2015年12月11日

大丹後展

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京都文化博物館で始まった「日本のふるさと大丹後展」を見た。

丹後地方の古代から近代までを出土物や伝説、伝統産業などから振り返る展覧会だった。

このブログは基本、水辺のことをテーマにしているので、丹後地方のどこが水辺なのかというと、ポスターの写真が久美浜湾の砂州、小天橋だった。

展示によると丹後国は、奈良時代の初めの713年、丹波国の海に面している5郡が分割されて生まれたという。京都府では唯一、海がある地域。「丹後王国」とも称される古代の盛り上がりは、やはり古代出雲とおなじように、朝鮮半島との海路での交易が大きかったんじゃないか。

平安時代にも、渤海国の使者が、丹後のあたりに流れ着いている。そのほか、鬱陵島民の一団が流れ着いて、言葉が分からないから読み書きのできるリーダーと漢字で筆談したりと、けっこう漂着事案も多いことを知った。

伯耆でも、朝鮮半島から船で赤碕沖に流されてきた一団を、八橋の町の家に避難させたら朝鮮の人が畳というものを見たことがなくはがしたりしたなどという話もあって、日本海西部の土地柄に似たものを感じさせる。

丹後は山陰地方とも古くから交流があった。弥生時代の卵型をした土笛の出土が、丹後と山陰で出てきている説明が図録に載っていて、思わず図録を買ってしまった。展覧会では丹後のイントネーションが名古屋のほうに似ていると紹介されていたが、山陰のほうにもじゃっかん似ていると思う。


さて「大丹後展」の内容は、昨年倉吉市の博物館で見た「大伯耆国展」よりもだいぶ充実していた。

それは、古代の銅鐸とか銅鏡とかガラス玉等の出土物の展示が、伯耆展のそれよりもだいぶ豪華だったということもさることながら、有名な浦島伝説をはじめ、聖徳太子の異母弟、麿呂子親王が鬼退治をしたという伝承など、地域をいろどる伝説の豊富さも目を引いたのだった。

浦島伝説は、亀が出てくるから、太平洋側の話だろうと長い間、思っていたけどそうではなかった。
丹後国風土記では、男の名は浦嶋子といい、船で釣りに出て、魚は釣れずに、亀が釣れて、それが女の姿になり、その女を妻にして一緒に海に行くという話のようだった。なぜ女が現れたのかというと、嶋子が美しかったからという、わかりやすくて、身もふたもない理由で、恩返しの要素なし。仏教的な因果がめぐる世界観の以前にあった、おおらかな時代がしのばれる。

今では、ウミガメは日本海側ではほとんど目撃されないと思うが、古代には、日本海側にもけっこういたのかもしれない。

別の展示では、奈良時代の木簡に、イワシ、コノシロ、イカ2斤、ワカメなどと記されていた。そのころは、イカをどのようにして捕っていたのだろうかと興味をひかれるがそれについての説明はない。いまでも夜間に漁をしているところからすると、イカを捕るのは魚を釣るより技術のハードルが高いような気がする。

丹後半島先端の伊根湾には、クジラが時々迷い込んできたというから、もしかすると、イカの群れが上がって来るイカ寄せの浜があって、押し寄せたイカを拾って取れたのかもしれない、などと勝手に想像するのも楽しい。


丹後地方では絹織物の丹後ちりめんが地場産業だが、弥生時代のやりがんなに、絹糸が巻かれていたのには驚いた。

また、今では日本でも宮津にしか残っていないという、藤の織物が展示されていた。
藤の蔓から皮をはいで、それを灰で炊いてから細く割いて、撚り合わせて糸にするという、気の遠くなるような工程を経て、ようやく織りができる状態になる。その工程がパネル展示で紹介されていた。図録には載っていない。藤の蔓は、木の中では柔らかいといっても、樹皮は樹皮だし、だいぶごわごわした着心地ではないだろうかと思ってしまう。しかし展示されていた着物は趣があった。


展覧会の構成は交流、伝説、霊地などの視点から立体的に地域を浮かび上がらせようとしていた。が、展示方法はもうちょっと工夫がほしかった。というのは「丹後」という地域をテーマにしている以上、自治体がベタ塗りしてある平板な地図じゃなくて、地形図で、遺跡の位置関係などを示してして示してもらえれば、筆者のような土地勘がない人間への理解につながったと思う。少なくとも「丹後」を可視化する大きな地図は必要だっただろう。ともあれ、丹後地方の古層、土地が秘めているものをいろいろな角度から見ることができる興味深い展覧会だった。もし時間があったら何泊かの旅をしてみたいなあと思ったほどだった。


いまではどちらかというとひっそりしていると語られる向きの多い丹後地方だが、古代では、墓の規模や副葬品の豪華さから見るとそうでもなくて、近世でも、北前船でけっこうにぎわい、近代に入っても、丹後ちりめんでだいぶ羽振りの良い時代があったようだった。そして現代では、日本海側への豪華客船来航という新たな局面も訪れようとしている。


ところで昔、加悦谷のほうにある親類を、鳥取県から家族で訪ねたことがあった。夕方、格子戸をくぐると、がっちゃんがっちゃんと、やたらうるさい音がした。子供だったからわからなかったが、家内制の丹ちりの機織りのようだった。

車窓から、街道沿いのうしろの田んぼに、小さな気動車が走っていたのを見たような気がする。後年、調べると、それは1985年に廃止された加悦谷鉄道のようだった。当時の筆者の学年を数えてみると、訪問したのは1979年3月のことのようで、訪問時には確かに加悦谷鉄道は営業していた。地区には倭文(しどり)神社という神社があり、織物に縁が深い神社ということである。そして倭文神社は鳥取県の東郷池畔にもあって、藤津という地名もあり、そこに丹後と伯耆の縁を感じてしまうのだった。








 








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2015年11月19日

野洲川の葛.jpg
葛が生い茂る野洲川河川敷(午後1時半ごろ)

葛(くず)は、夏の河川敷で猛烈な勢いで生えてジャングルのようになり、コアユを捕りに川を訪れた際、すぐ数メートル先の堤防に道路が見えているのに、こいつが生えているせいで河原から上がれなかったり、逆に河川敷から河原に下りれなかったりと、通行の妨げとなる難儀な草だ。

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蔓を引いてみる

この草が、籠を編む素材になる。そんなことを、先日訪れた「下之郷環濠まつり」で聞いた。

ただのやっかいな草だと思っていたものが、急に素材として魅力的に映る。

もう晩秋だから、もうしおれて使い物にならないだろう、そう思っていたが、ネットで調べてみると、いまごろが刈り時と知り、本日、野洲川の河原を訪れた。

不思議なもので、手に入れたいと思って訪れると、河原に着く前に、もしかして、河川管理者によって刈り取られてるんじゃないかと心配な気分になる。川に着いてみるとそんなことはなく、広い河原一面に葛が広がっていた。我欲むきだしとなって少し恥ずかしい。

庭で草取りをする際に抜いた草を集める籠を作りたく、籠作りに取り組もうとした。
河原に着くとすぐ、そこらへんにはびこっている葛の蔓を、手当たり次第に抜いていくのだが、蔓どうしが絡まり合っていたり、セイタカアワダチソウに絡みついていたり、混乱のきわみ、無秩序そのもので、なかなか長いロープ状に抜き出すことが骨が折れる。
1時間くらいかけて収穫した。

この日集めた蔓.jpg
この日採った葛の蔓

家に持ち帰り、さっそく、葛の蔓から籠を編む方法を紹介したネットのページを参考に作り出す。
収穫した蔓は、枝を落とせば、下準備は不要でいきなり制作に取り掛かれる。

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底の部分

蔓の仮り止めは、ビニールテープを使う。見てくれはこの際、どうでもいいから、実用に耐えるものを作りたかった。ほとんど即興だが、まあこういうものは、いちど作ってみることでコツがわかる。失敗しても、どうしようもなかったらごみとして捨てればいい。素材は無尽蔵にあるから別に惜しくはない。

かご制作の様子.jpg
かご編みの様子

底の部分を作ってから、ぐるぐると蔓を巻いていく。柱となる蔓の間を、上に下にと通すだけで、これは単純作業だ。葛は、根っこを葛粉にしたり、葛根湯にしたりするが、蔓からは甘くてさわやかな香りがするので、良い気分になる。

しかし、大きくて平たい籠を作りたかったのに、すぐに柱が内側に曲がりだして、このままでは直径が30センチに満たない籠になってしまいそうだ。

本日終了時.jpg
日没により本日作業終了(午後5時15分ごろ)

なんですぐに湾曲してしまうのか。気づいたことは、これは柱になる葛の蔓が弱いからで、ほんとうは、なるべく太くて強いものを使ったほうがよく、横に巻いていく蔓は、細いほうがいいということだった。

そしてやっぱり、なるべく節が少なくてまっすぐに伸びた蔓がよくて、らせん状に巻いていたりとか、節が多いやつは使いにくい。つまり、よりいい具合に作ろうと思ったら、葛のなかでも良材を求めることが大切なのだった。

名人は、こういった不規則な素材を使いながらも、均質な完成品を作る技を持っているのだろう。
日が短くなり、5時を回ると急に暗くなって、作業を終了。2時間くらいで完成するんじゃないかと思ったが、そんなことはなかった。この日の作業時間は1時間半くらいだったが、でもけっこう作業は進んだ気がする。

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試作品完成(11月20日撮影)

〈追記11月20日〉
次の日の午前中、残りの工程をすませていちおう完成。
直径だいたい40センチ、深さ25センチくらい。
途中から蔓の巻き方がいいかげんになっているのが一目瞭然だ。
その主原因は柱にあり、柱の蔓が弱かったところが折れてしまったので、へこんだ形になってしまった。だから柱は何としても強度がなくてはならない。

また、作ってみたところ、けっこう重量があった。軽くするには、細めの蔓がベターだ。
やはり素材集めが大切で、細くて長く、節が少なくてしなやかな良材を求める必要があるのだった。







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2015年11月15日

環濠の憩

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環濠(複製)。右手奥では、濠ごしに弓矢を射ている

土手と堀がゆるやかなカーブを描いているのは、弥生時代の環濠。守山市下之郷で「環濠まつり」が開かれていた。

滋賀県南部、野洲川デルタのただなかにあるこの下之郷遺跡の環濠は、弥生時代の村を取り囲んでいて、市の資料によると東西330メートル、南北260メートルで3重の堀がめぐらされていた。

全国でも屈指の規模というのもさることながら、衣食住をはじめ、戦闘、祭りにわたった弥生人の生活世界を伝える物品が出土し、「弥生のタイムカプセル」として、同遺跡は国の史跡に指定されている。

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「環濠まつり」会場の入り口

この弥生文化いかして地域づくりをしようと、年1回まつりが開かれ、そこでは、弥生人にちなんだ赤米の栗ご飯やシシ鍋などの食べ物のほか、弓矢コーナーなどの体験も催されていた。

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にぎわう釣りコーナー

いちばん内側の環濠では、釣りコーナーがあって、親子連れでにぎわっていた。

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フナが釣れた

見ていると、フナが次々と掛かっている。係のおじさんに聞くとこのフナは、赤米栽培の田んぼで放流したもので、このイベント用に釣り堀を開いているとのことだった。子供時代を思い出す光景。

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ヨシ葺き屋根

さて今日は、籠編み体験に参加しようと思って、来たのだった。作られていたのは、本格的な蔓を使った籠ではなくて、ブレスレットだった。それでも、参考になった。夏に、川の堤防にはびこっている葛の蔓が、籠の材料になるという。それを知り、あれだったら無料で、好きなだけ手に入るので、工作をするのに好都合ではないかと思えた。

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弥生時代の編み機

さて籠づくりのかわりに、弥生時代の編み機を使ったよしずづくりに挑戦した。
この下之郷遺跡からは、編み機につかった石らしきものが出土しているほか、麻の種も見つかっているので、麻を使って服を作っていたのではないかとみられている。ただ、機織りが伝わったのはもっと後の時代なので、このころは、このような原始的な編み機が使われていたとみられている。

ちなみに麻というのは、大麻と苧麻で、大麻草を使った布は戦前までは一帯でつくられていたそうだ。古いおばあさんから「お湯でわかしていると、みんな変な気分になっていた」と聞いたことがあった。弥生時代からのものが、けっこう最近まで伝わっていたのだった。

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1本1本ヨシを編んでいく

木の台の上に、ヨシを横に置いて、たこ糸を3本、手前と向こうから交互に交差させていくと、よしずが作られていく。長さ約20センチ、幅約20センチのものを作るのに、約10分かかった。これを、仮に湖岸からヨシを刈ってきて、長さ2メートル、幅2メートルのよしずを作ろうと思ったら、どれくらいの労力がかかるだろうか。面積からみて100倍の労力がかかるから、1000分、16時間くらい、ということは2日間かかりっきりになったらできるということになるだろうか。編み機を作る資材や、タコ糸代にお金がかかるし、それだったらホームセンターでよしずを買った方がましということになってしまう。

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会場で展示されていた麻の繊維と、織られた布

弥生時代は、縄文時代に比べて、大陸から到来した「コメ作り」によって、より安定した暮らしができるようになったが、身の回りのもので衣食住をまかなうという点では、縄文時代とそう変わらなかったのではないかと思える。現代とくらべると、ものすごく生産性が低い。しかし、身の回りにある植物を利用して、衣食住を自前のもので何とかする知恵は、新鮮に映るのだった。

弥生時代の歴史は、文献が残っておらず、ここ近江では、山陰地方での出雲神話のように、神話や伝承という形でも伝わっていないので、いったん忘れ去られてしまった。遺跡が1990年代になって発掘され、弥生時代の生活文化が2000年ぶりによみがえったが、そこから垣間見えたものづくりの文化は、案外最近まで続いてきたようにも思われる。

とくに葛の籠づくりは、ゼロ円でできるかもしれないので、来年の夏になったら堤防に行って刈ってみたい。


posted by 進 敏朗 at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月07日

若狭和田海水浴場

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海水浴場に到着(午後3時ごろ)

休日、子供を連れ海水浴に行く。
事情ありて出発が午後1時になり、南草津に立ち寄らねばならず、最速でいくために、7月18日に全通した京都縦貫自動車道を通り、福井県高浜町の若狭和田海水浴場に着いたら午後3時だった。南草津から、1時間40分ほどで着いたのには驚いたが、京都縦貫道は途中で料金ゲートをくぐるためか料金は割高だった。


午後の海水浴場はにぎわっていた。京都縦貫道の開通で、京都府内の海べりがにぎわい若狭地方の海は人が減ったのではないかと思ったがそんな風にも見えない。しかし、例年がどんな感じなのかは知らない。若者の歓声が飛び交う。筆者は穴場的な海水浴場のほうが好きだが、子供は人が多い場所がいいと言う。浜が広い若狭和田海水浴場は京阪神方面からの人でにぎわう場所なのだった。

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ヤドカリ

琵琶湖のほうが近いんだけど、海には湖にはないものがいろいろとあった。
子供が「ヤドカリがいる」というので、砂底をみると貝殻が動いている。それからいろいろと生き物探しをした。生き物は、岩場でないと少ないかと思っていたが、案外水深1メートルくらいの砂底でも、いろいろの生物を見ることができた。

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砂底のコウイカ(水中撮影)

「大きいヤドカリがいる」というので、見てみると、楕円形のものが砂底をはうように動いており、近づくと俊敏な動きをみせる。5センチくらいのコウイカだった。さすがに手でつかむことは難しい。子供のほうが視力がよくていろいろなものを先に見つける。



キス釣りの外道で時々釣れるヒラメの幼魚もいる。

コンクリ堤防の内側では、砂の保護色をしたキンセンガニ。手のひらを挟まれるままにしておいたら、けっこう力が強くて、ちょっと皮膚に穴が開いてしまった。痛かった。

波打ち際の貝と砂.jpg
貝殻が打ち上げられた波打ち際



などと遊んでいるうちに、いつの間にか5時を知らせるメロディーが鳴り、にぎやかだった浜は人が去ってカモメが降り立つようになってきた。子供がけっこう遊びに熱中してなかなか上がろうとしない。でも夕方近くに泳ぐのも、あんまり日焼けしないし、風は穏やかだし、コインシャワーは混まないしで、いいこともいろいろある。

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人が少なくなった海水浴場を独占(午後5時すぎ)

午後5時半くらいまで遊び、車に乗って帰る。帰りは若狭舞鶴道で小浜インターまで行き、そこから鯖街道、琵琶湖大橋を経由してちょうど2時間くらいで帰宅した。

むかし浜辺の祖母宅で、海水浴場からそのままの格好で裏口に上がって風呂、すぐにご飯やスイカ、という夏休みの夕暮れを思い出す。


posted by 進 敏朗 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月21日

コアユ謎の減少

滋賀県の「アユ資源予測調査」の4月の速報が発表された。http://www.pref.shiga.lg.jp/g/suisan-s/files/gyotan1504.pdf

この調査は一義的には漁業関係者のためのものだと思うが、筆者のような素人遊漁者にも参考になる情報でありがたい。

それによると、コアユの群れが、平年の16パーセントに減少していた。
発表資料によると「湖中アユ魚群分布調査」4月は15、17日に実施。琵琶湖の北湖を25の区間に分け、水深30メートルの線に沿って調査船が航行し、魚探で群れの様子を見ると説明されている。群れの大きさは大群、中群、小群の3階級に分類され、大群は小群の9倍、中群は4倍に換算される。

結果は、小群換算で「39」で、平年値は「245」。詳しく見ると、群れのほとんどは奥琵琶湖のほうにあり、南のほうには、ほとんど「0」。いっぽう、昨年、一昨年には確認されなかった「大群」が、奥琵琶湖で一つだけ認められた。

今シーズンのコアユは調査をたどれば、昨年秋口の産卵から平年の7割くらいの量があり、1月までは平年の69%と順調だったが、2月になると29%へと急減。そして3月は運航の都合のため欠測となり、4月の調査結果発表を筆者は心待ちにしていたが、その結果は、さらに残念なものであった。

どうなったんだ琵琶湖のコアユ。

2013年、コアユが平年の7パーセント(同調査の4月比)に激減して以来、昨年は14%に回復。そして同年の産卵期は大雨の影響で川の水量に恵まれ大幅回復が期待されていた。

それだけにこの、減少は衝撃だ。漁業関係者の方は3年連続の不漁となりそうで大変だろう。何か異変があったのだろうか。

調査は群れの大きさの比較なので、絶対量ではないと断り書きがある。調査25区間のうち、ほとんどは群れが「0」だったがそれはもちろん、1匹もいないことを意味しているわけではなく、群れ「0」でも、群れとは認められない程度にはいるだろう。まあ魚影がかなり薄い状態なのだろう。毎年同じ方法で調査がされているので、今年のコアユが相当少ないことは間違いなさそうだ。とうぜん川に遡上してくる量も少なくなるだろう。

自然界のことなので仕方ないが、冬場に急減してしまう現象が不可解だ。別の魚や鳥に大量捕食されてしまうのか、エサ不足で死ぬのか、何かの病気なのか? あるいは琵琶湖内の別の場所に潜んでいるなんてことはないのか?県内研究機関で、この謎の減少(現象)について調査、解明してもらえないだろうか。


posted by 進 敏朗 at 12:46| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする