2017年11月12日

百済寺の庭園

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百済寺の庭園


湖東三山のひとつ百済寺(ひゃくさいじ)で紅葉を見物した。

混雑を避けようと、車で約50分。八日市インターを出ると、ほとんど一本道のような感じで朝9時過ぎに着いた。


寺の手前にふなずし製造所があり庭に重石を乗せた桶が並んでいた。なぜ琵琶湖から離れた谷間でふなずし製造を、と不思議に思ったが何か理由があるに違いない。


やや曇りがちの天気。

まだ時期は早くて青い葉が8割くらいだったが、庭園のまわりは色づいていた。松の緑とのコントラストが鮮やかだった。


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池のほとりの水草


百済寺は聖徳太子の創建とされ。平安時代から中世にかけて興隆。室町時代には塔頭三百余坊、湖東の小叡山と称された。しかし、火災や戦乱、そして信長の焼き討ちにあいほとんどが灰燼に帰し、石垣は安土城に流用されたのだという。


江戸時代に入り復興した。本尊の十一面観音(秘仏)など奈良時代の古仏がわずかに数体伝えられているという。


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庭園上部からの眺め


庭園は奥に進むと、裏山を上がることができ、太郎坊宮がある台形をした箕作山(みつくりやま)や、向こうに比叡山が見える。


さらに石段を登ると本堂(重文)に到達する。観光客がゴーンゴーンとひっきりなしに鐘を突いている。いい音だが少々ペースダウンしてほしい。


本来の本堂はさらに山の上にあったことが案内図に描かれており、そこに至ると思われる石段もあった。

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ふだん山のほうには行かないが、こうして紅葉の時期に訪れてみるものも風情があった。


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2017年07月21日

消えたアユ資源情報

滋賀県のホームページ内の「アユ資源情報」が久しぶりに更新されていた。
昨年8月以降、ずっと止まっており、更新は今シーズン初めてだ。

更新日は7月20日で、7月上旬に行われた調査結果のほか、今シーズンの1月からの数表も掲載されていた。

それによると1〜5月ごろまでは平年の数パーセントいう数字が続き、2度にわたり臨時の検査も行われていた。5月以降はやや回復していたようだが、高い月で平年の20パーセントくらい、7月の数字も平年の10パーセント台後半で、回復ぶりもそれほどではなかった。

ところが、この記事を書こうとして改めてページを開くと、なぜか記事が削除されている。あたかも、初めから何もなかったように。だが「アユ資源情報 7月20日」と、更新日が残されている。県水産試験場がいったんアップしたが、何らかの理由で消した。公表すべきという動きと、知らせてはならぬという意見との間で葛藤を抱えているのだろうか。

県は、測定の方法はあくまで相対的なものですと但し書きをしているので、別にこの調査の数字が、正確に琵琶湖の鮎の量を厳密に反映しているわけではないことは一目瞭然だ。悪い数字が世間に出ると数字が独り歩きして不安を与えるとか、忖度したのだろうか? 理由はわからないが、一県民として合点がいかない。情報公開は世の流れ、と、つい堅いことも言いたくなる。


追記

と思っていたところ、今晩自宅のパソコンから見ると、アユ資源情報が掲載されていた。
閲覧できますよとの指摘もいただいた。
筆者のパソコンが古いバージョンのページを開いていた可能性もある。その辺は、県に問い合わせをしていないため何ともわからない。しかし21日の晩は、県のホームページのトップから入り、「しごと・産業」をクリックする経路をたどっても、「アユ資源情報」にたどり着けなかったのだった…。もし確認なしで単に妄想をして事実と違うことを書いただけだったということなら、担当の方に迷惑をかけてしまったことになり申し訳ないが、なぜアクセスできなかったのかはよくわからない。(7月23日未明)



posted by 進 敏朗 at 21:55| Comment(2) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月14日

防水コンデジ新調

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このたび防水コンデジを新調した。
これまで使っていたニコンcoolpix AW100=写真上=から、AW120(中古品)=下=となった。
見たところあまり変わり映えがしない(笑)

AW100はこのブログの初期2012年から5年にわたりフル稼働してきたが、ある日液晶モニターに何も映らなくなった。シャッターを押すと写真は撮れているが、このままでは使えない。

部品交換などすれば直ると思うが、そこにお金を出すか、もう少し金を出して新しいのを買うかの選択となった。

他メーカーも含めて検討したが、けっきょくニコンとなったのは、保守的な筆者の性向がにじんだ形となったが、冒頭の写真のように、使いまくって傷だらけになったときに、なんだかかっこいい感じがするからだった。

ニコンの防水コンデジは、5代目となるAW300が出たので、AW120は2代前のモデルになった。
防水コンデジ、モデルが新しくなるたびに、厚く重くなっており、そういう意味では初代のAW100がいちばんスマートで使いやすいと思う。

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厚さの違い。左がAW100で、右がAW120

AW120の重さは213グラムで、AW100の178グラムより約2割も重い。ボディの厚さが3ミリ厚くなっていて、その分鈍重な印象がする。

AW100と120との仕様で違う点は、レンズがやや広角の24ミリ相当(初代型は28ミリ相当)になったことと、レンズ開放F値がF2.8(同3.9)とやや明るくなった点。

これがさらにモデルが新しくなると、40メートル防水とか、4K映像とかの性能、機能が付加されるが、スキューバダイビングをする人とか、本格的な映像が撮りたいという人向けだろう。

いや、そのような性能、機能があってもいいんだけど、それがために本体が分厚い格好のよくなさ、ズボンのポケットがずり下がりそうな不安を抱えての投網、釣りになることと引き換えになるのはどうかなあと思えた。

このブログをつくるにはそこまでの性能は必要ないと見切り、中古品を購入した。2万7000円はまあまあお買い得感があった。

というわけで、この新しい中古品カメラで水辺を撮りまくりたい。




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2017年06月18日

政所茶

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貯水量が少ない永源寺ダム

政所茶の新茶を売り出すイベントがあるというので奥永源寺に行く。
八日市から国道421号線を西へ、鈴鹿山脈へと入っていくと永源寺ダムは冒頭の写真のように、谷底に少量の濁り水を残すのみとなっていた。

川で鮎を捕るのを楽しみにしているので、はやく雨が降ってほしいものだ。

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車やバイクでにぎわう道の駅

道の駅「奥永源寺渓流の里」はダム湖の上流にある。
車やバイクの人でにぎわっていた。

夏から全国5カ所の自動運転の実証実験場所にも選ばれた。
交通量も相当少ないんだろうと思っていたが、ここは三重県北部と湖東地域を結ぶショートカット道で案外往来が多い。筆者もこの道を通って員弁川に行くことも。

室町時代から続くという政所茶は、お茶の原種に近いという品種。
手摘みで茶葉が生産されている。

新茶販売では10軒以上の栽培農家と、滋賀県立大の学生、八日市南校の生徒がつくった新茶が並んでおり、試飲を行っていた。

飲み比べるが筆者には、多少の渋い、甘いくらいの違いはわかるが、、、。

印象としては、過度な甘さがなく、すっきりしている。

もともとの茶の味はこうだったのかも。

八日市南高では政所茶づくりに取り組んでいるが今年、はじめてこもをつけて玉露を生産、2日前に学校で販売会を開いたところ大人気を博したという。20キロを生産したが、大部分は2日前に売れ、販売会場では20グラム入り6袋を残すのみとなっていた。

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政所茶(入っているのは県立大のお茶です)

ふだんコーヒー派だったのだが最近、ときどき茶を飲むようになった。
いま飲んでいるのは土山茶。滋賀は茶どころでもある。

そして帰宅し、地下水をわかした湯で政所茶。
庭木の枇杷をつまむ。
ちょっとした贅沢。

玉露はこれから楽しみにして飲みたい。

posted by 進 敏朗 at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

縄文時代の三方五湖の謎

3月4日、三方五湖を訪ね、記事を上中下と続けた。
三方五湖をめぐりながら、江戸時代にあった地震の痕跡を見、さらには縄文人の生活環境についても考えてみたのだった。とにかく、地震があって地面が盛り上がり、湖の出口の川がふさがれてしまうなんて、ショッキングな事態だ。

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宇波西川の川口があったとみられる河口神社周辺(奥が東南・菅湖の方向)

江戸時代の小浜藩は2年がかりで水込みとなった水月湖と、海への出口・久々子湖を結ぶ水道を掘り、水月湖(それと水面がつながっている菅・三方湖)の水抜きに成功。これによって水位が下がり、5湖ともが現在のような海抜ゼロメートルの湖となった。

その際、久々子湖の汽水が水道を逆流して水月湖に流れ込み、水月湖の水深9メートルより深い部分は比重が重い汽水がたまり、淡水と混ざらず、二重底の湖ができたんだという。水月湖の「二重底」はこの江戸時代の工事によるもので、それ以前は淡水湖だったという。

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浦見川水道の開鑿まで淡水湖だったという水月湖(2014年10月12日撮影)

これがまあ、江戸時代の大地震が引き起こした三方五湖の水込みと、浦見川開鑿のあらましなのだが、調べていてどうしても気になることが生じた。

現在は汽水湖となっている水月・菅湖だが、地震の以前はずっと淡水湖だったのだろうか。

江戸時代の大地震では、菅湖から久々子湖を結んでいた宇波西(うわせ)川が3.6メートル隆起したと記録されている。これが正確なら、現在その地点で測定した川底が海抜約7メートル前後とされているから、地震の前は海抜3.4メートルくらいだったということになる。

ということは寛文大地震以前の菅湖・水月湖・三方湖も海抜3.4メートル。

三方湖畔に鳥浜貝塚ができた縄文時代の6000年くらい前は、気候が温暖で海面がいまよりも高かったことが知られている。

どれくらい高かったかには諸説あって、2メートルという話から、3−5メートルというものまである。鳥浜貝塚を紹介する資料では「3−5メートル」と説明されていたがまあ、数メートル高かったという話だ。

いっぽう、マグニチュード7クラスとされる寛文の大地震の震源とされる三方断層は、3000年に1度くらいの周期で動くと見られている。縄文時代の鳥浜貝塚の最盛期だった6000年前ごろから江戸時代までの5700年間に1回は大地震が起きている可能性がある。

だとすると、シンプルに計算すると、6000年前の宇波西川の河口は、海抜3.4よりも3.6メートル低く、マイナス0.2メートル。いっぽう海面は仮に現在より3メートル高かったとすると、縄文時代の菅湖の入り口は水深3.2メートルの海底だったことになる。

こうなると菅湖はいきなり外洋に接し深い湖底には海水が流れ込んだだろう。そして水月湖も汽水湖となり、最奥部の三方湖も影響を受けないわけにはいかないだろう。

しかし、鳥浜貝塚から発掘された魚の骨の大部分はフナだったといい、すくなくとも三方湖は淡水かほぼ淡水の環境だったのではないかとみられている。これをどう考えればいいのか。

別に、湖に海水が入っていても、淡水魚は川にでもいたでしょう、構やしないと思われるかもしれないがそうではない。

というのは三方湖には鰣(はす)川の名の由来になったハスや、さらに大地震の3年前、1659年の地元の記録にはワタカの名も挙がっている。

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ハス(2013年6月29日、野洲川)

ハスは琵琶湖水系と三方湖にしか生息しない魚で(三方湖では近年絶滅したとみられている)、琵琶湖では、夏になると小魚を追って川に上がって来るがふだんは湖の中に生息している。ワタカは湖におり、田植えになると田んぼに上がってきて苗を食い荒らすが川にのぼる習性はない。

まあ、江戸時代以前は、地震が起きなかったか、地震があってもそれほど隆起しなかったなどと考えることもできるが、ここは実際に水月湖の環境がどうだったのかと事実に即して見るのがいちばん手っ取り早いだろう。

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わずかに塩分が混じるがフナやコイが生息する東郷池(2015年6月29日撮影)

そこで、福井里山里海研究所の学芸員に尋ねてみた。
応対していただいた学芸員氏によると、水月湖底の堆積物の炭素、窒素、硫黄の比率、ケイソウの遺骸などから、淡水だったか塩分が混ざっていたのかの分析ができるという。
水月湖には20万年の歴史があり「海水だった時代も存在する」とこのこと。
ただ縄文時代については詳しく調べられていないとのことだった。
お忙しい中、素人の質問に答えてくださりありがとうございます。

このようにして、まだ縄文時代の三方五湖の地形や水環境は謎に包まれている。そこには、妄想を膨らます余地が多分に残されていると言えるだろう。

ひとつ思うのは、鳥浜貝塚が長期間にわたって繁栄していたことを見ると、三方五湖の環境は縄文人にとって住み続けたい「理想的な環境」だったのではないか。

すなわち魚がいっぱいいて捕りやすい。基本は近場で捕れるフナなんだけど、海まで行こうと思ったら丸木舟で、やすやすと出ることができた。たぶん、船から降りて浅瀬を引くことなしに、すいすいと出て、マグロなんかの大物が捕れても船に積んで村まで戻ることができた。外洋を伝って交易もできた。海の環境と淡水湖の環境が矛盾せずつながっていている場所だっただろう。そんな地形はどのようなものだったか。

いつか解明の日が訪れるのを待ちたい。
ぜひ、縄文時代の環境はじめ、三方五湖が年月とともに、地盤の隆起、沈降と海面の上昇、低下とあいまってどういう変化を遂げてきたか研究が進んでほしいものだ。再来年度にできるという水月湖年縞展示研究施設に期待だ。


ラベル:三方五湖
posted by 進 敏朗 at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする