2024年05月18日

深坂越を行く(上)

紫式部も通った近江から越前を目指す古道へ

本州を横切って日本海側から太平洋側に行こうとする場合、ひときわ陸地がくびれて谷が走り、短く結べそうな日本海側の起点の一つが敦賀であろう。
いろんな地形がある日本列島だが、敦賀の地形は不思議だ。
北は湾が食い込み、東と南は深い山に囲まれている。港から10キロ南下すればそこは滋賀との分水嶺で、谷筋には国道や高速道路、鉄道が集中している。
北陸新幹線がこの3月に金沢から敦賀まで延伸したが、ここから先、京都や大阪へのルートが小浜経由と決まったものの、京都府内などの沿線の反対などから立ち止まっている。
小浜を経由し、丹波高地の山岳地帯に長大なトンネルをうがち、京都のまちの地下深くを進もうという建設の費用は、現在試算されている2兆円余りで済むかどうか。
交通の要衝であるとともに難所でもある敦賀。
いま敦賀が注目されている。
NHKの大河でも月末に紫式部が越前へと向かうそうである。
このタイミングで、紫式部も通った近江から越前へ抜ける古道、深坂越を歩くことにした。
前置きが長くなった。

古道入り口まではバスが安全

近江塩津や大浦と敦賀を結ぶ深坂越(ふかさかごえ)は古代の官道であったという。
その道は深坂峠(370メートル)を越えて近江と越前を結ぶ。
豊臣秀吉が、もっと緩やかなルートをと「道野越」(現在の国道8号のルート)を開き、そちらのほうは海抜260メートルで深坂越より100メートル以上低い。
そんなに高低差が違うのならなぜ、古代から道野越を通らないのかとも思うが、古代はとにかく距離の短さ重視だった模様。

さて深坂越を歩くため、近江塩津駅からそのまま歩こうと思ったけど、ストリートビューで下見をしたら、国道8号の歩道が駅から約1キロ北の沓掛集落までしかなく、そこから先はカーブの上り坂もあり危険であった。
そこで古道の入り口まで路線バスを使うことにしたが、近江塩津発が午前7時18分。つぎは午後2時54分まで便なし。
ところが7時の米原発敦賀行き列車が近江塩津に着くのは7時25分で、バスに合わない。
このようなわけで車で近江塩津まで行き、駅前の市営駅駐車場(無料)に停める。

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バスが来た(午前7時18分ごろ)

時刻通りに「新道野(しんどうの)」行きバスが到着した。客が1人が降りて、乗客は私1人である。
ぐんぐん走り、坂道も軽快にのぼって、5分ほどで「近江鶴ケ丘」停留所で下車し320円を払う。
終点「新道野」は下の写真で左にカーブした先にあり、そこは福井県である。

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国道8号の坂の途中にある近江鶴ケ丘バス停付近

古道入り口はここではなく、近江鶴ヶ丘バス停より1キロ近く手前のスノーステーション付近にあり、小さなほこらが立っていたのだけど、そこにバス停はなく、停めてはもらえない、だからといって手前のバス停で降りると大型トラックが通過する国道を歩かないといけなかったので、近江鶴ケ丘から古道までショートカットする。

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国道8号から西へと向かう道

楽々散歩の歩道続く

そこは小規模な高原だった。
採石場が露天掘りみたいに地面から土砂を掘り進んでいる。
いったん沢沿いに下りる。

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タニウツギの花

日当たりがいい場所に、タニウツギの灌木が群生しピンク色の花を多数咲かせている。
平地では今年は4月末から開花したが、それよりも2〜3週間遅い感じだ。
海抜250メートル。近江塩津駅付近が110メートルだったので、バスで140メートルも登ってしまった。
深坂越の峠は370メートルなので、あと120メートル登るだけとなり、だいぶ楽な峠越えとなったのである。

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歩きやすい道

道も砂利敷き、下草刈りが行き届き、モミジも植わったりして整備された道となっていた。

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問屋跡の石垣遺構

進路の左側に石垣の遺構が現れた。
これが問屋の跡だという。

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朝の光が当たる問屋跡の説明版

この問屋で、峠を行ったり、峠を越えてきた荷物は、別の業者の馬にバトンタッチされたという。

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快適山道

ここから奥も、側溝もあり整備された林道のような道が続いていた。
坂もゆるやかで楽々と歩いた。

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深坂地蔵

峠の直前の深坂地蔵に、息を切らすこともなく到達した。
峠の守り、深坂地蔵。
それは、平清盛の命で敦賀−琵琶湖の運河開削をしようとした計画を断念させた、険しい山の象徴であった。
通行する人たちが、安全を祈願して地蔵に塩を塗るならわしがあったようだが、それを繰り返すうちに石製の地蔵が傷んできたので塩を塗らないでくださいと、長浜市の案内マップにはあった。その際、「傷む」という字が「痛む」と表現されており、まるで地蔵さんが傷口に塩を塗られて痛がっているような光景が想像された。

福井県側は険しく

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岩が突き出た崖沿いの道

深坂地蔵から先は細道となっていた。
これまでの楽々歩道は、深坂地蔵まで作業用の車を通すためだったかもしれない。すぐに峠に達し下り道となった。
斜面から岩が突き出ている横の、わずかな空間を道にしたりして、この地点などは他に道のつくりようがないから古代からそのままだったかもしれないと思ったり。

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レモン色に黒い筋が印象的なキンモンガ

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石敷き

道中にはところどころに石敷きもあって、足場をよくする工夫がなされていた。

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切通しと転がる石

尾根の右から左、また右と、切通しがされている。
たまった落ち葉に足を取られ転ぶ。
切り石とおぼしき石が転がっている。

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紫式部の歌碑

紫式部の歌碑が紹介されていた。
峠を通行しているとき、「賤(しず)の男(運搬役の人夫)」が「なおからき道なりや(やはりしんどい道だなあ)」と言っているのを耳にして、

知りぬらむゆききにならす塩津山世にふる道はからきものとぞ

と詠んだという。
知っていたでしょう。いつも通っている塩津山だけど、慣れているようでも世の中の道はしんどいのですよ。塩のように辛いですよ。
こんなような歌だ。
しょっぱい世の中を、深坂峠に思ったのか。越前への赴任で、こんな険しい道を通らないといけなくて、気が重かったのか、あるいは楽しんでいるのか。
紫式部はこのとき籠に乗っており、賤の男らはそれを担いで「しんどいなあ」と言っていたのである。
紫式部がそれを聞いて「知っていたでしょう」というのは、現代人の感覚ではずいぶん上から目線だとも感じられるが、そこは身分の上下があった平安時代なので、感覚を補正しなくてはいけないのだろう。

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マムシグサ(有毒)出現

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道沿いの沢

道はやがて谷沿いをいく感じになって、沢がどんどん大きくなっていき、朝の陽ざしが差す。

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谷の終わりも近い

前方の空が見え、里が近くなってきたことを知らせている。

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五井川

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里におりた

山道から里に出た。
西近江路方面から
流れる五位川の橋の横に出る。
時刻をみたら8時50分で、いろいろ立ち止まりながら歩いたが1時間半で着いた。
福井県側から逆方向に歩くと高低差200メートル以上あるのでやはりしんどいだろう。
この先には疋田の村があり、古代三関のひとつ愛発(あらち)関があったとされるが、その場所はわかっていないのだという。(続く)

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<おまけ>雪国の初夏

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深坂越を行く(下)

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街道沿いの集落

古道深坂越を下りて疋田へ進む

近江と越前を結ぶ古道「深坂越(ふかさかごえ)」を歩き、福井県側に出た。
福井県側は深い林の中をいく山道であった。
明るい日差しの里に出てほっとする。

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山から流れ下りる五位川

滋賀の湖西方面から北上する西近江路と合流し、「追分」の集落を通過。
峠の標高が370メートルだったが、里に出たときには110メートル。

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愛発(あらち)と地区を紹介する看板


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新疋田駅

そして坂を下っていくと北陸本線の新疋田駅があった。
滋賀県最北の駅・近江塩津からトンネルをまたいだ県境の駅だが、次の駅はもう敦賀となる。

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鉄道写真ギャラリー

ログハウス風駅舎の中は、鉄道写真ギャラリーとなっていた。
新疋田ー敦賀間にはループ線もあって、鉄道写真の聖地のようだった。
9時11分発敦賀行の電車がちょうど出て行った。
早起きしたかいもあってまだ9時台。
滋賀県側から歩き始めてまだ2時間もたっていない。歩き始めてまだ5キロくらいだったのである。

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けわしい山

さて新疋田駅から疋田の集落へは、800メートル歩を進めねばならない。
振り返ると、岩肌が露出したけわしい山が見える。
付近は東西を山にはさまれ、南北方向の谷になっている五位川沿いに道が続く。

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疋壇城の入り口

要害疋壇城は関所の適地

疋田集落に入ったところの街道のすぐ脇に「疋壇(ひきだ)城跡」があり、街道より20メートルほど高い丘になっていた。

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石段上からの眺め

東の方向、笙の川の谷が奥まで見渡すことができ、眼下の街道を監視できる。

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石段の上は広かった

石段の上は、思ったよりも広い平坦な場所で、ゴルフ打ちっぱなし練習をしている人がいるほどだった。
「西愛発小学校」があったことを伝える碑もあった。

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広場の西側は北陸本線

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スーパー雷鳥号も通過

西側は、岩籠山(765メートル)につながっていき、ここは山と川の間の段丘だった。
五位川と笙の川が合流する地点の高台で、戦国時代は織田信長の越前攻めの舞台となった。
素人目にみても、街道の往来を監視する絶好の場所だ。
奈良時代に設置され、正確な場所が不明な愛発(あらち)関、ここにあったんじゃないかと思ったが、敦賀市による調査の結果、それらしき遺構や遺物は出土しなかったという。

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人工水路の起点

運河終点の地疋田

さて、疋壇城跡をおりて疋田の集落に戻ると、ほどなく石垣でしっかりと固められた水路が見えてきた。
これが、江戸時代まで運河として使われていた水路だというのである。
平安時代に平清盛が日本海と琵琶湖を結ぶ運河を構想し、掘らせたのが始まりという。

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船型の石製ベンチ

ベンチも舟形だ。
みかげ石製で、これが水路沿いに何個かありお金がかかっている。座って水を飲み、しばし休憩。

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運河だったのか

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水路の段差

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船運の終点付近

お寺の前付近に、船運の終点があった説明版があった。
シュロ縄で両側から船を引いて水路をさかのぼらせていたのだそうだ。そのためか水路の両側は人が歩ける平たいスペースになっている。
船底がすれるので、川底をなめらかにするため木の板を敷いていたそうである。このあたりで海抜70メートル。
敦賀の河口から10キロくらいで、ここから琵琶湖までは直線で10キロほど。
中間地点と言えなくもない。

水路幅は約1メートルで、ずいぶん細い船が通っていたんだなと思っていたがそうではなく、かつては2.8メートルあり街道の中央付近までは水路だったようだ。

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お寺の石垣裏にあった説明板

もし琵琶湖まで運河を引くことができたら、日本海側の物資を一気に浜大津まで直送し、京都へ運べるので、物流の大革命になったに違いない。
そうなると荷下ろし港の浜大津は、日本海の物流の一大拠点になっていただろう(笑)。
さすが平清盛、こんな壮大なことを思いつくとはスケールの大きい政治家だ。

やはり琵琶湖運河は無理だったのか

だが、ここ疋田から琵琶湖まで運河を引くとなると、海抜370メートルの深坂越を越えなくてはいけない。
パナマ運河の閘門も、高低差は26メートル。それの10倍以上の高低差を登らせなければいけない。

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水路の上流は山が迫る

平安時代の人夫が山の岩を削ろうとしたところ腹痛に襲われた、その岩の正体であるという深坂地蔵には勝てなかったのである。
それでもこの現在見られる疋田の舟川は、江戸時代の17世紀に北前船の西回り行路が成立して以後の1816年竣工というから、琵琶湖へ通じる運河への情熱はすごかったのである。

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笙の川の鉄橋の橋脚跡。奥が上流で、左が東、右が西

日本海側最古の鉄道北陸線

さてこの水運の限界点である疋田では、北陸線の廃線跡や駅の跡が見られるという。それを確認することにした。
疋田集落のすぐ脇で笙の川と五位川が合流している。
国道8号と161号の交差点があり車がすごい勢いで走ってくる。
8号線にかかる笙の川の橋に並行して旧道の橋があり、そこから上流側を見ると、笙の川を渡る橋脚の跡が見られた。
これが初代北陸線の橋だという。
断面が五角形をしていて、上流方向に鋭角が突き出ており、水流の抵抗を減らし、障害物が引っ掛からないようにする工夫のようだ。
橋の東側には廃線跡とみられる土手が数十メートルあり、国道8号の土盛りの中に消えていた。

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橋を西に渡ると急カーブが

一方、鉄橋を西に渡るとそのまま疋田の集落に突っ込むんじゃないかという角度で架橋されていたが、橋の西詰で右にカーブしながら急こう配の下り坂となる路地があり、それが廃線跡のようだ。
集落のすぐ裏を鉄路は走っており、幹線の鉄路というよりは、まるでローカル私鉄の廃線路のようだ。

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駅看板が復活していた「疋田駅」。ホーム跡という

そして「疋田駅」に到達。
プラットホームの石垣が残り、ストリートビューにはなかった駅看板があった。
単線の片側駅舎で鉄道駅としては素朴なものである。

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新緑に映えるカラフルな公民館。2階に上がってみたい

黎明期の駅ホーム跡残る

敦賀駅や疋田駅は1882年開業という。日本海側の鉄道では最も早いのだそうだ。
同じ年、滋賀県最古の駅、長浜駅が開業。
北陸本線はまず敦賀を起点に、福井や金沢方面ではなく滋賀県の長浜を目指して鉄路が伸びていった。その際、ルートは現在とは異なり、敦賀から「疋田駅」まで進んだあと東に折れ、笙の川沿いをさかのぼっていく。豪雪地帯・柳ケ瀬から余呉川沿いを南下、木ノ本に出るというルートだった。現在みるとたいへんな秘境ルートに思える。

現在の北陸本線のルートは戦後の1957年に開業。その際、規格が小さく勾配がきつかった柳ケ瀬トンネルでは蒸気機関車での窒息死事故が頻発し、この教訓を受け敦賀から疋田へ登るルートでのみループ線が敷設、1963年に供用開始したそうである。





交通の難所敦賀に積み重なる山道や鉄路、水路

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かつての国道161号のトンネルは歩道専用に

敦賀は21世紀の現在もなお、交通の要衝であり、難所なのであった。
最新鋭の新幹線のすぐ近くに、古代のままの趣をたたえた山道や、平清盛以来の山に船を通そうという執念の軌跡である運河、鉄道黎明期の官営鉄道の施設跡が確認できるという稀有な場所。
そして謎に包まれた愛発関の場所。

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線路のスペースに比べてホーム幅が狭い新疋田駅

それは敦賀の周囲を取り囲む分厚い山塊と、幾筋かの谷が南北に走り近江まで短距離でつながっているので日本海側から太平洋側へ抜けるルートとしては他の場所よりもましというかここ以外にないという特異な地形が生み出していたのだった。

北陸新幹線の小浜京都ルートは、船と鉄道で形態は違うものの、平清盛が構想して以来、何次かにわたり試みられてきた北陸から京への「直達」計画の現代版のようにも思われる。
そこに現代の深坂地蔵はまたも立ちはだかるのか、どうなのか。

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深坂トンネルを抜け滋賀への帰還。車窓から

新疋田駅から敦賀に足を延ばし、北陸新幹線の駅や車両を拝んでから帰ろうとも思ったが、疲れたのでそのまま近江塩津まで引き返した。
深坂越の古道の下をぶち抜く深坂トンネルを通過し、7.8キロ先の近江塩津駅にわずか6分で帰着した。

posted by 進 敏朗 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月09日

金生山と湧水池

東海道線の車窓から見えるいい雰囲気の池

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車窓からの風景、垂井ー大垣間

東海道線は普通列車でもスピードが速い。
非電化路でほぼ単線の山陰本線沿線に育った筆者としては、時刻表ファンだった昭和後期の少年時代、キロ数から所要時間割ってみたところ東海道本線の新快速が、山陰線の特急よりも速いことを発見しておののいていた。
新快速でない普通列車でさえも平均時速60キロに迫る速さで走っており、それは当時の山陰線特急と同等のスピードだった。これが15分とか30分毎という頻繁さで運行している。
新快速や普通を乗り回して遠出をすれば、特急券を使わずに普通料金だけで(期間によっては青春18きっぷで)、山陰線の特急に乗っているような感覚で、安く遠出ができる。羨望のような思いを昔から抱いている。
だから東海道線の普通列車(新快速含む)で遠出することは、私にとってはお得感の高い行動なのである。

岐阜県方面へ行く。米原で大垣行きに乗り換える。8時4分発の電車は折り返しではなく車庫から出て来て、駅での待機時間が長かったのでホームに長い間立たなくてすんだ。
終点・大垣のひとつ手前、垂井を過ぎると、JR東海普通電車の曇ったガラス越しに、進行方向左側の田んぼの中に趣ある池が見える。ここに行ってみたいが、岐阜県の東海道線は駅間が長く、大垣、垂井どちらの駅からも3キロくらいは離れているように思われる。
これを今回、公共交通を駆使して訪ねてみようとした。

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大垣駅3番線の案内

もう9年も前、9月上旬に大垣を訪ね、金生山からの濃尾平野の眺めが素晴らしかったので、今回また、秋の始まりのこの時期に、足を運んでみることにしたのだった(2014年9月7日「水都と石灰岩の山(下)」参照)。
前回、大垣から美濃赤坂行に乗り損ねたことによるスケジュールの狂いから断念した、金生山上の古刹、明星輪寺にも行くことにする。運動不足により衰えた足腰を再び強化するきっかけにもしたい。8月までの異常な酷暑は去ったので、熱中症も多分大丈夫であろう。
前回、乗り場が分からず、大垣駅に着きながらみすみす逃がしてしまった美濃赤坂行の電車、今回は事前に大垣駅の構内図を調べておいた。

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美濃赤坂行きの乗り場と電車(右)

大垣駅3番ホームは、4番ホームの西端に切り欠きのようにして存在していた。
二駅だけの区間を走る東海道線の盲腸線(何というのだろう)。 これに乗り込んだ。

終点の宿場町美濃赤坂

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ホーム(手前)から離れて立っている美濃赤坂駅の駅舎

営業キロ5.0キロの道のりを、ワンマン2両編成電車は7分で走り切った。
美濃赤坂。降り立つと貨物線が荒野のように広がり、ホームからいやに離れた平地に立つ駅舎も趣深い雰囲気。

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駅舎ごしに電車を見る

1919(大正8)年開業時の建物という駅舎の、床タイルの反射光が印象的な駅舎越しの眺めも趣深い。

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野原と電車

駅舎を出てから振り返り、集落のすぐ裏に電車が待機している様子を見るのも風情が。
電車がこれくらい身近な乗り物であったら。

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ディーゼル機関車DE10(手前)

最近あまり見なくなったディーゼル機関車が停まっている。旧国鉄で量産されたDE10。
採掘された石灰石を運搬するため近年導入されたことを知る。塗装がピカピカで、周囲の施設の古さから浮き上がって見える。
山陰ではかつてディーゼル機関車は見慣れた存在だったので、この朱色っぽい赤には懐かしさを覚える。
この体色や形、表情が読み取れない顔がベニズワイガニを連想させる。

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踏切

駅周辺の風景を観察する。
貨物線「西濃鉄道」の踏切。「とまれみよ」と懐かしい、遮断機がない単線踏切。
警報機の高さや、頭部のバッテンの形が後ろの棕櫚の木とシンクロして味わい深い。

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建物の門や壁

駅から北上するとすぐ、中山道の宿場であった赤坂の中心部に行き当たる。
建物の規模が大きくて、繫栄していたことがうかがえる。

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赤坂港跡(旧中山道の橋から撮影)

中山道に達して東方面へ歩くと本陣跡があり、さらに3分ほどで「赤坂港跡」に達した。
16世紀前半までは、この杭瀬川が揖斐川の本流だったといい、港は線路が開通するまで使われていたといいう。
東西に中山道が走り、南北に揖斐川(杭瀬川)が流れる交点に立地する宿場では、町の東の入り口にある港で荷物の積み下ろしをし、船で下流に送ることができるのだ。道路交通と船運の要衝だったわけで、ここに赤坂繁栄の秘密があった。
さらに、町の北側にある金生山から出る石灰石が、石灰やコンクリートの原料などにもなり、赤坂のまちには石灰会社の看板や建物も見え、鉱山町のような様相も。二重にも三重にも栄える要因があったのだった。
など鉄道と宿場町の情緒に浸ったあと、金生山を目指す。

金生山・明星輪寺への道

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山の入り口の坂

赤坂宿の旧中山道から、「こくぞうさん(金生山の虚空蔵菩薩に由来する地元でのお寺の呼び名のようだ)」へ行く道は分岐し、最初から坂道となっている。
標高217メートルということだったが、勾配がきつく、最初から息切れでハアハアゼエゼエとなった。
地元の人が何人も下りてくる。健康づくりのために歩いているのだろうが軽やかだ。

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ピンク色のアマナ

道沿いにはピンク色をした大ぶりなアマナかと思ったんだけど、このようなピンク色のは見たことがない。
石灰岩地帯を好むのだろうか。
足を止めて息を整えた。

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金生山化石館前に置いてあった石灰岩

古生代のサンゴ礁だったといわれる金生山は石灰岩でできており、そこには数億年前の海の生物化石が見られる。
明星輪寺へ至る途中にある、金生山化石館前の岩には直径10センチぐらいの渦巻き模様が見える。巻貝の化石断面だろうか。

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急な坂

坂は金生山化石館を過ぎてからが特にきつく、歩き続けるのが困難になった。
足の衰えも相当なものだと実感。8月よりは暑さはかなりましになったが、気温は午前10時で30度近い。汗だくになる。

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明星輪寺の入り口

ようやく寺の入り口が見えてきた時はほっとした。約2キロの登山道を、40分くらいかけてようやく到達。
駅前の自販機で買った500ミリの水はすでに飲みほしていた。

石灰岩の奇岩広がる境内や本堂

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山門

持統天皇の勅願で役小角により686年創建と伝えられる古刹。
この金生山は石灰石だけでなく赤鉄鉱も産出したといい、鉄製武器が壬申の乱の大海人皇子軍勝利につながったとの説も。
山門では岐阜県の文化財である仁王像がお出迎え。
境内には石灰岩の奇岩が連なる壮観という。どんなだろう。

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ミネラル豊富? 手水

神仏習合の名残か、まず水で清める。

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本堂

重厚な入母屋造の瓦が印象的な本堂は幕末の建築。
山門よりも本堂が低い場所に建てられているのは不思議な気がしたが、入ってみると堂の内陣の奥は巨大な奇岩であった。
道内に入り左側から靴を脱いで内陣に入ることができる。
そこは岩のドームならぬ岩の堂(どう)であった。
奇岩をもとに本堂が建てられたことは一目瞭然で、それ故の境内の変則的なレイアウトとなったのだろう。

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堂の奥に奇岩

撮影しても良いか僧侶に尋ねると、「お参りした後なら撮影してもいいですよ」と、許可をいただき撮影。
暗くてうまく写らなかった。

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奇岩

そして本堂の前から石段を登っていくと、「岩巣」と呼ばれる奇岩出現。
石灰岩が長年の浸食を受け、形が複雑になっていったものが広がっている。

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そこにはウシや、

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トラ

トラなどの岩を削った彫刻が出現。
もとの岩の形を利用したとみられ量感あふれる。

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亀岩

巨亀も現る。これは自然の岩そのままの形が、首をもたげた亀のように見える。
そこは見晴らし台であり、亀は濃尾平野を眺めている。

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山頂からの眺め

山上からの濃尾平野の眺めは、もやがかかっていた。前回訪れた際のような透明感はない。遠くのほうはもやがかかる。
まだ秋の空気になりきっていなかった。
川をたどっていくと赤坂港が見える。
急な崖の山であるのと、広い濃尾平野の西端に位置するので雄大な見晴らしが広がる。
日の出を眺めるには絶好の場所でしょう。
奇岩とあいまって、ここが古代国家鎮護の仏教拠点にと注目されたこともなんだか納得できる。

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石灰石鉱山

いっぽう、登山路の西側をみると、石灰鉱山の採掘が進み、すでに半分は削り取られている。
採掘業者にとってはまさに金(カネ)を生む山である金生山。明星輪寺があったため、全山が削られるのを免れ、濃尾平野の雄大な眺めを見られるのは幸いなことだと思う。
山の景観の大幅な改変となったわけだが、一方で採掘によって古生代の化石が発見され、数億年前の生物の形態が知られることにもなった。

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古生代の二枚貝、シカマイア化石(縞模様の部分)

下山中に、金生山化石館に立ち寄り、館員の方から、建物の脇の斜面の岩に見られる縞模様が、古生代の奇妙な二枚貝「シカマイア」が積み重なった化石であることを教えてもらった。スリッパをつぶしたように平べったい楕円形の縦方向にスリットが入り、断面は「く」の字を鏡合わせにした形という、ちょっと現在の生物では見当たらない奇妙な形の殻を持っており、それが層状に積み重なっている。カキのように岩にへばりつく生態だったのだろうか。
化石館のすぐ脇を見やるだけでこのような露頭があるところを見ても、この山には相当な密度で化石が含まれているだろうという印象。

電車に間に合わず

こうして午前11時半ごろ、下山すると、へとへとになっていた。
すでにペットボトル2本を飲み干す。
午前中にもかかわらず腹が減り、美濃赤坂の「松岡屋スーパー」でちらし寿司、バナナを購入(まけてもらって併せて430円)、公園となっている本陣跡で食べる。

さてここから、行きがけの車窓から見た池を目指すわけだが、乗りたかった10時53分発の電車はすで出ちゃっていて、つぎの13時12分発までは1時間以上も待たないといけない。休日は本数が少ないのだった。
気ままな単独行なので電車に乗り遅れることに問題はないが、次の便を待たねばならないのがじれったい。
こうした際には、休息も兼ねて宿場町内にある資料館等を訪れ時間を過ごすというのも一つの手だが、疲労によって、じっくり資料を見ようという気が失せていた。

事前の計画では美濃赤坂から電車で1.7キロ南進(ほんとうに真南に線路は進む)、途中駅の「荒尾」で降りて、西方向へ2キロほどを歩くということを考えていた。この荒尾駅、あと300メートル東にあったら、本線の駅として、駅間が8.1キロもある垂井ー大垣間の中間駅に活用できそうな位置にあるのに、なぜか盲腸線の途中駅としてしか建設されなかった惜しい駅。この駅の位置が、垂井−大垣のほぼ中間地点にある特性をいかそうと作戦を考えていたが、本日、想定を上回る疲れでスケジュールに遅れが生じてしまったので、「荒尾作戦」は断念。
グーグルマップの表示では、赤坂宿本陣前から、南西方向に位置する池まで4.6キロ。
それなりの暑さの中、日差しを遮るものもない田園をこれだけ歩くのは無謀だ。
そこで、少しでも歩く距離を減らそうと、路線バスの時刻表を調べると、消防分署行が正午すぎに来ることが分かった(続く)。

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2023年04月27日

岩尾山

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滋賀三重県境にそびえる岩尾山(三重県側から撮影)

気持ちの良い晴天となったこの日は、たまたま休み。目指したのは、甲賀市の三重県境にある山、岩尾山(471メートル)。
晴れ渡った空に、新緑の景色が広がって心地よい。

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岩尾池

自宅から約50分、10時半ごろ着。杉谷川の谷にふたつ連続する岩尾池、大沢池などを見学。ともに美しい池だ。

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なだらかな県境

県道の、県境付近に駐車。県境を挟んで、両県と伊賀市、甲賀市の看板が立てられている。
甲賀市と伊賀市境のなだらかな県境だが、れっきとした分水界で、あちらがわの小川は奥に向かって流れ、岩尾山から落ちてくる小川はこちら側に流れてくる。

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かつての水田

三重県側に入るとそこにはすぐ人家があり、田んぼの跡とおぼしき平たい場所が広がっている。
田んぼ、もはや営まれておらず、そのため獣害柵がここには張られていない。

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両県の看板。大きさや表示板の設置方法が違う

非常に蛇足ながら、滋賀県と三重県で、看板の設置方法やサイズが違うことに気づいた。
滋賀県のほうは「滋賀県」と「甲賀市」が別々の板となっているが、三重県では一枚の板でできており、「伊賀市」のプレートを、合併前の町名が書かれた看板の上に貼りつける方式となっていた。字のフォントや色は同じ。一律に同じかと思っていた看板だが、県によって形式が微妙に違っているのか。

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岩尾山の案内看板

車で中腹の寺まで登ることはできるのだが、今回は冬期の入院などによる極度の運動不足からの体力回復を目指しており、県道脇に車を停め、まずは中腹の寺、息障寺(そくしょうじ)まで登る。

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出迎え

駐車地点がすでに、海抜290メートルで、息障寺の立つのが370メートル。そこから岩尾山の頂上はあと100メートルという、楽々登山コースだ。
しかし、寺に着くまでの舗装道路で息切れが始まり、先が思いやられた。
出迎えの仏に励まされるかのよう。少し不気味でもある(笑)。

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息障寺

息障寺は最澄の創建とされる古い寺。
平安初期の日本の人口が500万人くらいだったとすると、現在の20分の1ということになるが、そのような希薄な人口状況の中、こんな山奥にまで人が常駐していて何だかすごいと思う。
境内に紅白のシャクナゲ満開。

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寺の池

池の脇に大きなタンクが据えられて、小さな滝水が流れ落ちていた。池にはコイがいない。もともといたけどいなくなったのかどうかはわからないが、とにかく水は絶やすまいとする姿勢のようで印象的。
登山の無事を祈願し、サア境内の左手からのぼりはじめた。

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杉林の中を登る

傾斜は最初から急で、尾根にとりついたらあとは緩やかだった。
何せ久しぶりなものだから、休み休み歩く。

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緑色のセンチコガネ。滋賀県周辺で見られるのだそうだ

動物の糞に、体長1.5センチほどのメタリックグリーンのコガネムシがついていた。大きな糞だが熊だろうか?
これはセンチコガネというらしいが、あとで調べると、滋賀県南部産のやつはこのように鮮やかな緑色になるのでミドリセンチコガネとか呼ばれているそうだ。

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天狗岩

山には、花崗岩が風化して取り残された奇岩が、いろいろと見られた。
こうした急峻な雰囲気が、忍者の修行の場として人気を得たのだろうか?

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岩尾山山頂への道。倒木のゲート

さて岩尾山の山頂へは、奇岩周遊コースから左に折れた奥に行くことになった。
標高450メートルくらいからいったん30メートルほど下がり、そこからのぼっていく。最後はやや急な斜面だったがあっという間だった。

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岩尾山の山頂付近

山頂は平らな地形だったが、残念ながらここからの眺望は得られない。


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展望台からの大沢池(手前)などの眺め

周回路に戻り、ほどなく展望台があり、東側の大沢池や岩尾池の眺望が開けた。
新緑の黄緑と、池の深緑のコントラストが美しかった。

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屏風岩

切り立った屏風岩も。

ここから先は石段で降りることができ、あっという間に息障寺に戻った。

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寺の門付近にある岩

高低差はたった180メートルほどであったのに、両脚ががくがくとしており、運動不足を痛感させられる。
鳥やカエルのさえずり、鳴き声の中、軽度で快適な新緑散策であった。

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〈おまけ〉午後の大沢池(堤から)


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2022年11月26日

秋の低山行(その6)甲賀伊賀分水界めぐり2

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紅葉の油日駅を下車

油日から三重県境を目指す

健康増進を目的とした秋の低山行が6回目となった。
8時55分草津発に乗車。路盤の厚さの関係なのかガタゴトと揺れる旧式車両が「旅」を感じさせ、終点柘植(つげ)のひとつ手前、「油日(あぶらひ)」で9時44分下車。
紅葉と、緑色のJR西カラーが秋色コントラストに。
この日は、同駅から三重県境を越えて伊賀市のほうに出、それから東に向きを変えて柘植駅まで行こうとする。

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杣川

田園の景色は天候によって印象ががらっと変わる。
残念なことにこの日は曇りだったが、風が弱くて歩きやすい。
古琵琶湖層を流れる杣川だが、この日は意外に澄んでいた。キセキレイが真ん中らへんの石の上に止まっているが、望遠レンズがないので拡大できない。

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甲賀忍者の狼煙

甲賀忍者の里に、狼煙が上がる。
向こうの丘のふもとにも狼煙が上がり、連絡を取り合っているようだ。

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木の又テーブル

というのは妄想で、おじいさんが庭から焚火を眺めている。
その横のテーブルが、木を伐採した切り口に板を渡して作られていてナイスだ。
ああしたものを自分も作りたい。
田舎では、家や敷地内で造作ができて、その発想や工夫を見るのを楽しみにしている。

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なだらかな道

コースから横に入り、地元の人の手による「殿山」展望台に上って下りる。
国土地理院地図にある丘の上の道を歩きたかったが、そこは大手製薬会社研究農場の敷地で立入禁止。
製薬とゴルフ場を迂回するようにS字のようなコース取りになる。

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サザンカ花咲く

甲賀町五反田から、田園を東北に進み、池に浮かぶスワンボートに再会。
もう一方の池ではカイツブリが遊ぶ。
高嶺に至り、切り通しの道に見事な紅葉が見られた。

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池にカイツブリ遊ぶ

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切通しの見事な紅葉

古琵琶湖地帯の分水界再訪

さあここで、県道から西の谷をあがり、山の尾根を横切るショートカットを試みたが、何年も手入れが入っていないたいな感じで笹が生い茂り、危ない道はやめとこうと断念。
やむなく県道を通り、緩い坂のカーブをのぼって県境越えとなる。

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三重県境が見えてきた

したところ県境の看板が見えてきた。
海抜約240メートル。ぜんぜん息も切れない。
道路は三重県に入ったあと、三重と滋賀の県境に沿った形で西向きに進む。

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三重県側に坂が落ちこむ

上の写真で、道路の右側に連なる杉林が県境のラインだが、三重県側のほうがだいぶ急傾斜で落ち込んでいるのがわかる。


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分水界のようだ

したところ、道路を右に折れて滋賀県側に入る道があり、入ってみるとすぐに低い峠となっていた。
ここが滋賀と三重県境とみられる。分水界だ。
再び滋賀県側に入った。

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源流部近くに広がる田

滋賀県側はなだらかな田んぼ。上馬杉柏ノ木で6年前に訪れて以来だ(2016年4月18日記事「甲賀伊賀の分水界」)。

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下流方向への眺め

なだらかな地形は古琵琶湖の名残といわれる。300万年前〜250万年前にあった古琵琶湖の阿山湖・甲賀湖が、現在の三重滋賀県境をまたいだこの辺にあったとされる。鈴鹿山脈が隆起をはじめたのは200万年前より新しく、甲賀湖・阿山湖はそのころには陸地化していて、粘土が分厚く堆積した盆地になっていた思われる。
その後、鈴鹿山脈が隆起したとき、山脈の西端にあるこの粘土盆地も地殻変動の影響を受けたのだろうが、鈴鹿山脈は標高1000メートル以上もあるのに対し、この地では高いところでも300メートルなく、隆起はあんまりしてない。だが、三重県側が急傾斜となっているのは鈴鹿山脈の三重県側と同様で、同じ地殻変動の影響をそれなりに受けているようだった。
まあしかし、気軽に分水界がまたげる地形ではあり、地形ファンの私としては楽しい場所。

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平らな分水界の県境。道路から右が滋賀県、左が三重県。

これなら峠越えという感覚もなく、甲賀と伊賀を行き来することができるだろう。

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ふわふわ土塁

土地全般が粘土でできているのか、家を囲うのも土塁のようだった。
伊賀市東湯舟東出の集落の道を進むと石段の上に神社があった。

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石段の上からの眺め

登ってみると眺望が開けてテーブル状の山が見えた。
霊山(765メートル)のようだった。
しばらく雄大な眺めと紅葉を楽しんだ。

伊賀へと降りるが

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森の道

サアここから、森の道に入って伊賀盆地へと降りて行こうとした。

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平地を目の前にしての立往生

ところが谷に降りる手前で、地図に実線で描かれているはずの道が途切れ、強引に突破しようとしたところ笹や藤の蔓に囲まれ、どうしても高台から降りれず立往生となってしまった。
平地まで高低差が10メートルくらいありそうで、下手すると滑落なんてことにも。
強引に藪の中を進んでしまったので、ここまで来た時間と労力を考えると戻るのもためらわれ、こうやって人は山で迷ったり滑落してしまうのかと。
最終的に前進をあきらめ、やむなく引き返したら、一筋道を間違えていたことに気づいた。危ない危ない。

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車たちが止まる一角

そうして谷に降り、進んでいくと車が数台停まっているのが見えてきた。
森で開業しているピザ店で繁盛していた。

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森のピザ

12時半ごろには到着する予定だったが、道にまよったため、予定より1時間も遅くて1時半ごろとなった。油日駅を出発すること4時間近くも。
ピザを注文するとすぐに出てきた。
地ビールもあって、それも飲んだがおいしかった。
車じゃなくて徒歩で来たので、こうしてビールも飲めるのだった。

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日が差す

午後になって雲間から日が差すようになってきた。
杉の木立から田園の道に日が差し込む。
これだけのことでまるで祝福を受けているような気分になる。

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油日岳

「伊賀コリドールルート」に出て、東湯舟から小杉へと東進、柘植駅を目指すと前方に油日岳。
歩いた距離が15キロを過ぎてそろそろ足も疲れの兆しが。

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伊賀のレインボーブリッジ

関西本線の踏切を渡り、倉部の集落を南下。
柘植の町に入る手前の倉部川の端は虹色に彩られていた。レインボーブリッジ。

街道の町柘植の駅は町はずれだった

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伊賀成田山不動の紅葉と眺め

柘植に入ったところで石段があって登ると眺望が得られ、紅葉もきれいだった。

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霊山と柘植の町

先ほど見た霊山もだいぶ近づいた。
山のふもとを横切る名阪道路の車両の音が聞こえてくる。
電気自動車の時代になったら、こうした通過車両の音も多少はましになるのだろうか。でも、エンジン音はなくなっても、道路の摩擦音や風切り音は変わらないか。

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大和街道と柘植の町


柘植は大和街道に沿った規模の大きな町だった。
細々と電気屋とか、食料品店などが営業していた。
駅は町はずれの高台に設けられていることがわかった。

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旗山

力を振り絞って、という感じで柘植駅までの緩い坂道を進んだ。
柘植駅につながる伊賀信楽線は狭くて車通りが多いので、裏手の道に回ると油日山から続く山並が眼前に迫って来る。

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柘植駅が見えてきた

やっと見えた柘植駅は、町の東外れの高台にあった。
関西本線と草津線をつなぐ柘植駅。
高台に駅があるのは、ここから分水界を越えて滋賀県を目指すためとみられる。
であるが、先ほど見たような、特有のなだらかな地形であるため、分水界を通過するところでもトンネルはない。ホームには、「海抜240メートル」と標識があった。本日、通過した滋賀三重県境とほぼ同じ高さであった。

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柘植駅の駅舎

駅にあった案内によると、柘植駅は三重県で最初にできた駅とあった。知らなかった。
1890年に関西鉄道が現在の草津線を敷設。それが三重県で初めての鉄道なのだった。
草津線はローカル線であるが柘植発の電車は1時間に1本か2本あって、それほど不便さはなく使える。
こうして鉄道という社会インフラを利用して、楽に比較的安価に旅ができるのはありがたいことだ。
ローカル線が将来もなるべく滅びないように、使える時に使っておきたい。

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車窓からの夕暮れ(柘植ー油日間)

この日は20.5キロを歩き、高低差は105メートルだった。途中、山の中で立ち往生して大変だったが、長い距離を歩いて足が慣れてきたような感じもあった。この次は、あの山を目指してみたいが、もう冬になるし、寒いのは苦手なのでどうしようかなと思ってしまう。





posted by 進 敏朗 at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする