2019年05月04日

キャンプ

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岩山と平野、奥に琵琶湖

五月晴れの大津市南部で野営した。

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花崗岩の砂川と水中

京都から渋滞の山科、逢坂山を抜け、昼前に着。
テント、寝袋、食料品、その他の食器や諸道具を持ち、車を止めた地点から高低差約100メートルを
歩き上った。運動不足の身にはこたえた。

上の写真のような澄水流れる谷間。
鳥が鳴き、鹿跳ねる山中。

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火を焚き湯を沸かす

水は川からくんでわかした。
木切れはそこらへんに落ちている枝や松葉、松ぼっくりを集めてきて燃やす。
乾燥していただけに火の着きは良好だ。
煙がもくもくと出る。煙を吸ったり、火の粉がかかってもいいような農作業用の服を着てきた。

調理器具一式は、京都の友人Sの装備品。
テント、寝袋は、このたび初めて自分で購入し、設営。
火を焚いている場所から30メートルくらい離れて立てる。
これは煙たくなったり、最悪の場合延焼したりするのを防ぐ意味がある。

テント購入の際、中国製品は格安だが「使い捨て品にすぎない」との指摘を受け、国内メーカー品を選んだ。
あまり使わないことも予想されたので相当迷った。しかし今後、湖辺の魚捕りなどで使えるかもしれない。

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山の夕暮れ

あっという間に夕暮れ時となる。
ヘッドライトは必需品と口ずっぱく言われ、充電式でペンダント型のやつを購入、持参。
ふだんは胸にぶらさげるが頭にも巻いて止めることができる。軽くて首が疲れない。これは夜釣りにも使える。

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肉を焼く

闇夜の焼肉。火が肉の内部を赤く透かしてうまそうだ。
しかし、盛大なバーベキューではなく、メーンは豚汁で、寒さをしのいだ。
風がほとんどなくて、安全にたき火ができた。


「ピー」と鹿の鳴き声。
テリトリーへの人間の侵入を警戒しているようだった。跳ねる姿も目視。
暗い林のなかを木にぶつかりもせずよく走れるものだ。
ただのコンデジのため暗闇しか撮れない。

フクロウにしてはやや声の高い「ヒー」という鳴き声が遠くで30秒間隔くらいで一晩じゅう途切れることなくなり続けている。カジカガエルの透明なヒルルルほか、3種類のカエルの鳴き声がした。

静かな中に、さまざまな動物の気配が感じられる山中。
われら中年キャンパーが思わず口ずさむのは昭和歌謡。年はごまかせない。改元の世の中も山は静か。
挙句の果ては、いびきバリアーでテントサイトへの獣類侵入を防いだ。


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足元にヒメハギ

明け方寒くて目が覚めた。
寝袋は3シーズン用、着込んで防寒の備えはしたはずだったが予想以上に放射冷却があったようだ。この日大津の最低気温は10.3度。冷え込むことで知られる信楽は4.9度で、テントサイトは標高300メートルを超す地点だから、信楽とそう変わらない気温になった可能性もある。5月でそんなに冷え込むとは思わなかった。

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くつろぎの茶

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ツツジ(ピンボケ)

山を見て、昼前にはさらに2人の到着あり、手製のホットサンドをいただき、初夏のさわやかな空気を楽しんでいたところ、
急に雲行きがあやしくなりにわか雨となった。
まさかこの晴天が急変するなんて。

夕方まで雨が止むのを待って、テントを撤収、片づけて野営地を出るときには暗くなりかけており、車まで戻ったときには完全に暗くなっていた。

このとき、ヘッドライトをかばんの奥にしまいこんで、出すのが面倒くさかったが、下山路を、ライトで照らしてもらわなかったら、濡れた岩で足を滑らしていたのは必至。下手をすれば骨折、入院なんてことにもなりかねなかった。
山で過ごすには熟練者の同伴は不可欠と痛感。

帰路、川沿いで、バーベキュー者らが積み残していった膨大なごみ袋を見る。
誰もいない山道にごみを置き去りにして、回収を誰かがやってくれると思っている非常識さに一同あきれた。
車で来たのなら、積んで持ち帰ればいいのに。釣り場と同様、そんなことで、立ち入り禁止となりかねないマナーの悪さだ。

1日半の山滞在だったが、いつもとは違った趣向で水のある自然を眺めて過ごした体験だった。




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2019年03月03日

夜久野溶岩台地行(下)

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なだらかな府県境

京都府内で唯一といわれる火山活動の地形、夜久野が原。
その地名の由来は「焼け野」からという説もあるという。
焼けたような黒い土が広がる溶岩台地。
福知山市夜久野町の兵庫県との府県境は同じ台地面上にあってなだらかだった。
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宝山

その交差点の北側にそびえる小山が、京都府唯一の火山といわれる宝山(たからやま、またはたくらやま、349メートル)
ここから車で、山の東麓の「宝山公園」駐車場に停めると、もうそこは海抜220メートルくらいで、残りの高低差は130メートルに縮まった。

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マンサクの花

午前6時の予報では夕方までもつとのことだったが、早くも午前中からぱらつき始めた。
気温は10度あるかないかで風はなく、まあこの季節にしては普通だが小雨まじりでひんやりとしている。
11時半過ぎから登山。
丸太で階段がしてあって、やや坂は急だがのぼりやすい。
山の中腹も段々畑状になり、紅葉の憩の場にしようとしたのだろうか、改変が著しい。
5分もしないうちに、いつものようにハアハアと息切れ。前日も北山にのぼったという友人S氏は息ひとつ切らさない。
3月3日だったためか、正午、ひなまつりのメロディーが溶岩台地に流れた。

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山頂付近からの眺め

20分ぐらいして、山頂付近にさしかかり、眺望が開けた。
「ビューポイント」の広場よりちょと手前の登山路からのほうが、台地のようすを観察しやすい。
中央から右にかけ、高さ50メートルくらいの土地の高まりがはっきり確認できる。
「溶岩台地」というものを、観察するには良い場所なのではないか。

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赤い石

宝山はスコリアでできている火山砕屑丘(さいせつきゅう)。
石は上の写真のように赤かった。
赤いのは鉄分を含んでいるためだろう。
玄武岩は鉄やマグネシウムを豊富に含んでいて苦鉄質とかいわれるが、そのわりに鉄資源とはならない。
これを高温で溶かし、成分を分離して鉄やマグネシウムが取れるはずだが、鉄鉱石などに比べれば含有量が低くてペイしないのだろう。
そのかわり、玄武岩質の夜久野が原を、アルカリ分を入れて土壌改良すれば、そこは植物の成長に必要なマグネシウムや鉄分に富んだ土壌となって、野菜栽培にはプラスとなっている。

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宝山山頂

この宝山は、約30万年前に噴火したとみられている。
38万年前ごろ、溶岩が大規模に地底から流れ出て夜久野が原ができる。
それから数万年し、2度目の溶岩流があり、第1次の溶岩台地の上に乗っかり、台地中央部を形成。
宝山の噴火は夜久野における第3次の活動となる。
以後、現在に至るまで噴火や溶岩流はないから、夜久野での火山活動は打ち止めとなったのかもしれない。
30万年、まだ日本に人類はおらず、大陸では北京原人が暮らしていた。そんな遠い昔。
琵琶湖はこのころ、現在と同じような姿になっていた。


頂上は噴火口を取り囲んで平らになっており、左回りに回っていく。

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すりばちの形(進路から後方を振り返る)
杉木立で見通しがきかないが、すりばち状の形が確認できる。

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すり鉢の底

登山路は途中からすり鉢の中に降りて、火口からの眺めも。
この真下の地中から、高温の噴出物が吹き上げてきた。そのときはあまり流動性はなくて、小山の形になった。それは富士山とかにくらべれば、かなり小規模なものだったろうが、それでも比高150メートルの山ができるわけだから、一帯の山火事とか、噴煙によって周囲の木が枯れるとか、いろいろあっただろう。
噴火口は地図で見ると「C」の字を90度右回転させたように南側が切れていて、その谷を伝うように噴火口を出る。
駐車場に戻ったら12時45分で登り始めから1時間あまり。
低山めぐりは適度に終わった。
昼食へ道の駅へ。
いつもは弁当持参のことが多いが、今回は、この夜久野高原のそばを食べ、高原を味覚で確かめようという趣向。

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そば
十割そばは夜久野産そば粉を使用しているが、黒豆入りそばは、北海道産など国内そば粉使用とのこと。
かけそばの前者は1080円、後者は600円と値段が大きく違っていた。
地元産は高いが、これを食べねば夜久野高原を味わったことにならない。
火山性の土壌でも育つといわれるそば。しっかりした麺を堪能した。

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夜久野の地質図

市町村合併の以前に建てられた化石館の地質案内図は旧夜久野町の範囲が示されていた。
溶岩台地は左端真ん中やや下の「中部」と書かれた文字の右隣、濃い茶色の部分。
溶岩台地の広がりは、この左側の兵庫県側にも広がっているのに、町境までしか書かれていないのが残念だ。
しかし夜久野は、川ひとつ隔てても地層が違っているようで、古生代から中生代、新生代までいろんな地層が分布しており、化石採集でも非凡なものがある土地のようだった。

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宝山から吹いたとみられる火山弾

ただ化石についての展示は詳しかったが、火山活動や溶岩台地についての展示はほとんど無かった。
そこで受付のおじさんに「夜久野町史」を見せてもらい、そこに宝山や溶岩台地についての記述があったので断わって写真に収めた。
もし夜久野に、この溶岩が噴出しなかったら、溶岩台地の西の直見川と、兵庫県側の磯部川は一本の谷でつながっていたのではないか。
但馬地方には、本州でもっとも標高の低い101.4メートルの中央分水界がある。夜久野の溶岩を取り去ったら、そこには同様の標高の分水界が出現していたのでは。
でもこの場合、円山川と由良川の分水界なので、どちらも日本海に流れるから中央分水界ではなかった。

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土塁と石柱

その京都府兵庫県境に沿って、土塁のようなものがあって、石柱が立っている。

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国境を強調していた

その石碑は「これより東は丹波」とのことで国境を示していたのだった。
福知山が「福智山」と刻まれていて、もとはこちらの字が使われていたようだ。
来年の大河ドラマが明智光秀で、福智山は明智光秀の「智」からの名づけと知った。
国境が平坦なため、このように土塁を設けて隔てていたのか。
まさに国境の壁だ。
そしてこの赤黒い6角形をしたこの石柱。
これはまさに玄武岩の柱状節理ではないか。

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石碑の素材

玄武岩の大規模な柱状節理は、この石碑から東に2キロほどの「玄武岩公園」で見ることができた。
6角形の石碑は先ほどの土塁ほか、お寺などにもあり、溶岩の恵みを利用しているようだった。

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石材を掘った跡か

石材業が盛んだった夜久野。玄武岩公園では、河谷での採掘の跡などを確認。
野に落ちていた穴だらけの溶岩とは違い、ち密な質感だ。

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神社の池

兵庫県側の溶岩台地の西端、和田山町宮の神社では、岩からしみだした谷水をひいた立派な池があり、コイ泳ぐ。
背後の台地が浅い割に水量が多く、岩間から水がわき出しているようだった。クレソン、セリ群落も広がる。
夜久野が原ではほかにも、宝山の周囲などでも水がわく沢があるらしきことが「夜久野町史」の記述にもあった。
火山地形を歩き、のぼり、食べ堪能。

考えてみれば郷里には大山という巨大な火山があったのに、その存在感がありすぎて火山地形にあまり目を向けることがなかった。
近畿では少ない火山地形で、しかも1日でまわるのに適度な大きさだった。
道路開通にともなう台地の開削や、山に道をつけるため別の土地から持ってきた砂利をまき、敷くなど、もともとの山の地質や地形がわからなくなるくらいの改変も目立ったが、火山地形や台地の形そのものに注目することで、大地のつくりについていろいろと楽しい観察となった。

posted by 進 敏朗 at 12:45| Comment(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夜久野溶岩台地行(上)

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台地の崖面を登る旧山陰街道

京都府の丹波地方、福知山市夜久野町に同府では唯一の火山があって、溶岩台地が広がっているという。
近畿地方には火山地形は少なくて、この夜久野が原へ、水辺活動の本格化する前のシーズンに見に行った。
滋賀県南部から京都市内経由、片道130キロ、沓掛から山陰自動車道、国道9号線経由。

福知山市街を抜け9号線を西進。
進行方向左手に牧川、その向こうを山陰本線が並走する。
同市夜久野町高内で、山陰本線はとつじょ9号線をまたぎ右にカーブしていく。夜久野の溶岩台地がはじまり、線路は台地をのぼらず崖面に沿って進む。

冒頭の写真は、山陰本線が9号線の上をまたぐ地点から北に約100メートル。そこで車を止めると、気になる坂道があり、同行の友人Sは、古い地図に道が記載され、敷石のある立派なつくりであることから、これが山陰街道の旧道ではないかという。

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特急電車ゆく

車を離れ歩いていく。
坂道は警報装置のない踏切を越え、さらに台地の崖をのぼっていく。

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溶岩発見

すると、穴だらけの赤茶色をした石が落ちている。
これは溶岩でしょう。
まだ熱いうちに、揮発成分が内部から抜けた跡とみられる。
さっそく火山の手がかり発見だ。
これも見つけたのはS氏。

山陰街道といい溶岩といい、見つけているのは我ばかりではないか、といわれる。
きっとぼさーっとしている筆者への励ましであろう。観察眼にすぐれた同行者はフィールド探索にはありがたいものだ。

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台地の上

平らな台地の上に出た。畑や牧場が広がっている。
土が黒くて、これもクロボクと呼ばれる火山性土壌のようだ。
クロボクは酸性がつよくてあまり農業に適さないとされてきた。近年ではアルカリ分を混ぜ土壌をを改良、広大な畑地に生まれ変わった。
道の駅では高原野菜が売られていた。

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国道9号線の切通し

山陰本線が台地を迂回するのとは対照的に、9号線は台地を切り開いてまっすぐ西へと坂を上る。
地図をみると台地の下の高内では104.3メートルで、切通しがおわる約1キロ先の小倉では170メートルくらいだった。
車だとそれほどの勾配ではないが、汽車ではしんどいだろう。というわけで山陰本線は上夜久野まで、台地のエッジをなぞりながら進む。



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台地を下から見る

いったん台地を降りて、河原と、いちだん高い田んぼ、さらに台地を見る。
田んぼに対する台地の高さは40〜50メートルくらい。
台地の崖の中ほどを山陰本線が走る。
この台地がぜんぶ流れてきた溶岩が固まってできたものだとは。
あるとき、大地の裂け目ができて、温度1200度の大量の溶岩がどーっと流れてくる。
そんな光景がこの野原から想像できるだろうか。

その範囲は東西4.5キロ、南北1.5キロ、厚さは厚いところで100メートルくらいに達しているという。
ハワイの火山の映像を見ることがあるが、ああした感じで迫ってきたのだろうか。
まさにディザスター、周囲一帯の生物死滅、すごいことだったろう。

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府道沿いに柱状節理出現

高内から府道56号線を北上するとほどなく、右手に玄武岩の柱状節理が出現。
これは、台地とは谷をはさんだ対岸の地山のふもとにあるから、溶岩はもともと、谷を完全に埋めていたんだなということがわかる。
そうすると行き場を失った谷水は、ダム湖のような湖となっていたのかもしれない。溶岩でせきとめられたら、熱い湖、なんてことも?

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平らな石を利用した玄関アプローチ

石材に恵まれた土地柄とあって、あたりの民家は立派な石垣で囲まれている。
平らに切れる性質があるのか、玄関へと上がる坂道が、平らな石で敷き詰められているのに見入る。

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台地のエッジ

上夜久野駅の東側から台地を川がなだらかに削り取った地形を見入る。
線路は右側の棚田の右方にあって、あえぎながら約2キロで20メートルくらい登ってきた。
いまは電車だから、あえぐわけはないか。

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上夜久野駅

山陰本線京都府最西端の上夜久野駅は、溶岩台地の北端を掘り込んだか谷を埋めたような感じで、こじんまりとたたずむ。
北側に駅口があって、牧川上流の村々からの利用が便利だ。

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駅の向こうがトンネル入り口

駅のすぐ西は、台地と貫く長さ約1.5キロの夜久野トンネルとなっている。

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夜久野トンネル入り口

トンネルは、電化された際に新トンネルが掘られ、ふたつの穴が隣り合っている。
長さ約1.5キロのトンネルの向こうは兵庫県だ。溶岩台地はちょうど、京都・兵庫の府県境の谷を、まるでマヨネーズをぶちまけたように横たわる。
ここは古代から、丹波と但馬の国境でもあった。

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京都府唯一の火山といわれる宝山。西半分は兵庫県

サアそして、きょうのメーン目的地、宝山(349メートル)が見えてきた。
これが京都府唯一の火山といわれる宝山。

裾野には平たい溶岩台地が広がっていて、ここを舞台に応仁の乱に絡む合戦も。

宝山をみると頂上がふたつあるように見えるが、噴火口の一部が欠けて、手前側にかけて谷となっているのだった。
ふもとの標高は200メートルくらいあるので、たかだか150メートルを登るにすぎない。
適度な低山だ。
(続く)
































posted by 進 敏朗 at 10:59| Comment(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月25日

三方五湖長尾行

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朝の穏やかな三方湖(午前9時10分ごろ)

7時ちょうどに出、左京に7時半着。S氏を拾い、三方五湖を目指す。大原途中、鯖街道経由でちょうど1時間半、三方湖(みかたこ)を望む鳥浜地区に着く。


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堀切

三方湖の東岸を北上し、広場に車を停め、長靴にはきかえる。
雪があるかもしれないとの指摘から、新たに購入した北海道のメーカー品だ。5000円くらいしたが、これまで買ってはすぐに破けていた、ホームセンター品とは足へのフィット感やしっかり感がまったく違う。
ただ防寒仕様ではないので、靴下を二重にはいた上、足底にカイロを装着し、歩いていく。

堀切につく。三方湖と菅湖(すがこ)をつないでいる。幅、4メートルくらい、深さは、埋まってしまったのか底が見えていて30センチくらいしかないように見える。

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ハシビロガモやオオバン

菅湖には鳥類が多く、近づくと、岸近くの湖岸からカモ類が沖へと泳いでいく。

さて今回は、三方湖と水月湖(すいげつこ)を隔てている細長い岬を歩こうとやって来た。

梅園への有害鳥獣の侵入を防ぐ目的で、柵がめぐらされている。柵の鍵は開くことができるが、開けたあと、閉めることをせずに中に入る不届き者がいるという。せっかくの柵が台無しだ。開けたら、ちゃんと閉めることを心に刻み、慎重にフェンスから入る。午前10時。登りの道が始まっている。

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幅の広い道

登山道は広く、幅3メートルはあろうかというならされた道が続く。
水路沿いに北向きに登り道があり、西に折れたあと、まず52メートルのピークに登る。いったん休憩。
そこから、いったん下がって、また上りがあり、水月湖と菅湖を隔てる岬が北に延びる「Y」字形をした分岐点のピークに至り休憩。

両側は木で、梅林が山頂近くまで植えられていたと思しき場所も。今は稼働していない荷運び用のレールが錆びている。

道はほぼまっすぐで歩きやすい。
獣が歩いた跡が一貫してついている。S氏が前方に、大型獣を認める。言われて、そちらの方に目をやると、獣は北側尾根を走って下っていき、正面衝突とはならなかった。イノシシのようだった。
イノシシは泳げるから、柵で岬の入り口を遮断しても、湖を泳いで上陸できるようだった。
また道中にはシカのふんもあり、さらには猿も友人が目撃。
熊がいたらどうしよう、と話し合ったが熊には遭わなかった。だが獣が多い山のようだった。

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水月湖の眺め

先端にいたるちょっと手前で、林が切れ、北方の水月湖が見られる場所があった。
レインボーラインの休憩所がある梅丈岳(396メートル)が正面やや左に見え、なかなかの眺めだ。背後には、三方湖が広がっているのだが、そちらは木立で見えない。

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岬のピーク

このへんで午前11時半を知らせるポール・モーリア「恋はみずいろ」鳴る。
それは米原市の天野川沿いで聞いた同曲とは演奏が違い、チャラララララ、チャラララララという伴奏もしっかり入って演奏時間も長いフルバージョンの電子音。
演奏はちがえど、「恋はみずいろ」が、各地の里で大きな支持を得ているようだった。

水月湖眺望地点からほどなく、午前11時半すぎ、先端近くの標高100.5メートルのピークに着いた。
10センチ程度の雪が残っている。かき氷状になっていてサクサクと音がする。
長靴が威力を発揮した。

この岬を下りると、対岸まで約50メートルの「瀬戸」があるのだが、半分くらいまで下り、そこから先は急坂になっていて、引き返す。木立のため、せっかくの水道の様子はよく見えなかった。

下りる途中、北西の風が強まり、とつぜんの嵐が襲う。友人が「財布がない」と、引き返し、山の上にスタンドアローン。登るときは、穏やかだったのに、天気が急変。
財布は結局「かばんに入っていた」。ということで出発。

下りてから、里海研究所で、「あの岬は何と呼ぶのですか」と尋ねたところ、元町職員のスタッフの方から「長尾」とうかがった。
長尾にある先端の山は、何といいますか、と聞いてみたが、全体が長尾なので何山とかいう名前は聞きませんねえ、ということだった。

長尾での梅園は、1981(昭和56)年の構造改善事業で拡大されたのだという。三方五湖沿岸での梅栽培の歴史自体はもっと古いが、その時期に規模が拡大したのだという。山でみたレールも、その時に敷設されたものと思われた。
農業の基盤整備をしっかり進めて生産量アップ、農業者の収入増となり、農村が豊かになる、と目指された構造改善事業。

だがしかし、山の斜面での梅栽培、しかも季節風がまともに当たる北斜面などはちょっと木が育つ環境としても、作業環境としても厳しかったのではと想像された。現在も、梅栽培が続けられている場所は海抜ゼロメートルの凍結しにくい湖岸すれすれの低い土地とか、車が横づけできる場所とか、季節風の影響をうけにくい南斜面とか、作業的にも栽培条件的にも恵まれた場所のようだ。

勝山に行くという友人を、途中の駅でおろした。
この日、風邪気味で、途中でへたり熊川宿の道の駅で休憩、6時すぎに帰宅した。










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2017年06月04日

丹波高地廃村行

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廃村への誘い

さわやかな日曜日、京都市最北部は丹波高地の廃村行へ参加した。
基本これは水辺のことを書いているブログだが山にも沢や水辺がある。

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桂川の上流部、広河原の沢

7時自宅発、8時に京都市左京区集合で、参加者が筆者の車に同乗、計2台で白川通を北上し、国際会館前、鞍馬から花背峠、道の途中で広河原行のバスを追い抜き9時半にはバス終点のひとつ手前、広河原菅原町に着。

京都市の北部は1000メートルには届かない山が連なっているんだけど、その水系をイメージするのがなかなか難しい。

鞍馬から花背峠はけわしい谷の中を進んでいたのに、峠を越した山奥側のほうがむしろなだらかだった。鴨川ではなくて桂川の水系にかわっていて、重要な交通ポイントという白い橋を渡る。

鹿の死体が河原に落ちていると車の中の同乗者がうながすが運転者は見る余裕がない。

そんなこんなで本日の出発地となる広河原菅原町に着く。

ここから西へ峠越えすると、廃村八丁があるという。廃村八丁というのが固有名詞みたいに扱われていて、けっこう知られたハイキングコースみたいだが山のことはよくわからない。ましてや、地理も不案内な京都の山中。

川を見るとカジカガエル泳ぐ。アブラハヤっぽい魚もいる。

登り始めると冒頭の「廃村八丁」看板があるが、この看板の右側の切れ込みが指し示している峠への道は、最初間違えかけた谷筋ではなく藪の中というような斜面で、いきなり迷うところだった。今日は、読図にたけた山行の先達を含めて計7人での行動なので安心だった。

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白い花

いきなり白くて半透明なろう細工のような花が足元に。
山の植物よ。葉緑素をもたないラン科の花だという。

まずやや急な斜面をのぼり、尾根の楽々ゾーンを歩いてやや急斜面を上がると峠についた。峠までは杉林だった。

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ダンノ峠の看板

疲労を反映してかピントが合っていない。
ここの峠が大阪湾にそそぐ桂川(下流で淀川に合流)と、日本海にそそぐ由良川との分水嶺になっている。


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762メートル

スマホのアプリ「無料の精密な高度計」を見ると762メートルだった。
画面は昨春、岐阜県の養老天命反転地でコンクリに落として割れてしまっている。
ともあれ車をとめた地点が、海抜480メートルくらいなので280メートルくらいのぼったことになる。
これならまあ「低山めぐり」に分類もできよう。

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丹波高地を一望(南西の方角)

ここから南西へ谷筋を下れば廃村八丁に至るが、そうはせずに北西の尾根伝いに品谷山(880メートル)を経由する。

大雪で圧せられた杉大木などを見る。

峠までに、キツツキのコココココココというドラム音、そして品谷山までには、ホーというフクロウの仲間の声がして深山の趣。

山に行ったときはマイクを用意するのも有効のようだった。

尾根からは丹波高地の南方向が見渡せる場所もあった。

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ブナ大木

ダンノ峠の西側は杉の植林帯がなくなりブナの大木も尾根沿いにあって、同行者は「ええ尾根やなあ」としみじみと嘆息。

しかし水辺行をもっぱらとする筆者には、そのええ尾根の意味がいまひとつ感得できない。
広くて足場も良くて大木が生える、これがええ尾根というものだと教えられた。

丹波高地には平地というものがほとんど発達しておらず斜面だらけのいっぽう、山の形も鋭さを欠き品谷山も頂上感が感じられなかった。川が土地を削りきった末の地形なんだろうか。岩盤が硬いせいもあるんだろうか。滋賀県の、鯖街道が通る朽木の谷の西側から丹波高地は始まっていて、そこは森の王国だった。

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白っぽい石の岩脈

ちなみに品谷山の山頂付近では、白っぽい石が落ちていて、これは上の写真のように節理ができて細かく割れていくようだった。ふもとに多かった灰色のチャートよりは割れやすく、尾根道は細かくなった白い角石が敷き詰められ舗装されたみたいで歩きやすかった。素人なので何の石か分からなかいんだけど、火成岩の斑状組織はなく、あるいは堆積岩が熱変成を受けたかのようにも思われた。

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アブラハヤ(水中撮影)

品谷山から南西方向に、谷筋を下りていくと透明な沢の中に魚の群れが見え、撮影したところ、上のようなアブラハヤだった。

ここは日本海側に注ぐ川なので、ヤマメでもいればと思ったが、アブラハヤしか見つけられなかった。
しかしアブラハヤでも、太平洋側にそそぐ川にいるアブラハヤとは何かが違うかもしれない。

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緑に包まれた廃村

廃村八丁に着いた時には昼を大きく回っていた。
川が蛇行してできたわずかな平地に石垣が数か所のほか祠、墓地、耕作の跡地など。
川沿いにはカワセミ飛ぶ。

八丁は、人跡まれな秘境で、その森林資源をめぐって中世から山論の舞台になってきたという。
明治維新で、会津藩士が入植し開村、5戸が暮らしをいとなみ山林を分け、分家ができたことから6戸に増え、学校の分教場もあったという。
しかし、経済的に豊かになったことから大正末に3戸が村を離れ、分教場も閉鎖。
1933年の大雪を機に、残る家も離れ、1941年には廃村となった。
これらはウィキペディアの「廃村八丁」の記述をもとにしている。

八丁は旧京北町のエリアなんだけど、同町の他地域がみな桂川水系なのに、ここだけは由良川水系となっていて、周囲と隔絶された土地になっている。隣村に行くにはどうしても峠越えをしなくてはいけないようだ。

川筋を下れば峠越えしなくてもいいじゃないかと思うかもしれないが、下流は深い峡谷のためそれも無理のようだった。

そんな廃村の中に業者が土地を買い取ったことを告げる比較的新しい看板あり北陸新幹線目当ての土地買い占めなのかもと話し合う。

昼食、廃村探索ののち3時半ごろ出発。


DSC_5581滝-.jpg


岩を伝い落ちる滝を見る。この滝の横をのぼる道が最大の難所だった。山に熟達した同行者がルートを探すこと半時間、急斜面を直上せずに脇をのぼる道が見つかった。

由良川のはじまり.jpg
由良川の源流

峠を目指してのぼっていく途中、水が枯れかかった高層湿原のような場所あり、それを過ぎるとなだらかな谷沿いを上がっていき、ふと谷の水が止まる地点があった。川の源流がこのように始まるのかと一瞬、興味深かったが、あまり絵的に美しい感じはせず、だいぶ夕方になっていたんで足早に写真を撮っただけに終わっちゃった。ここが峠の100メートルか200メートルくらい手前らへんだったと思う。

分水嶺で休む.jpg
分水嶺で休む

ダンノ峠に着くと5時半ごろ。
分水嶺なんだが、ここには水はなく、水があっちとこっちに流れているような絵は当然撮れない。

駐車地点に戻ったのは6時過ぎ。日が長い季節だったので山を脱すると意外に明るかった。
明るいうちに山から出られてよかった。

帰りは日曜日のせいかすれ違う車もまれ。鞍馬の集落がかなりの都会に見えたほどだった。

posted by 進 敏朗 at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする