
京都文化博物館で始まった「日本のふるさと大丹後展」を見た。
丹後地方の古代から近代までを出土物や伝説、伝統産業などから振り返る展覧会だった。
このブログは基本、水辺のことをテーマにしているので、丹後地方のどこが水辺なのかというと、ポスターの写真が久美浜湾の砂州、小天橋だった。
展示によると丹後国は、奈良時代の初めの713年、丹波国の海に面している5郡が分割されて生まれたという。京都府では唯一、海がある地域。「丹後王国」とも称される古代の盛り上がりは、やはり古代出雲とおなじように、朝鮮半島との海路での交易が大きかったんじゃないか。
平安時代にも、渤海国の使者が、丹後のあたりに流れ着いている。そのほか、鬱陵島民の一団が流れ着いて、言葉が分からないから読み書きのできるリーダーと漢字で筆談したりと、けっこう漂着事案も多いことを知った。
伯耆でも、朝鮮半島から船で赤碕沖に流されてきた一団を、八橋の町の家に避難させたら朝鮮の人が畳というものを見たことがなくはがしたりしたなどという話もあって、日本海西部の土地柄に似たものを感じさせる。
丹後は山陰地方とも古くから交流があった。弥生時代の卵型をした土笛の出土が、丹後と山陰で出てきている説明が図録に載っていて、思わず図録を買ってしまった。展覧会では丹後のイントネーションが名古屋のほうに似ていると紹介されていたが、山陰のほうにもじゃっかん似ていると思う。
さて「大丹後展」の内容は、昨年倉吉市の博物館で見た「大伯耆国展」よりもだいぶ充実していた。
それは、古代の銅鐸とか銅鏡とかガラス玉等の出土物の展示が、伯耆展のそれよりもだいぶ豪華だったということもさることながら、有名な浦島伝説をはじめ、聖徳太子の異母弟、麿呂子親王が鬼退治をしたという伝承など、地域をいろどる伝説の豊富さも目を引いたのだった。
浦島伝説は、亀が出てくるから、太平洋側の話だろうと長い間、思っていたけどそうではなかった。
丹後国風土記では、男の名は浦嶋子といい、船で釣りに出て、魚は釣れずに、亀が釣れて、それが女の姿になり、その女を妻にして一緒に海に行くという話のようだった。なぜ女が現れたのかというと、嶋子が美しかったからという、わかりやすくて、身もふたもない理由で、恩返しの要素なし。仏教的な因果がめぐる世界観の以前にあった、おおらかな時代がしのばれる。
今では、ウミガメは日本海側ではほとんど目撃されないと思うが、古代には、日本海側にもけっこういたのかもしれない。
別の展示では、奈良時代の木簡に、イワシ、コノシロ、イカ2斤、ワカメなどと記されていた。そのころは、イカをどのようにして捕っていたのだろうかと興味をひかれるがそれについての説明はない。いまでも夜間に漁をしているところからすると、イカを捕るのは魚を釣るより技術のハードルが高いような気がする。
丹後半島先端の伊根湾には、クジラが時々迷い込んできたというから、もしかすると、イカの群れが上がって来るイカ寄せの浜があって、押し寄せたイカを拾って取れたのかもしれない、などと勝手に想像するのも楽しい。
丹後地方では絹織物の丹後ちりめんが地場産業だが、弥生時代のやりがんなに、絹糸が巻かれていたのには驚いた。
また、今では日本でも宮津にしか残っていないという、藤の織物が展示されていた。
藤の蔓から皮をはいで、それを灰で炊いてから細く割いて、撚り合わせて糸にするという、気の遠くなるような工程を経て、ようやく織りができる状態になる。その工程がパネル展示で紹介されていた。図録には載っていない。藤の蔓は、木の中では柔らかいといっても、樹皮は樹皮だし、だいぶごわごわした着心地ではないだろうかと思ってしまう。しかし展示されていた着物は趣があった。
展覧会の構成は交流、伝説、霊地などの視点から立体的に地域を浮かび上がらせようとしていた。が、展示方法はもうちょっと工夫がほしかった。というのは「丹後」という地域をテーマにしている以上、自治体がベタ塗りしてある平板な地図じゃなくて、地形図で、遺跡の位置関係などを示してして示してもらえれば、筆者のような土地勘がない人間への理解につながったと思う。少なくとも「丹後」を可視化する大きな地図は必要だっただろう。ともあれ、丹後地方の古層、土地が秘めているものをいろいろな角度から見ることができる興味深い展覧会だった。もし時間があったら何泊かの旅をしてみたいなあと思ったほどだった。
いまではどちらかというとひっそりしていると語られる向きの多い丹後地方だが、古代では、墓の規模や副葬品の豪華さから見るとそうでもなくて、近世でも、北前船でけっこうにぎわい、近代に入っても、丹後ちりめんでだいぶ羽振りの良い時代があったようだった。そして現代では、日本海側への豪華客船来航という新たな局面も訪れようとしている。
ところで昔、加悦谷のほうにある親類を、鳥取県から家族で訪ねたことがあった。夕方、格子戸をくぐると、がっちゃんがっちゃんと、やたらうるさい音がした。子供だったからわからなかったが、家内制の丹ちりの機織りのようだった。
車窓から、街道沿いのうしろの田んぼに、小さな気動車が走っていたのを見たような気がする。後年、調べると、それは1985年に廃止された加悦谷鉄道のようだった。当時の筆者の学年を数えてみると、訪問したのは1979年3月のことのようで、訪問時には確かに加悦谷鉄道は営業していた。地区には倭文(しどり)神社という神社があり、織物に縁が深い神社ということである。そして倭文神社は鳥取県の東郷池畔にもあって、藤津という地名もあり、そこに丹後と伯耆の縁を感じてしまうのだった。