紫式部も通った近江から越前を目指す古道へ
本州を横切って日本海側から太平洋側に行こうとする場合、ひときわ陸地がくびれて谷が走り、短く結べそうな日本海側の起点の一つが敦賀であろう。
いろんな地形がある日本列島だが、敦賀の地形は不思議だ。
北は湾が食い込み、東と南は深い山に囲まれている。港から10キロ南下すればそこは滋賀との分水嶺で、谷筋には国道や高速道路、鉄道が集中している。
北陸新幹線がこの3月に金沢から敦賀まで延伸したが、ここから先、京都や大阪へのルートが小浜経由と決まったものの、京都府内などの沿線の反対などから立ち止まっている。
小浜を経由し、丹波高地の山岳地帯に長大なトンネルをうがち、京都のまちの地下深くを進もうという建設の費用は、現在試算されている2兆円余りで済むかどうか。
交通の要衝であるとともに難所でもある敦賀。
いま敦賀が注目されている。
NHKの大河でも月末に紫式部が越前へと向かうそうである。
このタイミングで、紫式部も通った近江から越前へ抜ける古道、深坂越を歩くことにした。
前置きが長くなった。
古道入り口まではバスが安全
近江塩津や大浦と敦賀を結ぶ深坂越(ふかさかごえ)は古代の官道であったという。
その道は深坂峠(370メートル)を越えて近江と越前を結ぶ。
豊臣秀吉が、もっと緩やかなルートをと「道野越」(現在の国道8号のルート)を開き、そちらのほうは海抜260メートルで深坂越より100メートル以上低い。
そんなに高低差が違うのならなぜ、古代から道野越を通らないのかとも思うが、古代はとにかく距離の短さ重視だった模様。
さて深坂越を歩くため、近江塩津駅からそのまま歩こうと思ったけど、ストリートビューで下見をしたら、国道8号の歩道が駅から約1キロ北の沓掛集落までしかなく、そこから先はカーブの上り坂もあり危険であった。
そこで古道の入り口まで路線バスを使うことにしたが、近江塩津発が午前7時18分。つぎは午後2時54分まで便なし。
ところが7時の米原発敦賀行き列車が近江塩津に着くのは7時25分で、バスに合わない。
このようなわけで車で近江塩津まで行き、駅前の市営駅駐車場(無料)に停める。
バスが来た(午前7時18分ごろ)
時刻通りに「新道野(しんどうの)」行きバスが到着した。客が1人が降りて、乗客は私1人である。
ぐんぐん走り、坂道も軽快にのぼって、5分ほどで「近江鶴ケ丘」停留所で下車し320円を払う。
終点「新道野」は下の写真で左にカーブした先にあり、そこは福井県である。
国道8号の坂の途中にある近江鶴ケ丘バス停付近
古道入り口はここではなく、近江鶴ヶ丘バス停より1キロ近く手前のスノーステーション付近にあり、小さなほこらが立っていたのだけど、そこにバス停はなく、停めてはもらえない、だからといって手前のバス停で降りると大型トラックが通過する国道を歩かないといけなかったので、近江鶴ケ丘から古道までショートカットする。
国道8号から西へと向かう道
楽々散歩の歩道続く
そこは小規模な高原だった。
採石場が露天掘りみたいに地面から土砂を掘り進んでいる。
いったん沢沿いに下りる。
タニウツギの花
日当たりがいい場所に、タニウツギの灌木が群生しピンク色の花を多数咲かせている。
平地では今年は4月末から開花したが、それよりも2〜3週間遅い感じだ。
海抜250メートル。近江塩津駅付近が110メートルだったので、バスで140メートルも登ってしまった。
深坂越の峠は370メートルなので、あと120メートル登るだけとなり、だいぶ楽な峠越えとなったのである。
歩きやすい道
道も砂利敷き、下草刈りが行き届き、モミジも植わったりして整備された道となっていた。
問屋跡の石垣遺構
進路の左側に石垣の遺構が現れた。
これが問屋の跡だという。
朝の光が当たる問屋跡の説明版
この問屋で、峠を行ったり、峠を越えてきた荷物は、別の業者の馬にバトンタッチされたという。
快適山道
ここから奥も、側溝もあり整備された林道のような道が続いていた。
坂もゆるやかで楽々と歩いた。
深坂地蔵
峠の直前の深坂地蔵に、息を切らすこともなく到達した。
峠の守り、深坂地蔵。
それは、平清盛の命で敦賀−琵琶湖の運河開削をしようとした計画を断念させた、険しい山の象徴であった。
通行する人たちが、安全を祈願して地蔵に塩を塗るならわしがあったようだが、それを繰り返すうちに石製の地蔵が傷んできたので塩を塗らないでくださいと、長浜市の案内マップにはあった。その際、「傷む」という字が「痛む」と表現されており、まるで地蔵さんが傷口に塩を塗られて痛がっているような光景が想像された。
福井県側は険しく
岩が突き出た崖沿いの道
深坂地蔵から先は細道となっていた。
これまでの楽々歩道は、深坂地蔵まで作業用の車を通すためだったかもしれない。すぐに峠に達し下り道となった。
斜面から岩が突き出ている横の、わずかな空間を道にしたりして、この地点などは他に道のつくりようがないから古代からそのままだったかもしれないと思ったり。
レモン色に黒い筋が印象的なキンモンガ
石敷き
道中にはところどころに石敷きもあって、足場をよくする工夫がなされていた。
切通しと転がる石
尾根の右から左、また右と、切通しがされている。
たまった落ち葉に足を取られ転ぶ。
切り石とおぼしき石が転がっている。
紫式部の歌碑
紫式部の歌碑が紹介されていた。
峠を通行しているとき、「賤(しず)の男(運搬役の人夫)」が「なおからき道なりや(やはりしんどい道だなあ)」と言っているのを耳にして、
知りぬらむゆききにならす塩津山世にふる道はからきものとぞ
と詠んだという。
知っていたでしょう。いつも通っている塩津山だけど、慣れているようでも世の中の道はしんどいのですよ。塩のように辛いですよ。
こんなような歌だ。
しょっぱい世の中を、深坂峠に思ったのか。越前への赴任で、こんな険しい道を通らないといけなくて、気が重かったのか、あるいは楽しんでいるのか。
紫式部はこのとき籠に乗っており、賤の男らはそれを担いで「しんどいなあ」と言っていたのである。
紫式部がそれを聞いて「知っていたでしょう」というのは、現代人の感覚ではずいぶん上から目線だとも感じられるが、そこは身分の上下があった平安時代なので、感覚を補正しなくてはいけないのだろう。
マムシグサ(有毒)出現
道沿いの沢
道はやがて谷沿いをいく感じになって、沢がどんどん大きくなっていき、朝の陽ざしが差す。
谷の終わりも近い
前方の空が見え、里が近くなってきたことを知らせている。
五井川
里におりた
山道から里に出た。
西近江路方面から
流れる五位川の橋の横に出る。
時刻をみたら8時50分で、いろいろ立ち止まりながら歩いたが1時間半で着いた。
福井県側から逆方向に歩くと高低差200メートル以上あるのでやはりしんどいだろう。
この先には疋田の村があり、古代三関のひとつ愛発(あらち)関があったとされるが、その場所はわかっていないのだという。(続く)
<おまけ>雪国の初夏