2025年04月05日

霊山

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霊山

伊賀地方の霊山へ

霊山(765.5メートル)は、伊賀盆地の北東にある山だ。
地図を見ると、盆地と山との位置関係が、京都盆地と比叡山の配置にも似ている。
かつて滋賀県境を徒歩で越えて三重県に入ったとき、盆地の中で目立つ山容で、なだらかそうな形をみて、いつか登ってみたいと思っていた。(2022年11月26日「秋の低山行(その6)甲賀伊賀分水界めぐり2」参照)

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(参考)伊賀地方の滋賀県境近くからみた霊山(2022年11月26日)

山頂からの眺めも良いという。
標高766メートルは、高低差300メートルがめどの筆者の低山めぐりを超えていると思ったが、登り口の霊山寺が標高400メートル近いというので、これはいけるのではないかと実行に移す。

霊山寺では桜まつりが盛大に開催

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地元の桜まつりにいざなう提灯。梅咲く境内

駐車場は数十台の車で埋まり、警備員もおり大人気の山かと驚いていたら地元の桜まつりが開催されていた。
残念ながら桜はまだつぼみだった。
かわりに梅が見られ、境内を彩っている。
10時半にまつりが開幕すると、本堂前のステージで演奏が始まり、地元バンドが、ビートルズの「カム・トゥギャザー」をもじって「カム・ツゲザー」と歌った。ここは柘植(つげ)の村なのでツゲザーと。おどろおどろしい曲調と日本語のほのぼのとした歌詞とが深山の境内の雰囲気と融合してシュールだった。
模擬店でポテトとウインナー盛り合わせを購入。
ほんとうはウインナー盛り合わせの付属品のお茶が欲しくて「お茶だけもらえませんか」と尋ねたがそうもいかずウインナーも購入した。
だが結果的にこれが山での空腹を助けてくれることになった。桜まつりに感謝!

おじいさんをペースメーカーに

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山の遊歩道

霊山寺から、山頂は東の方角にあり遊歩道をゆく。
遊歩道は整備されており、200メートル行くごとに「1合目」「2合目」と標識がある。
これは助けられる。
杖なしのおじいさんに、「靴ひもがほどけてますよ」と指摘される。
靴ひもを直している間、おじいさんに先に行ってもらう。おじいさんの歩く速度は遅くて追いつきそうになるが、その都度、立ち止まって息を整えたり写真を撮ったりして、おじいさんをペースメーカーとして活用させてもらった。

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六地蔵に見守られる

前半は杉林の中を進んだ。
杉林では鳥の鳴き声が聞かれない。
7合目を過ぎたあたりから足が疲労アラームを発信しているようだ。
やはり現在の体力では300メートルが限界か。
だが8合目から上では、傾斜も緩くなりゆっくりと進んだ。
いつの間にか落葉樹の林となり、チチチ、ツツピーなど鳥のさえずりが聞かれるように。
ピイーと勢いよく、シカ鳴き声も。
すると4つ角があり、左折0.5キロで山頂という。

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山頂手前の四つ角の標識

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五輪塔や建物区画

山頂付近は平たくて、五輪塔の残骸が残る広い場所などがある。
お堂がいろいろと立っていたのであろう。

眺めの良い山頂

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山頂に出る

ぽっかりと空が広くなり山頂だ。
かかった時間は1時間ほど。
想定よりだいぶ早かったので満足感。

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眺めの良い山頂

山頂は20人ほどのハイカーでにぎわっており、グループでおしゃべりに花を咲かせていた。
評判どおりの眺めの良さだ。

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西の方角

伊賀盆地が広がっている。
手前の平地は、右から左へと柘植、新堂、佐那具と経て上野に至る、関西本線などが走る「回廊地帯」か。
ひときわ高い山は、滋賀県境となっている笹ケ岳(738メートル)のようである。だとすると、あの山頂から右側に落ち込んだ鞍部となっているのが桜峠のようだ。

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上野盆地の中心部方面

視線をやや左に移すと、上野盆地の中心部が見える。
真ん中奥に三角形をした山があり、それの右奥の平たい土地が、伊賀上野の市街地と思われるが、霞んでいるのが惜しい。

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滋賀県方面(北西)の眺め

視線を右に向けると、山並みというほどでもない山林の向こうに、甲賀(滋賀県)の平地が広がっている。
なぜ滋賀県とわかるかというと、新名神の高架が平地を横切っているのが見えたからであった。
こうしてみても、伊賀(こちら)と甲賀(あちら)は行き来がしやすい地域と実感できる。

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昼食(ポテトフライとウインナー盛り合わせ)

桜まつりで買った食べ物を昼ごはんに。
ウインナー盛り合わせは、フランクフルト1本とウインナー5本の組み合わせで、これに500ミリのお茶が付いて500円。
リュックの中で揺られたためケチャップやマスタードが散乱したが、ビニール袋で包んだためかばん内の散乱は免れた。

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山頂の山岳仏教遺構

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遺跡の看板

この霊山は伝教大師による創建ということで平安初期に開かれ、江戸時代の初め頃までは建物があったという。
これだけ眺めのよい場所であるので、やはり戦乱の時代は往来を見下ろす砦として価値が高いのではないだろうか。

静かな山中の田代湖へ

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山頂から田代湖へ下りる経路

さてここから、時間もまだ正午過ぎであったことから、欲を出してさらに東側の斜面を下りて田代湖を目指すことにした。
田代湖への道も整備がされており安心して歩ける行路だった。

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ちいさな渓谷

渓谷があり水が流れているところを渡る。
小さな谷が数か所。フレッシュな水が田代湖に注いでいるようだ。

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木々の向こうに湖が

約30分後、杉木立の向こうに水面が見えてきた。

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湖畔の紅梅

南北に細長い田代湖の標高は542メートルくらい。
ここでは梅が満開で、登り口の霊山寺よりもさらに季節が戻っているようだった。

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田代湖

人けがなく、静かそのものの田代湖。
♪みーずうみーにーきみはみーをーなげーたー、と口ずさむ。
悲しくなってしまうので、
♪みーずうみーにーきみはいーしーなげーたー、と歌いなおす。
湖畔に一人。
背後には林間学校の設備が整備され、キャンプの舞台となっている。
そのため湖畔にはベンチがあって水辺へのアクセスもしやすい。
多くの少年少女でにぎわうのだろうか。しずかな湖畔のキャンプ場、ジェイソン。少年のころ見たアメリカの血まみれホラー映画を思い出してしまう。

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コイがいる

湖畔の遊歩道を南に進む。
するとワンドのようなところに、コイがいるのが見えた。
けっこうたくさんいる。

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ニシキゴイもいる

マゴイや紅白、金色などのニシキゴイが浅場でゆったりしている。
山中の景色とそぐわず意表を突かれた。
ワンドかと思ったらここは河口付近で、乗っ込みの時期なのかも。

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荒涼とした山中の池を群泳

2003年以降のコイヘルペスの流行以降、ニシキゴイがいなくなって黒いコイばっかりの川や池が各地に増えた。マゴイよりもニシキゴイのほうが病気に弱いとみられるが、この田代湖では色とりどりのニシキゴイが泳いでいたのであった。
水温の低さとか、霊山のフレッシュな水が関係しているのかもしれない。

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草が刈られた田代池の堤

多彩な水辺が展開

標高540メートルというけっこう高い場所にある田代池は、重要な灌漑用水とみられ堤周辺は整備が行き届いていた。
ここから、元の道には戻らず、山の南麓をぐるっと回って駐車場に戻ることにした。遠回りになるが行程はほぼ下り道となる。

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水中にカワムツかアブラハヤらしき群れも

堰堤の上の流れの中に、カワムツかアブラハヤかの「ハエ」の群れも。
これらも放流されたのか、あるいは遡上してきたのか。

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白藤の滝

その下流には、高低差15メートルの「白藤の滝」があり、これでは魚の遡上は不可能であるので、先ほどのハエは放流されたものであることが濃厚となってきた。
いや、地質的学に滝の形成以前に遡上した可能性もあるから、そうとも言えんのか。

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滝近くの岩盤

滝近くでは岩が露出し、なかなかの迫力。
これは地面が隆起するとともに、水流が岩の割れ目に沿って削ってゆき形成された谷であるのだろう。
滝付近が、いちばんその活動が凝縮された地点なのだろう。大地の活動を端的に観察できる場所である。

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霊山の南東山麓にある蛇喰池

霊山登山だけでは水辺の要素が少なく、登り始めたころは当ブログのテーマ「水辺」にそぐわないなと思っていたところ、欲を出して足を運んだ田代湖ではニシキゴイ、そして出会った滝と、多様な水辺の情景が展開し、印象深い行路となった。
午後3時半ごろ元の駐車場に到着すると満車だった車はいなくなっており、しんとした山中に取り残され一瞬、キツネにつままれたような心持ちになった。しかし帰り道、ふもとの村では神輿をかつぐ子どもの元気な声も響き、山里に活気を感じた。

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2025年03月22日

雲谷山(第3展望所)

三方五湖の眺望を目指す


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雲谷山(下山後に撮影)

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三方観世音の石段(午前9時ごろ)

福井県の雲谷山(786メートル)からは、三方五湖を眺めることができるという。
しかし、筆者のなまった体では700メートルもの高低差は難しい。
ただ、その眺めは頂上からではなくて、中腹の展望所から得られると知り、第3展望所まで登ることを計画する。
頂上まで行かずとも、途中で引き返すのもありとした低山めぐり。

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山のルート図

雲谷山への登山は「三方石観世音」の駐車場に停める。
そこからまず本堂までの坂道や石段を登る。
境内に着くと盆梅展も開催し、春の情緒が高まっていた。

引き返しやすい3つの展望所

三方観世音の駐車場は海抜40メートルくらいの高台で、坂や石段を上り、登り口のある本堂の海抜は約80メートル。
そこからだいたい100メートル登るごとに、第1、第2、第3と展望所がある。出発後、疲労度をみて第1や第2展望所までで打ち切り、引き返すこともできる。
体力に自信がない人でも安心して入りやすい親切設計といえるだろう。

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遊歩道の入り口

最初は間違って谷沿いの舗装路を行こうとしたがそれは林道であった。
遊歩道の入り口は三方石観世音の裏手にあった。
道は幅1メートルあって平らで歩きやすく整備されていた。
まずは第1展望所までなら、と行くが、この冬の間まったくの運動不足で、数分後にはハアハアと息が切れ汗が出る。
「もう帰りたい」と弱音が出た直後に視界が開け、第1展望所に出た。

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第1展望所からの眺め

前方には木があったが、葉が落ちていて三方湖がみられた。
新緑となれば葉っぱで視界が遮られてしまうので、ちょうどよい季節に来れたかもしれない。
ベンチに座って休憩し、さらに先を目指すことにした。

第2展望所までの坂はもっと急で、立ち止まること数度。
慣れた人には何でもない坂かもしれない。
ドクドクと心臓が打って、体内に血がめぐる。
「雄滝→」を示す看板があり、音が聞こえたが確認できず。
疲労のため余裕がなかったせいもあるかもしれない。

しかし第2展望所までは思ったより距離はなく、ほどなく到着し休憩。
眺めの方角がやや北寄りになり、日向湖方面が見えた。

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残された雪

さらに第3展望所を目指すと、坂はやや緩やかになり、歩きやすくなった。
だが両脚には疲労が感じられる。
春の陽ざしにわずかに残った雪が解けようとしている。
私の体内の脂分も、活発化した血流とともに溶け去ってほしい。

前方から、先行して出発したトレランの大人と子ども連れが戻ってきた。
すれ違いざまに
「頂上までですか?」と問うと、
「いやいや第3ですよ」と年配の男性が答えられた。
第3、私もです。同展望所での引き返しはそれくらい認知されているのか。

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第3展望所に着いた

林道との合流地点があり、そこから坂を上ると山小屋出現。
ついに第3展望所だ。
ログハウス風小屋は回転式ノブがついた扉の部屋があった。

標高はおよそ380メートルで、山頂の高さの半分くらいの海抜だ。
上り始めからの高低差は300メートルくらい。
かかった時間は1時間ほどだった。
ふだん運動不足の人間には、相当ハードだった。

三方五湖の眺めは素晴らしかった

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第2展望所からの眺め(午前10時ごろ)

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第3展望所から眺め(午前10時半ごろ)

三方五湖の眺めは素晴らしかった。
行きの車中のラジオではPM2.5の影響が言われ、霞がかかっていた。
写真を眺めると、第2展望所からのほうが鮮やかに撮れている。湖までの距離が近いせいか。
しかし三方五湖の全景は、やはり高さのある第3展望所からのほうが眺めやすかった。

手前に菅湖、向こうには水月湖、そして右奥には日向湖と、その手前に久々子湖も一部望めた。
日向湖がいちばん青く見え、水月湖や菅湖は黒っぽく、そして三方湖は茶色かった。
湖ごと色が違うという様子を確認。
その奥には若狭湾が茫洋と広がっている。

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菅湖に遊覧船が入ってきた

こちらの山は隆起しており、むこうの湖は沈降している。そんな地形の対比が感じられる。
こちらの山と、あちらの湖の間には、断層の動きが原因でできたとみられる平地が南北に開けており、そこに国道27号や舞若道、JR小浜線が走っており、車両の音も響く。
改造マフラーなのかバリバリと異常に大きな音が響くバイクは一帯に騒音をまきちらし、景観をだいなしにする。
北陸新幹線がもし小浜ルートとなれば、この平野を走ることになるだろうか。

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水をいただく

第3展望所から少しだけ登山道を進むと標高400メートルくらいの小さなピークがあった。
しかし、木に囲まれて眺望が得られなかったため、ここで引き返すことにした。

杖を両手に持っているものの、下り坂で足が着地するたびももに衝撃が走り、疲労が大きい。
下山後、三方石観世音の名水で疲れをいやす。
天気もよくて、計画どおり登れたことにすっかり達成感。

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杉の巨木が林立する境内を降りる

三方石観世音は信仰が篤く、奉賛者には隣接する滋賀県の高島市あたりの人の名前もちらほら見られた。
来年(2026年)の10月には、ふだん見られない摩崖仏が33年に一度のご開帳なのだという。

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梅の花

一帯は名産の梅が咲いていた。2月から3月半ばまでの寒波の影響で例年よりも開花が遅れているようだ。
梅の香漂う菅湖の静かな湖畔の眺めにしばし見入り、引き上げた。

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2024年05月18日

深坂越を行く(上)

紫式部も通った近江から越前を目指す古道へ

本州を横切って日本海側から太平洋側に行こうとする場合、ひときわ陸地がくびれて谷が走り、短く結べそうな日本海側の起点の一つが敦賀であろう。
いろんな地形がある日本列島だが、敦賀の地形は不思議だ。
北は湾が食い込み、東と南は深い山に囲まれている。港から10キロ南下すればそこは滋賀との分水嶺で、谷筋には国道や高速道路、鉄道が集中している。
北陸新幹線がこの3月に金沢から敦賀まで延伸したが、ここから先、京都や大阪へのルートが小浜経由と決まったものの、京都府内などの沿線の反対などから立ち止まっている。
小浜を経由し、丹波高地の山岳地帯に長大なトンネルをうがち、京都のまちの地下深くを進もうという建設の費用は、現在試算されている2兆円余りで済むかどうか。
交通の要衝であるとともに難所でもある敦賀。
いま敦賀が注目されている。
NHKの大河でも月末に紫式部が越前へと向かうそうである。
このタイミングで、紫式部も通った近江から越前へ抜ける古道、深坂越を歩くことにした。
前置きが長くなった。

古道入り口まではバスが安全

近江塩津や大浦と敦賀を結ぶ深坂越(ふかさかごえ)は古代の官道であったという。
その道は深坂峠(370メートル)を越えて近江と越前を結ぶ。
豊臣秀吉が、もっと緩やかなルートをと「道野越」(現在の国道8号のルート)を開き、そちらのほうは海抜260メートルで深坂越より100メートル以上低い。
そんなに高低差が違うのならなぜ、古代から道野越を通らないのかとも思うが、古代はとにかく距離の短さ重視だった模様。

さて深坂越を歩くため、近江塩津駅からそのまま歩こうと思ったけど、ストリートビューで下見をしたら、国道8号の歩道が駅から約1キロ北の沓掛集落までしかなく、そこから先はカーブの上り坂もあり危険であった。
そこで古道の入り口まで路線バスを使うことにしたが、近江塩津発が午前7時18分。つぎは午後2時54分まで便なし。
ところが7時の米原発敦賀行き列車が近江塩津に着くのは7時25分で、バスに合わない。
このようなわけで車で近江塩津まで行き、駅前の市営駅駐車場(無料)に停める。

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バスが来た(午前7時18分ごろ)

時刻通りに「新道野(しんどうの)」行きバスが到着した。客が1人が降りて、乗客は私1人である。
ぐんぐん走り、坂道も軽快にのぼって、5分ほどで「近江鶴ケ丘」停留所で下車し320円を払う。
終点「新道野」は下の写真で左にカーブした先にあり、そこは福井県である。

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国道8号の坂の途中にある近江鶴ケ丘バス停付近

古道入り口はここではなく、近江鶴ヶ丘バス停より1キロ近く手前のスノーステーション付近にあり、小さなほこらが立っていたのだけど、そこにバス停はなく、停めてはもらえない、だからといって手前のバス停で降りると大型トラックが通過する国道を歩かないといけなかったので、近江鶴ケ丘から古道までショートカットする。

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国道8号から西へと向かう道

楽々散歩の歩道続く

そこは小規模な高原だった。
採石場が露天掘りみたいに地面から土砂を掘り進んでいる。
いったん沢沿いに下りる。

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タニウツギの花

日当たりがいい場所に、タニウツギの灌木が群生しピンク色の花を多数咲かせている。
平地では今年は4月末から開花したが、それよりも2〜3週間遅い感じだ。
海抜250メートル。近江塩津駅付近が110メートルだったので、バスで140メートルも登ってしまった。
深坂越の峠は370メートルなので、あと120メートル登るだけとなり、だいぶ楽な峠越えとなったのである。

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歩きやすい道

道も砂利敷き、下草刈りが行き届き、モミジも植わったりして整備された道となっていた。

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問屋跡の石垣遺構

進路の左側に石垣の遺構が現れた。
これが問屋の跡だという。

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朝の光が当たる問屋跡の説明版

この問屋で、峠を行ったり、峠を越えてきた荷物は、別の業者の馬にバトンタッチされたという。

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快適山道

ここから奥も、側溝もあり整備された林道のような道が続いていた。
坂もゆるやかで楽々と歩いた。

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深坂地蔵

峠の直前の深坂地蔵に、息を切らすこともなく到達した。
峠の守り、深坂地蔵。
それは、平清盛の命で敦賀−琵琶湖の運河開削をしようとした計画を断念させた、険しい山の象徴であった。
通行する人たちが、安全を祈願して地蔵に塩を塗るならわしがあったようだが、それを繰り返すうちに石製の地蔵が傷んできたので塩を塗らないでくださいと、長浜市の案内マップにはあった。その際、「傷む」という字が「痛む」と表現されており、まるで地蔵さんが傷口に塩を塗られて痛がっているような光景が想像された。

福井県側は険しく

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岩が突き出た崖沿いの道

深坂地蔵から先は細道となっていた。
これまでの楽々歩道は、深坂地蔵まで作業用の車を通すためだったかもしれない。すぐに峠に達し下り道となった。
斜面から岩が突き出ている横の、わずかな空間を道にしたりして、この地点などは他に道のつくりようがないから古代からそのままだったかもしれないと思ったり。

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レモン色に黒い筋が印象的なキンモンガ

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石敷き

道中にはところどころに石敷きもあって、足場をよくする工夫がなされていた。

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切通しと転がる石

尾根の右から左、また右と、切通しがされている。
たまった落ち葉に足を取られ転ぶ。
切り石とおぼしき石が転がっている。

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紫式部の歌碑

紫式部の歌碑が紹介されていた。
峠を通行しているとき、「賤(しず)の男(運搬役の人夫)」が「なおからき道なりや(やはりしんどい道だなあ)」と言っているのを耳にして、

知りぬらむゆききにならす塩津山世にふる道はからきものとぞ

と詠んだという。
知っていたでしょう。いつも通っている塩津山だけど、慣れているようでも世の中の道はしんどいのですよ。塩のように辛いですよ。
こんなような歌だ。
しょっぱい世の中を、深坂峠に思ったのか。越前への赴任で、こんな険しい道を通らないといけなくて、気が重かったのか、あるいは楽しんでいるのか。
紫式部はこのとき籠に乗っており、賤の男らはそれを担いで「しんどいなあ」と言っていたのである。
紫式部がそれを聞いて「知っていたでしょう」というのは、現代人の感覚ではずいぶん上から目線だとも感じられるが、そこは身分の上下があった平安時代なので、感覚を補正しなくてはいけないのだろう。

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マムシグサ(有毒)出現

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道沿いの沢

道はやがて谷沿いをいく感じになって、沢がどんどん大きくなっていき、朝の陽ざしが差す。

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谷の終わりも近い

前方の空が見え、里が近くなってきたことを知らせている。

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五井川

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里におりた

山道から里に出た。
西近江路方面から
流れる五位川の橋の横に出る。
時刻をみたら8時50分で、いろいろ立ち止まりながら歩いたが1時間半で着いた。
福井県側から逆方向に歩くと高低差200メートル以上あるのでやはりしんどいだろう。
この先には疋田の村があり、古代三関のひとつ愛発(あらち)関があったとされるが、その場所はわかっていないのだという。(続く)

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<おまけ>雪国の初夏

posted by 進 敏朗 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

深坂越を行く(下)

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街道沿いの集落

古道深坂越を下りて疋田へ進む

近江と越前を結ぶ古道「深坂越(ふかさかごえ)」を歩き、福井県側に出た。
福井県側は深い林の中をいく山道であった。
明るい日差しの里に出てほっとする。

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山から流れ下りる五位川

滋賀の湖西方面から北上する西近江路と合流し、「追分」の集落を通過。
峠の標高が370メートルだったが、里に出たときには110メートル。

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愛発(あらち)と地区を紹介する看板


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新疋田駅

そして坂を下っていくと北陸本線の新疋田駅があった。
滋賀県最北の駅・近江塩津からトンネルをまたいだ県境の駅だが、次の駅はもう敦賀となる。

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鉄道写真ギャラリー

ログハウス風駅舎の中は、鉄道写真ギャラリーとなっていた。
新疋田ー敦賀間にはループ線もあって、鉄道写真の聖地のようだった。
9時11分発敦賀行の電車がちょうど出て行った。
早起きしたかいもあってまだ9時台。
滋賀県側から歩き始めてまだ2時間もたっていない。歩き始めてまだ5キロくらいだったのである。

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けわしい山

さて新疋田駅から疋田の集落へは、800メートル歩を進めねばならない。
振り返ると、岩肌が露出したけわしい山が見える。
付近は東西を山にはさまれ、南北方向の谷になっている五位川沿いに道が続く。

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疋壇城の入り口

要害疋壇城は関所の適地

疋田集落に入ったところの街道のすぐ脇に「疋壇(ひきだ)城跡」があり、街道より20メートルほど高い丘になっていた。

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石段上からの眺め

東の方向、笙の川の谷が奥まで見渡すことができ、眼下の街道を監視できる。

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石段の上は広かった

石段の上は、思ったよりも広い平坦な場所で、ゴルフ打ちっぱなし練習をしている人がいるほどだった。
「西愛発小学校」があったことを伝える碑もあった。

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広場の西側は北陸本線

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スーパー雷鳥号も通過

西側は、岩籠山(765メートル)につながっていき、ここは山と川の間の段丘だった。
五位川と笙の川が合流する地点の高台で、戦国時代は織田信長の越前攻めの舞台となった。
素人目にみても、街道の往来を監視する絶好の場所だ。
奈良時代に設置され、正確な場所が不明な愛発(あらち)関、ここにあったんじゃないかと思ったが、敦賀市による調査の結果、それらしき遺構や遺物は出土しなかったという。

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人工水路の起点

運河終点の地疋田

さて、疋壇城跡をおりて疋田の集落に戻ると、ほどなく石垣でしっかりと固められた水路が見えてきた。
これが、江戸時代まで運河として使われていた水路だというのである。
平安時代に平清盛が日本海と琵琶湖を結ぶ運河を構想し、掘らせたのが始まりという。

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船型の石製ベンチ

ベンチも舟形だ。
みかげ石製で、これが水路沿いに何個かありお金がかかっている。座って水を飲み、しばし休憩。

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運河だったのか

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水路の段差

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船運の終点付近

お寺の前付近に、船運の終点があった説明版があった。
シュロ縄で両側から船を引いて水路をさかのぼらせていたのだそうだ。そのためか水路の両側は人が歩ける平たいスペースになっている。
船底がすれるので、川底をなめらかにするため木の板を敷いていたそうである。このあたりで海抜70メートル。
敦賀の河口から10キロくらいで、ここから琵琶湖までは直線で10キロほど。
中間地点と言えなくもない。

水路幅は約1メートルで、ずいぶん細い船が通っていたんだなと思っていたがそうではなく、かつては2.8メートルあり街道の中央付近までは水路だったようだ。

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お寺の石垣裏にあった説明板

もし琵琶湖まで運河を引くことができたら、日本海側の物資を一気に浜大津まで直送し、京都へ運べるので、物流の大革命になったに違いない。
そうなると荷下ろし港の浜大津は、日本海の物流の一大拠点になっていただろう(笑)。
さすが平清盛、こんな壮大なことを思いつくとはスケールの大きい政治家だ。

やはり琵琶湖運河は無理だったのか

だが、ここ疋田から琵琶湖まで運河を引くとなると、海抜370メートルの深坂越を越えなくてはいけない。
パナマ運河の閘門も、高低差は26メートル。それの10倍以上の高低差を登らせなければいけない。

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水路の上流は山が迫る

平安時代の人夫が山の岩を削ろうとしたところ腹痛に襲われた、その岩の正体であるという深坂地蔵には勝てなかったのである。
それでもこの現在見られる疋田の舟川は、江戸時代の17世紀に北前船の西回り行路が成立して以後の1816年竣工というから、琵琶湖へ通じる運河への情熱はすごかったのである。

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笙の川の鉄橋の橋脚跡。奥が上流で、左が東、右が西

日本海側最古の鉄道北陸線

さてこの水運の限界点である疋田では、北陸線の廃線跡や駅の跡が見られるという。それを確認することにした。
疋田集落のすぐ脇で笙の川と五位川が合流している。
国道8号と161号の交差点があり車がすごい勢いで走ってくる。
8号線にかかる笙の川の橋に並行して旧道の橋があり、そこから上流側を見ると、笙の川を渡る橋脚の跡が見られた。
これが初代北陸線の橋だという。
断面が五角形をしていて、上流方向に鋭角が突き出ており、水流の抵抗を減らし、障害物が引っ掛からないようにする工夫のようだ。
橋の東側には廃線跡とみられる土手が数十メートルあり、国道8号の土盛りの中に消えていた。

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橋を西に渡ると急カーブが

一方、鉄橋を西に渡るとそのまま疋田の集落に突っ込むんじゃないかという角度で架橋されていたが、橋の西詰で右にカーブしながら急こう配の下り坂となる路地があり、それが廃線跡のようだ。
集落のすぐ裏を鉄路は走っており、幹線の鉄路というよりは、まるでローカル私鉄の廃線路のようだ。

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駅看板が復活していた「疋田駅」。ホーム跡という

そして「疋田駅」に到達。
プラットホームの石垣が残り、ストリートビューにはなかった駅看板があった。
単線の片側駅舎で鉄道駅としては素朴なものである。

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新緑に映えるカラフルな公民館。2階に上がってみたい

黎明期の駅ホーム跡残る

敦賀駅や疋田駅は1882年開業という。日本海側の鉄道では最も早いのだそうだ。
同じ年、滋賀県最古の駅、長浜駅が開業。
北陸本線はまず敦賀を起点に、福井や金沢方面ではなく滋賀県の長浜を目指して鉄路が伸びていった。その際、ルートは現在とは異なり、敦賀から「疋田駅」まで進んだあと東に折れ、笙の川沿いをさかのぼっていく。豪雪地帯・柳ケ瀬から余呉川沿いを南下、木ノ本に出るというルートだった。現在みるとたいへんな秘境ルートに思える。

現在の北陸本線のルートは戦後の1957年に開業。その際、規格が小さく勾配がきつかった柳ケ瀬トンネルでは蒸気機関車での窒息死事故が頻発し、この教訓を受け敦賀から疋田へ登るルートでのみループ線が敷設、1963年に供用開始したそうである。





交通の難所敦賀に積み重なる山道や鉄路、水路

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かつての国道161号のトンネルは歩道専用に

敦賀は21世紀の現在もなお、交通の要衝であり、難所なのであった。
最新鋭の新幹線のすぐ近くに、古代のままの趣をたたえた山道や、平清盛以来の山に船を通そうという執念の軌跡である運河、鉄道黎明期の官営鉄道の施設跡が確認できるという稀有な場所。
そして謎に包まれた愛発関の場所。

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線路のスペースに比べてホーム幅が狭い新疋田駅

それは敦賀の周囲を取り囲む分厚い山塊と、幾筋かの谷が南北に走り近江まで短距離でつながっているので日本海側から太平洋側へ抜けるルートとしては他の場所よりもましというかここ以外にないという特異な地形が生み出していたのだった。

北陸新幹線の小浜京都ルートは、船と鉄道で形態は違うものの、平清盛が構想して以来、何次かにわたり試みられてきた北陸から京への「直達」計画の現代版のようにも思われる。
そこに現代の深坂地蔵はまたも立ちはだかるのか、どうなのか。

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深坂トンネルを抜け滋賀への帰還。車窓から

新疋田駅から敦賀に足を延ばし、北陸新幹線の駅や車両を拝んでから帰ろうとも思ったが、疲れたのでそのまま近江塩津まで引き返した。
深坂越の古道の下をぶち抜く深坂トンネルを通過し、7.8キロ先の近江塩津駅にわずか6分で帰着した。

posted by 進 敏朗 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月09日

金生山と湧水池

東海道線の車窓から見えるいい雰囲気の池

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車窓からの風景、垂井ー大垣間

東海道線は普通列車でもスピードが速い。
非電化路でほぼ単線の山陰本線沿線に育った筆者としては、時刻表ファンだった昭和後期の少年時代、キロ数から所要時間割ってみたところ東海道本線の新快速が、山陰線の特急よりも速いことを発見しておののいていた。
新快速でない普通列車でさえも平均時速60キロに迫る速さで走っており、それは当時の山陰線特急と同等のスピードだった。これが15分とか30分毎という頻繁さで運行している。
新快速や普通を乗り回して遠出をすれば、特急券を使わずに普通料金だけで(期間によっては青春18きっぷで)、山陰線の特急に乗っているような感覚で、安く遠出ができる。羨望のような思いを昔から抱いている。
だから東海道線の普通列車(新快速含む)で遠出することは、私にとってはお得感の高い行動なのである。

岐阜県方面へ行く。米原で大垣行きに乗り換える。8時4分発の電車は折り返しではなく車庫から出て来て、駅での待機時間が長かったのでホームに長い間立たなくてすんだ。
終点・大垣のひとつ手前、垂井を過ぎると、JR東海普通電車の曇ったガラス越しに、進行方向左側の田んぼの中に趣ある池が見える。ここに行ってみたいが、岐阜県の東海道線は駅間が長く、大垣、垂井どちらの駅からも3キロくらいは離れているように思われる。
これを今回、公共交通を駆使して訪ねてみようとした。

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大垣駅3番線の案内

もう9年も前、9月上旬に大垣を訪ね、金生山からの濃尾平野の眺めが素晴らしかったので、今回また、秋の始まりのこの時期に、足を運んでみることにしたのだった(2014年9月7日「水都と石灰岩の山(下)」参照)。
前回、大垣から美濃赤坂行に乗り損ねたことによるスケジュールの狂いから断念した、金生山上の古刹、明星輪寺にも行くことにする。運動不足により衰えた足腰を再び強化するきっかけにもしたい。8月までの異常な酷暑は去ったので、熱中症も多分大丈夫であろう。
前回、乗り場が分からず、大垣駅に着きながらみすみす逃がしてしまった美濃赤坂行の電車、今回は事前に大垣駅の構内図を調べておいた。

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美濃赤坂行きの乗り場と電車(右)

大垣駅3番ホームは、4番ホームの西端に切り欠きのようにして存在していた。
二駅だけの区間を走る東海道線の盲腸線(何というのだろう)。 これに乗り込んだ。

終点の宿場町美濃赤坂

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ホーム(手前)から離れて立っている美濃赤坂駅の駅舎

営業キロ5.0キロの道のりを、ワンマン2両編成電車は7分で走り切った。
美濃赤坂。降り立つと貨物線が荒野のように広がり、ホームからいやに離れた平地に立つ駅舎も趣深い雰囲気。

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駅舎ごしに電車を見る

1919(大正8)年開業時の建物という駅舎の、床タイルの反射光が印象的な駅舎越しの眺めも趣深い。

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野原と電車

駅舎を出てから振り返り、集落のすぐ裏に電車が待機している様子を見るのも風情が。
電車がこれくらい身近な乗り物であったら。

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ディーゼル機関車DE10(手前)

最近あまり見なくなったディーゼル機関車が停まっている。旧国鉄で量産されたDE10。
採掘された石灰石を運搬するため近年導入されたことを知る。塗装がピカピカで、周囲の施設の古さから浮き上がって見える。
山陰ではかつてディーゼル機関車は見慣れた存在だったので、この朱色っぽい赤には懐かしさを覚える。
この体色や形、表情が読み取れない顔がベニズワイガニを連想させる。

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踏切

駅周辺の風景を観察する。
貨物線「西濃鉄道」の踏切。「とまれみよ」と懐かしい、遮断機がない単線踏切。
警報機の高さや、頭部のバッテンの形が後ろの棕櫚の木とシンクロして味わい深い。

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建物の門や壁

駅から北上するとすぐ、中山道の宿場であった赤坂の中心部に行き当たる。
建物の規模が大きくて、繫栄していたことがうかがえる。

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赤坂港跡(旧中山道の橋から撮影)

中山道に達して東方面へ歩くと本陣跡があり、さらに3分ほどで「赤坂港跡」に達した。
16世紀前半までは、この杭瀬川が揖斐川の本流だったといい、港は線路が開通するまで使われていたといいう。
東西に中山道が走り、南北に揖斐川(杭瀬川)が流れる交点に立地する宿場では、町の東の入り口にある港で荷物の積み下ろしをし、船で下流に送ることができるのだ。道路交通と船運の要衝だったわけで、ここに赤坂繁栄の秘密があった。
さらに、町の北側にある金生山から出る石灰石が、石灰やコンクリートの原料などにもなり、赤坂のまちには石灰会社の看板や建物も見え、鉱山町のような様相も。二重にも三重にも栄える要因があったのだった。
など鉄道と宿場町の情緒に浸ったあと、金生山を目指す。

金生山・明星輪寺への道

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山の入り口の坂

赤坂宿の旧中山道から、「こくぞうさん(金生山の虚空蔵菩薩に由来する地元でのお寺の呼び名のようだ)」へ行く道は分岐し、最初から坂道となっている。
標高217メートルということだったが、勾配がきつく、最初から息切れでハアハアゼエゼエとなった。
地元の人が何人も下りてくる。健康づくりのために歩いているのだろうが軽やかだ。

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ピンク色のアマナ

道沿いにはピンク色をした大ぶりなアマナかと思ったんだけど、このようなピンク色のは見たことがない。
石灰岩地帯を好むのだろうか。
足を止めて息を整えた。

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金生山化石館前に置いてあった石灰岩

古生代のサンゴ礁だったといわれる金生山は石灰岩でできており、そこには数億年前の海の生物化石が見られる。
明星輪寺へ至る途中にある、金生山化石館前の岩には直径10センチぐらいの渦巻き模様が見える。巻貝の化石断面だろうか。

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急な坂

坂は金生山化石館を過ぎてからが特にきつく、歩き続けるのが困難になった。
足の衰えも相当なものだと実感。8月よりは暑さはかなりましになったが、気温は午前10時で30度近い。汗だくになる。

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明星輪寺の入り口

ようやく寺の入り口が見えてきた時はほっとした。約2キロの登山道を、40分くらいかけてようやく到達。
駅前の自販機で買った500ミリの水はすでに飲みほしていた。

石灰岩の奇岩広がる境内や本堂

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山門

持統天皇の勅願で役小角により686年創建と伝えられる古刹。
この金生山は石灰石だけでなく赤鉄鉱も産出したといい、鉄製武器が壬申の乱の大海人皇子軍勝利につながったとの説も。
山門では岐阜県の文化財である仁王像がお出迎え。
境内には石灰岩の奇岩が連なる壮観という。どんなだろう。

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ミネラル豊富? 手水

神仏習合の名残か、まず水で清める。

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本堂

重厚な入母屋造の瓦が印象的な本堂は幕末の建築。
山門よりも本堂が低い場所に建てられているのは不思議な気がしたが、入ってみると堂の内陣の奥は巨大な奇岩であった。
道内に入り左側から靴を脱いで内陣に入ることができる。
そこは岩のドームならぬ岩の堂(どう)であった。
奇岩をもとに本堂が建てられたことは一目瞭然で、それ故の境内の変則的なレイアウトとなったのだろう。

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堂の奥に奇岩

撮影しても良いか僧侶に尋ねると、「お参りした後なら撮影してもいいですよ」と、許可をいただき撮影。
暗くてうまく写らなかった。

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奇岩

そして本堂の前から石段を登っていくと、「岩巣」と呼ばれる奇岩出現。
石灰岩が長年の浸食を受け、形が複雑になっていったものが広がっている。

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そこにはウシや、

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トラ

トラなどの岩を削った彫刻が出現。
もとの岩の形を利用したとみられ量感あふれる。

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亀岩

巨亀も現る。これは自然の岩そのままの形が、首をもたげた亀のように見える。
そこは見晴らし台であり、亀は濃尾平野を眺めている。

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山頂からの眺め

山上からの濃尾平野の眺めは、もやがかかっていた。前回訪れた際のような透明感はない。遠くのほうはもやがかかる。
まだ秋の空気になりきっていなかった。
川をたどっていくと赤坂港が見える。
急な崖の山であるのと、広い濃尾平野の西端に位置するので雄大な見晴らしが広がる。
日の出を眺めるには絶好の場所でしょう。
奇岩とあいまって、ここが古代国家鎮護の仏教拠点にと注目されたこともなんだか納得できる。

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石灰石鉱山

いっぽう、登山路の西側をみると、石灰鉱山の採掘が進み、すでに半分は削り取られている。
採掘業者にとってはまさに金(カネ)を生む山である金生山。明星輪寺があったため、全山が削られるのを免れ、濃尾平野の雄大な眺めを見られるのは幸いなことだと思う。
山の景観の大幅な改変となったわけだが、一方で採掘によって古生代の化石が発見され、数億年前の生物の形態が知られることにもなった。

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古生代の二枚貝、シカマイア化石(縞模様の部分)

下山中に、金生山化石館に立ち寄り、館員の方から、建物の脇の斜面の岩に見られる縞模様が、古生代の奇妙な二枚貝「シカマイア」が積み重なった化石であることを教えてもらった。スリッパをつぶしたように平べったい楕円形の縦方向にスリットが入り、断面は「く」の字を鏡合わせにした形という、ちょっと現在の生物では見当たらない奇妙な形の殻を持っており、それが層状に積み重なっている。カキのように岩にへばりつく生態だったのだろうか。
化石館のすぐ脇を見やるだけでこのような露頭があるところを見ても、この山には相当な密度で化石が含まれているだろうという印象。

電車に間に合わず

こうして午前11時半ごろ、下山すると、へとへとになっていた。
すでにペットボトル2本を飲み干す。
午前中にもかかわらず腹が減り、美濃赤坂の「松岡屋スーパー」でちらし寿司、バナナを購入(まけてもらって併せて430円)、公園となっている本陣跡で食べる。

さてここから、行きがけの車窓から見た池を目指すわけだが、乗りたかった10時53分発の電車はすで出ちゃっていて、つぎの13時12分発までは1時間以上も待たないといけない。休日は本数が少ないのだった。
気ままな単独行なので電車に乗り遅れることに問題はないが、次の便を待たねばならないのがじれったい。
こうした際には、休息も兼ねて宿場町内にある資料館等を訪れ時間を過ごすというのも一つの手だが、疲労によって、じっくり資料を見ようという気が失せていた。

事前の計画では美濃赤坂から電車で1.7キロ南進(ほんとうに真南に線路は進む)、途中駅の「荒尾」で降りて、西方向へ2キロほどを歩くということを考えていた。この荒尾駅、あと300メートル東にあったら、本線の駅として、駅間が8.1キロもある垂井ー大垣間の中間駅に活用できそうな位置にあるのに、なぜか盲腸線の途中駅としてしか建設されなかった惜しい駅。この駅の位置が、垂井−大垣のほぼ中間地点にある特性をいかそうと作戦を考えていたが、本日、想定を上回る疲れでスケジュールに遅れが生じてしまったので、「荒尾作戦」は断念。
グーグルマップの表示では、赤坂宿本陣前から、南西方向に位置する池まで4.6キロ。
それなりの暑さの中、日差しを遮るものもない田園をこれだけ歩くのは無謀だ。
そこで、少しでも歩く距離を減らそうと、路線バスの時刻表を調べると、消防分署行が正午すぎに来ることが分かった(続く)。

posted by 進 敏朗 at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする