ゆったりとその場所・時間を楽しむには、普通電車と公共交通が面白い。
半分行き当たりばったりであったが、地域の公共交通網を使い、意外性のあるルートを描いて回ってみたのだった。





posted by 進 敏朗 at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月12日

早春のビオトープ

P3120786 全景.jpg
アオサギのいる早春の湿地

三重県の知人を3年ぶりに訪ねた帰り。亀山で、広いビオトープに立ち寄った。
国土地理院の地図を見ていて、亀山市に池が数か所並ぶ場所があり、これは人の手で整備されたビオトープではと思ったが詳しくは調べず、たまたまそこを通りがかったのだった。
車を1号線のバイパスの脇に進ませると「亀山里山公園みちくさ」とあった。
春の芽吹きがようやく始まろうとしており、訪れる人もいない。

P3120784-うごめきの小池.jpg
うごめきの見えた小さな池

でも静かなのでゆっくりと見て回れる。
どのような風に池を造っているのかを見た。
それは田んぼの跡地のようだった。
魚のうごめきが小さな池からあった。オタマジャクシかもしれない。

P3120791 芽吹き.jpg
水草の芽生え

全体に水が少なかったが、これからどこかから流してくるのか。

P3120793 湿地景.jpg
小高い場所から見る

案内所のおじさんに話をうかがった。
やはりここは休耕田で、2008、09年に、谷地形の3.5ヘクタールを市が整備した。
これだけ広かったら、管理が大変でしょうと尋ねると、「いや、草は生やしとくから、そんなに大変ではないよ」とおじさんは答えた。
いや、でも、木は伐採とかしてあるし、水の管理も大変なのではないか。
おじさんによると今はザリガニの除去が課題となっているという。
特定外来生物に指定されたザリガニは、捕った場所から移動させることが禁じられた。
この公園では以前からザリガニ駆除として子供に手伝ってもらい、ザリガニ釣りを行い、子どもは熱中して取り組んでいたが、今後は持ち帰らすわけにはいかなくなったのだと。

P3120777-小魚.jpg
小魚たち

小魚もいる。カワムツや、タナゴ、クチボソのようなやつが水槽を泳ぐ。
メダカもいるんだそうだ。カワバタモロコが減っており、これを増やすことも課題となっているという。
ちなみに魚の捕獲は禁止である。

早春だったため、あまり花とかは見られず、静かだった。
こういう季節だからのんびりと歩いて回れるのだが、4月ともなれば、さまざまな行楽などが忙しく、せっかくこうしたビオトープで生物観察に適した季節になっても、なかなか来ようという気になれない。


posted by 進 敏朗 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月15日

三方五湖三館巡り(下)

館の内部 DSCN8457.jpg
年縞博物館の内部

水辺の周辺を歩きに三方五湖を訪れ、日程の後半は主に、博物館の展示などを見て、数万年の記録が残る湖と人の営みについてあれこれ思いにふける。
福井県立年縞(ねんこう)博物館には、お隣の若狭三方縄文博物館との共通チケットで入館。
水月湖の湖底にたまった、7万年分の規則的な縞模様のある堆積物「年縞」が、横倒しの形で長さ45メートルにわたり展示されている。
壁沿いを左から右にたどるとだんだん古くなり、最初の1000年分は幅が広いが、そこから先は堆積物の重みで締まって1000年分で1メートル以下になっている。
鬼界カルデラの噴火が7253年前。鹿児島南方の太平洋から降ってきたにしては厚くてびっくり。
氷河期の終わりが1万1653年前。
28888年前、大山の噴火。
3万78年前に、日本最大級の姶良カルデラ噴火とあり、5万9500年前にも大山の噴火があった。
これらの噴火では厚く火山灰が積もっているので、その際にはいずれも動植物、そして人がいたとしたら壊滅的になっていただろう。
1〜2万年に1回は、破局的な事態が訪れているようだ。
水月湖の年縞は7万年ちょっと前に始まっている。そこから下の層は堆積物が混ざって年代がきっちり計れないという。しかし、さらに下部には12〜13万年前ごろとされる年縞の状態がみられ、最終的には73メートル掘ったところで岩盤に達する。水月湖の歴史は20万年よりは新しく15、16万年前くらいだと館内のシニア解説員の方から教えてもらった。

つぎに、隣の若狭三方縄文博物館に入館。
こちらは「縄文のタイムカプセル」といわれる鳥浜貝塚を紹介する若狭町の施設。コンクリート製の巨大竪穴式住居のよう。

DSCN8478 鳥浜貝塚のあたり.jpg
鳥浜貝塚周辺

館内は写真撮影禁止。
三方湖の南岸、鰣(はす)川の河口に近い湿地から見つかった鳥浜貝塚の遺物もまた、水月湖と同様に沈降する地盤と、湿地の泥によって守られた。

土器は古くて1万3000年前くらいから。それは氷河期の末期だった。
1万2600年前のウルシの木の小片も見つかったそうな。
ウルシは、日本では人里近くにしか生えていないことなどから、日本にはもともと自生していなかったとの見方が有力になっているそうだ。
そして衣の素材である大麻も、そこらへんに自生はしておらず移入された植物。そして、アフリカ原産のヒョウタンは1万年以上前の出土物の中にあったという。水筒として長期の航海には必需品だっただろう。
切れ味のするどい黒曜石は、長野や隠岐の島、奈良の二丈山、香川産。
縄文時代の人は、まわりの自然を熟知して、有用なものをより分けて利用するだけでなくて、遠方と広範囲に交易をし、必要な道具や技術を身に着けたようだった。

この日は、同じ三方地域の藤井遺跡に関する展示があって、実はこれを見たかったが、思ったよりは展示が簡素で少し物足りなかった。
藤井遺跡は小浜線の藤井駅付近から出てきた縄文時代からの遺跡で、ちょうど鳥浜貝塚があまり利用されなくなって以降の時代に遺物が出てくる。
鳥浜貝塚の場所が、5000年前ごろに地滑りに見舞われるなどして住めなくなり、古三方湖の南岸に位置していた藤井地区に移住した、というようなことだったのか、などと想像するも資料が少なすぎてわからない。
興味深いのは、東側からの尾根が延びて平野に接する部分にある同地区が、弥生時代になると拠点的な集落となり、古墳時代までの遺物が出、そして現在も集落があるので、縄文時代からスムーズに暮らしが続いてきたような印象を受けることだった。

DSCN8476 鮒バーガー.jpg
鮒バーガー

さて昼になった。もういちど年縞博物館にあり、併設のカフェ「縞」で、期間限定のメニュー「鮒(ふな)バーガー」を食べる。
三方湖で、伝統の漁法「たたき網漁」によって捕獲されたものを使用。
揚げたフナがはさまれていた。タラなんかの白身魚よりも身離れがぱらぱらと細かく「フナの食感」がする。
滋賀県に住んでいるので何度かはフナの煮付けなどを食べる機会があったので覚えのある、淡白なフナ味だった。
鳥浜貝塚から出土した魚類では、マグロやタイなど海の魚もあるが、圧倒的に多かったのがフナの骨だという。
海に出なくても、鳥浜貝塚の目の前に広がる三方湖で、大量に捕れたのがフナだったのだろう。湖の一角にいけすを作ってしばらく活かすことも、海産魚と違って簡単にできただろう。

DSC_0511 フナ.jpg
縄文人がよく食べた、三方湖のフナ

縄文時代から食べ続けられてきた三方湖のフナ。
これを食べてみて、三方五湖と、縄文人とつながった気になってみた。

DSCN8479 現代の小舟.jpg
鳥浜貝塚付近。現在の小舟

外に出る。鳥浜貝塚のあった場所は公園と船溜まりがあり、現在のフナを捕る小舟も、サイズ的に縄文の丸木舟とそう変わらない。

DSC_0515 三方湖の眺め.jpg
鳥浜貝塚西側の丘から東北方向を見る

DSC_0539 古三方湖.jpg
南東側を見る。手前の平野は、縄文時代は湖(古三方湖)だったという

鳥浜貝塚西側の高さ数十メートルの丘に登ると、木々が生えているものの南や北の眺望が得られる。
愛宕神社となっており、尾根筋をいくと、平たくならされた土地も段々状につくられている。ここからだと、木を切り倒せば北や東(三方湖)や南(古三方湖)の眺望が得られる。
鳥浜貝塚の縄文人のメーン住居は、浜よりは丘の上にあったのではないか。という気もするがどうなのだろう。

さて本日はもう一館、舞鶴若狭道で行くこと約20分の、県立若狭歴史資料館(小浜市)にも行った。
そこで、バーガーでも提供されたフナの漁に関する展示がしており、鳥浜貝塚出土品のうち重要文化財はそちらで展示されているのだった。

DSCN8503 丸木舟.jpg
縄文時代前期の鳥浜貝塚丸木舟1号

そこには、付近で計9艘見つかった丸木舟のうち、いちばん古い1号が展示されており、展示物の写真撮影も自由にできた。
丸木舟は、杉の木で作られる。なお、縄文時代の中期以降になると、浅くて波静かな湖の航行に特化した浅底タイプの丸木舟が登場する。

DSCN8507 漁具.jpg

DSCN8512 網籠.jpg

漁具や植物を編んだ製品、そのほか石臼、石製のもり、木製の弓など、縄文時代の暮らしを知る数々に見入った。
見終わったころには午後4時半で、早朝から半日を費やしたこの日の三方若狭めぐりも終盤となった。

縄文のタイムカプセル鳥浜貝塚と、地球のタイムカプセル水月湖の年縞。これらは、沈下しながらも土砂の堆積が続くことで、数万年にわたり「平衡状態」が保たれている三方五湖からもたらされていた。
鳥浜貝塚は7000年以上もの間、利用されていたが、その年月の長さは、千数百年の時間しか経過していない「日本」の歴史の数倍。
現代の社会は、ひと世代違うごとに生活はがらっと変わってしまうのに、縄文時代の前半では、同じ暮らしが数千年続いていたように見える。人口も増えない。自然の恵みは豊かだが、けっこう厳しい暮らしであっただろう。三方五湖の自然に埋め込まれた地球と人間の暮らしをめぐってばくぜんとした思いにふけった。


















posted by 進 敏朗 at 13:11| Comment(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月12日

三方五湖三館巡り(上)


三方五湖全図2img20220315092816264.png
三方五湖の地図

DSCN8367 雪原.jpg

国道303号、高島市杉山の雪原(午前6時半ごろ)

暖かく穏やかな日和の休日。
水辺ファン待望の水辺巡りをしたい。
5時過ぎから車を駆り三方五湖を目指す。
福井県との県境付近は厚い雪が残り、これは川の流れとなって今年のコアユ捕りなども期待できるかもしれない。

DSCN8394 久々子湖.jpg
久々子湖

7時よりだいぶ前に、福井県若狭町の久々子湖南岸に着いた。
三方五湖の湖岸の大部分はコンクリ護岸で固められているが、久々子湖はこうした干潟がところどころに残っている。

DSCN8398 汀線.jpg
水や砂の動きがつくりだす文様

湖は波静かなので外洋の浜辺より繊細な汀線のカーブがみられる。
潮の満ち引きや、潮流などの動きと、風によってつくりだされる柔らかい縞模様と、波打ち際の線、山の形などがまざりあって混然とした空気感の風景が広がる。

DSCN8401 汀線2.jpg
波打ち際

三方五湖周辺は、河口や湖、低山、湿地といったものが見られるので、「水辺ファン」としては楽しい場所。
こういう場所だから海や淡水の魚、鳥類などがいろいろといる。

DSCN8403 海産貝.jpg

そんな水辺なら琵琶湖にもあるじゃないかということだが、琵琶湖にない要素としては海がある。
潟湖である久々子湖には海水が入り込んでいる。
浜にはシジミとともに、海産とおぼしき貝も落ちていた。
砂は白っぽい花崗岩の風化したものと、黒っぽいやや大きな石とでできている。
こうした粗っぽい砂の浜は、琵琶湖だともうちょっと急深になっており、遠浅の浜はもっと粒が細かくて泥っぽい。

DSCN8410.JPG
苧集落の周辺

菅湖周辺拡大img20220315091727274.png
菅湖周辺の地図

ここからまず湖の周辺を歩くことにし、宇波西(うわせ)川の河口付近から西に歩いて、浦見川の水道沿いを歩き、水月湖(上の地図で「∴三方五湖」と表示のある湖)に出る。

DSCN8414.JPG
浦見川の橋から水月湖を望む

久々子湖と水月湖をつなぐ浦見川は江戸時代に開削された水路。
久々子湖と水月湖はもともとつながっておらず、最上流の三方湖に流れ込んだ鰣(はす)川の水は、水月湖に流れ、次に菅湖(すがこ)を経由して川を通って久々子湖にそそいでいた。こうしたことは5年前に訪れた際に学んだ(2017年3月4日「三方五湖と梅、縄文ロマン(上〜下)」)。
菅湖から久々子湖へは、江戸時代の大地震までは気山川という川でつながっていた。縄文時代以来、三方湖から海に出るルートはこの浦見川ではなくて、菅湖から今は途切れてしまった川だったとみられる。
三方の地名の由来は「三潟」つまり、三つの潟というのだそうだ。三方五湖というのに、なぜ五潟ではないのか。
それは一つには、古代には久々子湖はまだ湖を形成しておらず口の開いた湾の状態だったことが考えられる。
でもそれだと四潟でもいいのではないか。
割とつながっている水月湖と菅湖を一つとして数えたかなどして、「三つの潟」として古代人はカウントしたのだろうか。ただ、どことどこを数えて三つととらえたかについては、調査不足で何とも言えない(すみません)。

DSCN8416 菅湖.jpg
咲きはじめの梅と菅湖

そこからいったん低い山に挟まれた地峡を南下して菅湖沿いの切追(きりょう)集落に出る。
菅湖。三方五湖で最大の水月湖の東隣に引っ付いたような、どんづまりの「盲腸湖」(そんな言葉はない)。
水辺について釣り目的に魚を求めていた時期には、ほとんど情報もなくただの地味な湖にしか感じられなかった。
だが湖の風情という点では、静かなたずまいに趣を感じさせる。
梅は咲き始めではあったが、朝日を浴びた峰が対岸に見えて美しい景色だ。

DSCN8424 鳥の足跡.jpg
鳥の足跡

湖岸に近づいて、コンクリート護岸から見ると鳥の足跡がみられた。
波静かなせいか、ふわふわの泥が流れずに積もるようだった。

水月湖の湖底模様.jpg
(参考)かつて菅湖で見られた文様(2017年3月)

2017年に菅湖を訪れた際には水底に繊細で奇妙な砂泥の文様が見られたが(2017年3月4日「菅・三方湖と梅、縄文ロマン(中)」参照)、あの文様は部分的にしか見られなかった。文様は何の作用なのかはわからないが刻々と変化するらしいことを知った。

さて今回、ここから菅湖と気山地区を隔てる山を越えて寺谷地区に向かい、宇波西神社のほうに向かう。
高さ111メートルと110メートルのふたつのピーク(名前は不明)の中間付近の、70メートルくらいの峠を越える破線の道が地図に書かれている。これくらいの高さなら、冬場、運動不足でいた筆者の足でも無理なく行けるんじゃないか。
と思って歩き始めたが、途中で傾斜がきつくなり、意外にたいへんな山道だなと思っていたら、背にしてきたはずの菅湖の水のきらめきが、前方の木々の間から目に入って来た。道を外れた。危なかった。
引き返すと峠と思しき場所があった。そこを越すと、急に自動車の走行音や小浜線の踏切音が耳に飛び込んできた。
低い山一つで、音の環境もだいぶ違うものだなと思い知る。そちら側に国道や線路など若狭地方の交通網がルートが集まっている。

DSC_0452 山道の終点.jpg
来た道を振り返る。山の向こうが菅湖

お堂のところに下りて、やれやれ助かったと胸をなでおろす。
振り返ると、まあ低い山だったが、こんな山でも迷うことがあるのだなと心にとめる。

DSC_0454 石垣.jpg
立派な石垣の宇波西神社。神木の杉が立つ

お寺の北隣が宇波西神社で、立派な石垣だ。背後の山に貼りついたような形で、奥行きが少ない。


DSC_0455 神社の由来.jpg
神社の案内

案内に書かれた由来では、神社は相当に古くて、宇波瀬の宇は「鵜」だったようだ。
鵜は、人間にとって身近な鳥だったのだね。
氏子は近郷一帯の村に及んでおり、興味深いのは川筋も違う日向地区の漁業関係者の守り神でもあることだった。

DSC_0459 神社と山.jpg
神社と山

神社は山を背にして、東を向いて立っている。
古い神社は、どこに行ってもその地域の要所に立っているように思われる。
ここは、かつての菅湖から久々子湖へ出るルート上にある。そんな海べりにある感じでもないのに、海の漁師の守り神となっている。古代にはこの神社付近が海べりだったのではなかろうか。

DSC_0460-梅.jpg
紅梅が咲く

DSC_0466-宇波西川.jpg
宇波西川

神社の真ん前を流れる宇波西川。かつては鰣川の本流でもあって、丸木舟が悠々と行き来していたのかも。
琵琶湖の湖西地域にも似た花崗岩の白砂が川底にたまっている。

DSC_0472-鐡道.jpg
段丘と鉄道

神社正面の宇波瀬川の川岸に立ってから東の方角をみると、田んぼの向こうに集落があり、手前をJR小浜線の列車が走っている。
田んぼよりも3メートルくらい高くて、集落と同じ高さ。山に向かってだんだんと土地がせりあがっている。
あそこらへんに、地面の隆起や沈降を引き起こす三方断層が走っているのか。

DSC_0477 気山跡松原.jpg
跡松原の地名

車を停めた河口付近へ歩く途中に「気山跡松原」とある。「跡松原」とは、かつて松原だったという小字名だろうか。今では農地となっている。
久々子湖の南岸は隆起し、波打ち際はどんどん北に後退し、陸地が広がっているようであった。
これだけ海に近い場所に湖がありながら、10万年以上もの間、水月湖では湖底部が沈降しながらも、湖と海の境目にあたる部分は隆起し、海に呑まれて消滅することもなく、かといって土砂に埋められるでもなく、存在し続けているのはなかなか珍しい現象ではではなかろうか。

DSC_0493 漕艇.jpg
漕艇

湖岸を東に行くと、漕艇の練習が繰り広げられていた。
漕艇が見られるとは想定していなかった。いや、想定はできた。
波静かな三方五湖はボートにも適していた。
そしてそのサイズ感は、三方湖の鳥浜貝塚で出土した縄文時代の丸木舟を連想させた。
先ほどの宇波西神社にも、大きな杉の木が神木としてまつられていたがその幹の太さもそのようなサイズだった。
とにかく三方五湖周辺では、時間の流れ、人の営みが途切れることなく連続しているように感じられる。
漕艇が盛んなのも単なる偶然ではなく、縄文時代からの流れをくんでいる部分もあろう。

DSCN8447 参道.jpg
小浜線気山駅付近から西を見る

車を取り戻し、気山駅を見ると、立派に舗装された神社の参道が西に伸びており、直交する小浜線の下をくぐっている。
明治時代に建てられた石柱は段丘上にある。
このラインが、かつて海(久々子湖)と陸を分ける境界だったのだろう。


DSCN8449.JPG
〈おまけ〉見かけた素敵な鉢植え。こんな風にやってみたい

三方五湖のごく一部を歩いただけの小規模な水辺低山行。
ほんとうはもっと広範囲に歩いてみたかったが、ここからは、三方湖畔にある博物館の展示を見るのに時間を費やし、いろいろと三方五湖について思いを巡らしてみたのだった(続く)
























posted by 進 敏朗 at 11:23| Comment(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月02日

湖南と湖東 雪の境界

DSC_0119-湖岸.jpg
琵琶湖岸から比良山系を望む

枯野を車で駆り、野洲川河口近くの湖岸から琵琶湖ごしの比良山系を眺めた。
こちら側に雪はないが、対岸の山は雪を戴き、麓まで積雪している。
雪山はきれいだな。

湖ごしに山並みが眺められるこの景観。なかなか見られない景観と思う。
雪山は特にきれいだ。
思えば、故郷の、大山が平野にそびえる様子も、きわだった特徴のある景観だった。
それを毎日見ている間は、珍しいとも何とも思わなかったが。
細かな地形の変化がどこにでも見られる日本の中で、はっきりと特徴のある景観というものが各地にあるのだなと思う。

海抜約85メートルの琵琶湖から、1200メートル級の山並みが壁のようにそびえている。
あっちは雪で、こっちは雪がない。日本海からの北西の季節風を受けた雪があそこで降り、風下の湖南地域までは雪が届かないのかも、などと想像する。
先日、大雪のあった彦根は、琵琶湖の対岸が高島の平野なので、日本海からの湿った雪雲がまともに吹き寄せるのかもしれない。

DSC_0129-10.jpg
雪に覆われた大地

ところが、わずか10キロだけ東に移動した近江八幡市は、一面が雪に覆われていた。どうなっているのだ。
このあたりは比良山系の最高峰武奈ヶ岳の南東方向。ということは、比良山系が雪雲をブロックする説は正しくなかった。
ということは、日本海からの距離の違いによるものなのか。

積雪の量が北と南では大きく違う滋賀県。
そこには、山陰と山陽のような、間を画する山のようなものがない。同じ標高の琵琶湖沿いの盆地が広がっているだけなのに、こうも景観が変化するのはいつ見ても不思議だ。

DSC_0138-境内.jpg
雪の境内

彦根や米原では大雪とはニュースでやっていたが、近江八幡ではどうだったのかは特に調べずにやって来たため、思いがけない雪原を新鮮な気持ちで眺めた。適度に晴れて路面の雪が消えていたのもよかった。

DSC_0141.JPG
除雪された道

ただし、住む人にとっては除雪作業や雪かきは大変だったろうと思われる。
子どもの頃は、冬でも天気が良いという山陽地方や太平洋側へに憧れていたものだった。


DSC_0154-雪がなくなる.jpg
西(奥のほう)に行くにつれ雪がなくなっていく

帰り道、湖岸道路の岡山の切通しを越え、西に広がる田が目に入るや、手前には白い雪があるのに、向こうのほうは黒い土の冬田へと、農地がグラデーションを描いているのが見て取れた。近江盆地では雪の境目がこのように存在するのだなあと興味をひく。

思わず車を引返し、いましがた通った切通しの道を歩いて登る。自転車用に歩道の拡幅が完成間近で、いい感じ。ただし南側には歩道がなくて危ないので、道路の奥から南西方向を撮る格好に。逆光でわかりにくいが、雪原が裸の土へとシームレスに移っていく様子が眺められた。

その境目が近江八幡市と野洲市の間くらいだった。これが滋賀県における湖東地域と湖南地域との境目にもなるので、奥深いものだ。

posted by 進 敏朗 at 18:03| Comment(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする