2017年09月09日
巨椋池横断
淀の水路にはトチカガミが群生
巨椋池干拓地を訪ね、往時の網元、旧山田家を見学したあと、昼から堤防に沿って歩いた。
東一口の水路
もと巨椋池と淀川を結んでいた水路はまるで、近江八幡の西の湖と琵琶湖を結ぶ長命寺川に似た景観。
コイが2匹
そこにはコイが川底に泥煙を立て、さきほど見学した旧山田家の欄間の浮き彫りを思い起こさせた。
まだ巨椋池は生きているのではないか。
一瞬そんな思いがよぎる。
農業用水
干拓されたとはいえ、もと池なんだから、ここらでは最も低い土地には変わりない。
だから放っておくとどうしても水がじわじわとしみ込む。それがために、巨大な排水ポンプ場を設け、稼働させておかなければならない。
このような点に着目し、この日の後半は、干拓地の中に兆す水気・沼地の趣を探そうとしたのだった。
メダカ
農業用水にメダカを見た。
農業用水は主に宇治川から取水しているのではないかと思うが、地下水位もかなり高そうだし、地下水利用もあるんじゃないか。
メダカがいるということはやはり、水切れしにくい場所なのだろう。
第二京阪、京滋バイパス交わる高架
高架道路の下をくぐって堤防沿いを歩く。暑い日だった。
野球帽のような帽子をかぶっていたが、ひさしが全面についた帽子にすべきであったとS氏は話した。
巨椋池干拓地のパノラマ写真(午後1時ごろ)
天気予報の予想以上に、気温が上がって30度超。
ここは滋賀県よりも標高が90メートルくらい低い、京都府南部の干拓地。強い日差しが照りつける。
ダイサギか
今では巨椋池干拓地の農業排水が流れる古川にはダイサギや、カルガモがいる。
逃げる亀が古川に波紋を立てる
農業排水路といっても、それなりに澄んでいて、川の中には雑魚も泳ぐ。
このように生き物の気配は見られたが、巨大土木が人工的景観をつくって、平板といえば平板な景色。
堤防の南側にある古川は、木津川から分岐して、巨椋池に流れ込んでいたみたいだ。古川というからには、古くからあったのだろう。名前だけを根拠に言うが古代の木津川だったのかもしれない。
かつての岬跡か
巨椋池復活の兆し?
田んぼの端が切れ、池のような場所があった。
これは池が復活しかけているのか? と思ったが、田植えがされていない区画に農業用水が掛け流しとなっているようだった。一面に咲く黄色い花は、オオバナミズキンバイに近縁の外来種、ヒレタゴボウではないだろうか。
白いマルバルコウ
さあもう暑さに耐えられなくなってきた。
こうなると疲労の蓄積も早い。
東岸に位置していた小倉までいきたいなと思っていたが、体力がもつか危ぶまれた。
堤防沿いを東南に進んだが、安田まで達したところで、池畔をなぞることをあきらめ、東北東の方角に池をショートカットする直線路を選ぶ。
主排5号水路
すると川の名前も、「主排5号水路」とメカニカルな響きに。
途中から西小倉の住宅地が始まる。砂田、遊田、という地名は古い地図では、巨椋池南岸に丸く突き出た洲のようなところだったみたいだ。
茶畑
その遊田のあたり、小学校の西側がやや高い土地になっていて茶畑があった。
これはS氏持参の明治中期の地図にも記載されていた。120年くらいは続いてることになる。こういう土地利用は、干拓や宅地開発にかかわらず残るものなんだな。
巨椋神社が見えてきた
そして午後2時半ごろ、近鉄の踏切の先にこんもりとした森が見えてきた。
そこは巨椋神社でちょうどショートカット路の終点だった。
ここがかつての巨椋池の東岸で、神社に沿って奈良街道が走る。
木陰で、水を飲んでしばらく休憩。
涼しい。まるでオアシスにたどり着いた心地す。
しかし、S氏が蚊に付け狙われている。どういうわけか、蚊は筆者のほうには来ず、S氏ばかりが刺される。蚊に好まれる物質を発する体質なのかもしれない。
蛭子嶋神社
ここから北上し、豊臣秀吉が築き、いまでも街道として残る太閤堤を確認。
蛭子嶋神社など、かつては水上に浮かぶ島だったことをほうふつとさせる地名を見る。
今では住宅地がけっこう密集して建っているが、江戸時代の地図を見ると、湿地の中に村が点々とある農村だった。
うなぎ揚水ポンプ
船着き場があったと思しき場所にうなぎ問屋があり、かつての池の存在をほうふつとさせていた。
探せばいろいろと、池の名残は見つかるようだった。
だがこれ以上歩くのがしんどかった。
午後3時半ごろ、空腹も極まり、そこにあった「丸亀製麺」にS氏と入り遅めの昼食をとった。
座敷に足を伸ばしてざるうどん中を食べ水を2杯とお茶を1杯飲んだ。
昼下がりのセルフうどん店はくつろげると再認識。
巨椋池干拓地、徒歩でめぐったが、まともに見ようと思ったら1日では足りないと思わされた。
淀から小倉、木幡、中書島あたりまで見るには1週間はかかるんじゃないかと思われた。
しかしこんな漫然とした水辺行に1週間も充てることはいまの筆者にはできない。
S氏からは、折り畳み自転車の導入によるポタリングを勧められた。
いわく電車にも持ち込めて便利だと。それを使えば今日の水辺行も1時過ぎには終了したんじゃないか、こうした平地で、見たいポイントが散在しているような場所には最適だ、等々。
なるほど確かにそうかもしれない。
特にきょう、堤防上を歩いていたときは、場面を早回しにしたい気分にかられ、自転車があったらさぞ便利だったろうと思われた。
がしかし、自転車を購入したとして、どれくらいの頻度で使うのかも分からない。平地ではいいかもしれないが、坂道だったら、向かい風だったら、電車が満員だったら、など消極的な思いがめぐり、すぐに導入しようという気にはなれなかった。
巨椋池
宇治川堤防から見る巨椋池干拓地の排水ポンプ場(午前11時半ごろ)
巨椋池(おぐらいけ)は京都府南部にあった池で1941年に干拓された。
広さは8平方キロメートルもあって、それは琵琶湖で最大の内湖だった大中の湖に匹敵していて、池というと筆者がたびたび引き合いにする鳥取県の東郷池の倍くらいあったという。
今ではそこは、広大な農地、新興住宅地や学校、さらには高速道路や国道が走る平地となっていて、ぱっと見にはそこがかつて池だったとはわからない。
今年から、巨椋池の網元だったという旧山田家住宅の公開が始まり、きょうが月3回の公開日にあたるので訪れた。
鏡のような宇治川
車で行けばいいようなものだが、ここはひとつ、歩きによって昔からの地形も確かめようと、その道では経験豊富なS氏の同行を得る。淀のあたりで、探査の会を予定しておりそれの下見を兼ねたいという。
淀駅に集合、淀小橋の跡などを確認後、南に進んで淀大橋を渡り、左岸堤防を北東に進み、巨椋池の西側の水の出口にあった東一口(ひがしいもあらい)を目指す。淀駅から4キロくらい。
大回りするようなコースだが、橋がそこしかないので仕方がない。バス路線もない。
淀大橋から宇治川を見ると、流れがないようで鏡のような水面が広がっていた。
ほとんど勾配がなくてよどんでいるようだった。まさに淀。
この宇治川も、自然の川のように見えるが明治末に付け替えられたもの。
もともとは、いま見えている川を斜めに横切るようにして東一口につながる堤防の道があり、それがあればかなりのショートカットがはかれるはずだった。
しかしそのような堤防を付け替える前は、京阪淀駅のところに淀川の本流が流れており、駅所在地は川の中だった。
もちろん、宇治川の付け替え後に京阪が開通しているので、筆者の願望はないものねだりというほかなかった。
東一口集落への入り口
淀大橋から歩くこと数十分、集落の入り口が見えてきた。
この東一口は、中の島のような細長い小高い土地の上にあった。
道を進む
高い地点に沿って道があり、道に沿って家が並んでいる。
道から北側を見る
家と家の間に、巨椋池に出るための道がある。池の水面は集落よりも6メートルくらい低かったようだ。
あたり一面が平坦な中にあって、これはかなり高い土地だ。
旧山田家住宅の長屋門
巨大な漆喰塗りの長屋門が見えてきた。
これが旧山田家住宅だ。民家というよりは、城塞のような重々しさで、周囲を威圧している。
欄間の鯉浮彫
巨椋池の網元と、一帯十三か村の庄屋だったという山田家。
建物は江戸時代後期のもので、一部改変されているとのこと。
敷地は650坪。母屋は10以上の部屋数があり、米蔵の跡もあったが現存していない。
平成のはじめごろまで住まいとして使用されていて、その後土地屋敷が久御山町に寄贈された。
船型をした、捕った魚を入れる道具
長屋門の中は巨椋池の資料館に。
使われていた漁具が展示されている。
上の写真は、捕まえた魚を入れておく船形をしたいけすで、横腹に小さな穴が空けられており、これによって新鮮な水が入るようになっていた。穴の直径は、ウナギが通らないくらいの太さになっている。
江戸時代ごろの巨椋池
江戸時代の巨椋池の形が分かる地図があった。
堤防は、池を囲むだけでなくて、左下のほうは陸地を取り囲んでいて輪中のような形になっており、水害を防ぐためにも設けられていたみたいだ。
びっしりと魚を捕る仕掛けが
池仕掛けられた漁業の設備は、番号が打たれていて、寸分の隙もない。コイ・フナ・ウナギなどを捕っていたのだという。
これらの仕掛けを一手に管理統制していたわけだから、巨万の富がもたらされたのだろう。
高台にある集落
集落を出て、北側から振り返ると、高台に山田家がにらみを利かせている。
商店(上の写真の左端)があり、アイスを買って食べる。
店番のおばあさんにS氏が話を聞くと、昭和28(1953)年の台風では「水が1階の高いところまで浸かった」という。幸い、2階は大丈夫だったという。
上の写真を見ると、商店は、自然堤防よりも低い位置にある。もとの集落は高い位置にあり、写真を見る限りでは商店の1階が浸水する水位では、もとの集落はまだ大丈夫だったみたいだ。
「地元のおばあさんには話を聞いとかないと」とS氏から言われた。さすがこの道の熟練者。
この巨椋池や淀のあたりは、宇治川、桂川、木津川の3川が合流し、河口から30キロ以上も上流なのに海抜はわずか10メートルそこそこ。
土地の勾配がほとんどなく、水の抜けが極端にゆるやかなため、大雨のたびあたり一面が水浸しになっていたという。
1953年当時、宇治川の天ケ瀬ダムはなく、瀬田川洗堰も前身の施設だった。
この洪水を機に、淀川水系の治水をしっかりしなければという機運が高まって、天ケ瀬ダムや、瀬田川洗堰がつくられた。それ以降は、巨椋池干拓地が、昔の池に戻るような事態は防がれている。
滋賀県に大雨被害をもたらした2013年の台風18号の際、瀬田川洗堰は取り決めに従い全閉され、琵琶湖水位はプラス80センチに迫り湖岸の駐車場に水が押し寄せた。
もし洗堰を開けたら、下流の天ヶ瀬ダムが持ちこたえられず、下流のこのあたりには氾濫した水が押し寄せ巨椋池が復活するかもしれない。
しかし今では、農地のほか住宅地もけっこうあるから、そうなればたいへんな被害となってしまう。
だから今後も、滋賀県は豪雨の際には瀬田川洗堰を全閉して耐えなければならない。
洪水の話を聞き、上流部と下流部が協調しないとと思ったが、今後ますます巨大な台風とかが来て、さらに想定外の豪雨があったりしていよいよ琵琶湖水位が上昇して危ないとなった場合、どうなってしまうのだろうと思わずにはいられない。
野菜洗い場
集落の北側、大池神社の東側に野菜洗い場があった。
かつての池は、豊かな農地にかわっている。
蛇口をひねって洗うための水を出す仕組みになっている。水は地下水なのか、宇治川からの取水なのか。
低い土地だから、けっこう地下水位は高そうなのだが。
ハスの花
巨椋池はかつて蓮の名所だったといい、観賞用のハスが育てられていた。
そこに池の名残り・雰囲気をかすかに感じた。
旧山田家の長屋門資料室でみた説明では、巨椋池のハスは池の各所でいろんな品種がみられたという。
野菜洗い場の向かい側にあったハスは、混ざらないように大きな鉢に分けて植えられていた。
2017年04月09日
旧草津川公園の水路
旧草津川の公園が4月1日にオープンした。
2月末に訪れた際、工事の進捗具合から、これは4月オープンは無理なのではと思っていたが、間に合ったので恐れ入った。商店街から階段を上がると内部はきれいになっていて大勢の人が満開となった桜を見に訪れていた。堤内の飲食などの店はまだ開店していなかったが、月末の宿場まつりには間に合うようだった。
商店街の隧道横階段
満開の桜
公園ができる前は、堤防上に生える桜の下にシートを敷いての花見でにぎわった。公園整備後は歩道の幅が広くなって、土盛りもされている。
水路
ところで、水路はどうなっているかと思って眺めるとそれは、川を模したコンクリート張りだった。
廃川となった天井川につくられた水辺ということでちょっと面白い空間。
メンテナンスのしやすさを第一に設計されたようだった。約100メートルにわたり、3カ所の石積み堰が設けられていた。石は、草津川の白砂ではなく、野洲川みたいな灰色い石。水は、循環させているみたい。魚はおらず水草はない。
勾配がないから、堰を設けて深さ、堰からの流れ感を出したのだろうか。堰をつくらないと、流れがちょろちょろにしかないので、琵琶湖博物館エントランスの小川のようにほとんど水が見られない感じになるだろう。こうしてみると、ざーっと水音を立てながら流れる瀬田の文化ゾーン・コンクリ渓流は、いかに巨大なポンプを稼働させているかが想像できる。
チョーク跡も鮮やかな琵琶湖岸までの距離表示
この水路ではしかし、ポンプ出力が最小限に抑えられているようだった。そのために吐出される水は少ない。そこで堰を設けて深みをつくり豊かな水量・川っぽさを見せようとしたのではと推測された。が、それがために流れがほとんどなくなり、夏場ボウフラがわかないか気になる。今後何かの対策がなされるのだろうか。子供らが相次いで、水の中に何かいるんじゃないかと寄って来るが、その中には何も見られないのだった。
草津川は砂川だったので、これなら別に模擬せせらぎじゃなくても、もとの白砂で枯山水のようにしつらえておけばよかったような気もするが…。
2017年03月10日
幻の東海湖
鈴鹿山脈を貫く石槫トンネルを抜け三重県へ。
近江盆地と北勢地方を結ぶ国道421号線を東進。
出発時は曇って、永源寺ダムから上流は根雪も残るが、滋賀三重県境の石榑トンネルを抜けたとたん青空となるギャップに驚き。
員弁川の支流、相場川の川筋をのぼると、カーブした川沿いにがけが現れた。
がけの高さは50メートルくらいありそうだ。
がけを拡大すると、堆積した砂利が見える
崖は、川の向こう岸にあって近づくことはできない。
望遠レンズで拡大してみると、それは岩ではなく、砂や石の堆積みたいだ。U字に蛇行する川によってどんどん削られてこのような形になったのか。
崖上の道路から見える風景
近くの鼎地区に梅林公園があるというので行ってみる。
先週は、三方五湖の梅林を訪れたがまだ咲き初めだったので、梅よもう一度と訪れる。
梅林公園に向かう道は、20メートルあるがけの上を走っていた。道路のがけ側が崩れかけていて、応急処置がしてある。がけが多い地域だ。地盤が崩れやすいのだろうか。
このあたりの道路はカーブやアップダウンが緩やかに続き、方角がつかみにくい。
この地形はなんとなく見覚えがあり、甲賀市南部の「忍者の里」、旧甲南、甲賀町あたりを走っているような錯覚に陥る。
梅と山岳
気象庁はじめ各お天気サイトでの天気予報は「晴れ」だったのにしぐれてきた。ぶり返してきた冬型の気圧配置で山沿いは天候が安定しないようだ。
梅は5分咲きというところだった。赤や白、ピンクの梅が広がる。
ここでは梅ジュースは作るが、梅干しは作っていないとのこと。
展望台から眺める
かすかに戻った晴れ間に写真を撮る。
展望台からだと、梅林の向こうに藤原岳が見え、雪とのコントラストが映える。
高い場所からの見晴らし
梅林の東側に、もう一段高い場所から眺望が得られる場所があるようで行ってみた。
山の尾根の途中に神社があり、一帯を眺める。
平たい土地であるここら一帯が、かつて湖だったという雰囲気、ムードも感じられる。
いま西の方角を眺めており、右手(北)に見えている湖は、水資源公団の管理する鈴養湖。このダム湖の右はもう岐阜県境だ。
崖も見える
最初に見た崖も見えている。
粘土っぽい
裏手の土は、粘土っぽさもあるが、細かな砂粒もまじる。
国道365号線に下り、岐阜県側に入る。
小さな渓流沿いにがけがあって、粘土層があった。
説明看板もあり。これが東海湖の跡という。
東海湖は、太古の時代、愛知から岐阜、三重の一帯にひろがっていて、最大時には琵琶湖の数倍の広さがあったという。
だが最後はこの北勢地方から岐阜県の上石津の一帯に追いやられ、100万年前ごろ消えてしまったという。
白い火山灰層の筋があり、それが170万年くらい前という。その下部には木の化石もあった。浅い湖だったみたい。
岐阜県側からみた三重県境
岐阜三重の県境は分水嶺になっておらず、標高200メートルくらいの平たい土地。
東側には烏帽子岳(864メートル)の緩い斜面が広がり集落がある。川は向こうの方から手前、南から北に流れている。
ところでこの川の流れ方が不思議で、一部はこの盆地の南端近くから始まっている。ところがその南は高低差50メートルくらいの急坂が落ち込み、とつぜん盆地が終わっている。
らしくない源流部
三重岐阜県境の盆地の南端付近、国道365号から東側の細い道に入って、谷が始まる場所に場所に立ってみた。
そこは北側の土が数メートルくぼんでいて、谷が始まっているが、杉木立に覆われていて、ただの土地のくぼみにしか見えない。背後は急坂で空がぽっかり空いて藤原岳が見渡せる。
うしろの景色
「お手軽に観察できる源流」を想像して来たが、このような小さな谷は、目に見えるような水の流れがないのだった。すこし下流まで行けば、じわじわと水が出ているのだろうか。
石灰岩の鉱山跡
盆地の東南には石灰岩の鉱山跡があった。
山の南側に員弁川の本流が深い谷をつくっている。員弁川の谷をたどると、鈴鹿山脈の峠の向こう側には犬上川の谷がある。
鉱山跡で水を一杯
東海湖と古琵琶湖はつながっていたのではないかという研究があるという。水系がつながっていた東海から伊賀、甲賀をたどり、魚や貝などの生物が移動していった可能性もあるという。そうなると、琵琶湖の歴史は近畿地方にとどまらず、東海地方を含めたもっと広くて古い湖の歴史になり、古代湖ロマンが広がるのではないだろうか。
2017年03月04日
菅・三方湖と梅、縄文ロマン(上)
島式ホームの十村駅(午前8時20分ごろ)
若狭湾沿いに走るJR小浜線は1917(大正6)年12月、敦賀―十村間が開業した。
今年でちょうど100周年だ。
自宅からは車で出、まだ雪の残る国道303号線で県境を抜け27号線。倉見峠を越え、能登野で折れ、開業時の終点・十村駅の駐車場(無料)に停める。
ここから電車に乗って三方五湖めぐりを開始。旅情もアップし、3駅目の気山へ向かう。
車窓より。かつてこのあたりの田んぼは湖だったという(藤井―三方間)
敦賀行き電車は三方五湖に注ぐ鰣(はす)川の平野沿いに北上する。
355年前の寛文2(1662)年5月1日、三方地方に地震が発生。菅湖の水の出口だった気山付近が数メートル隆起し、これによって同湖とそこにつながる水月湖・三方湖の水位が上昇、この車窓から見えている一帯の田んぼは湖に飲まれたという。
琵琶湖でいえば南郷洗堰の付近が隆起してしまうようなものでそうなったら大変なことだが、南郷付近は長い目でみれば隆起しているんだという。
湖が広がったり陸地が水没したりする。湖の沿岸に住む者としては穏やかでない話だ。これはどういうことなのか。それを歩いて検証しようと三方五湖に向かったのだった。
線路と坂道
気山駅を降りると、そこは田んぼよりも数メートル高い段丘の上にある。線路の東にある国道27号線はさらに高く、その東にある学校はもう一段高い丘のうえにある。隆起を続けている地形みたいだ。
この平地と段丘の境目かちょっと東あたりに、三方断層が南北に走っているとされる。
恋の松原
気山駅から北に約1キロの田んぼの中に、石垣で囲まれた場所がある。
「恋の松原」の跡という。
ここら辺が昔の海岸線で、気山は平安か鎌倉の頃まで「気山津」という港町だったという。
今見ると、潟湖の久々子湖はだいぶ向こうにあるが、もちろん海が下がったわけではなくて陸地がこれだけ盛り上がったのだった。久々子湖の向こうに、半円形をした飯切山(78メートル)が見える。あそこはもともと島で、その左にあるリオデジャネイロの丘みたいな形をした山の間に、早瀬港があり水道が開いている。
恋の松原の下にある田んぼで、手持ちのスマホアプリ「精密な高度計」で計ると3メートルだった。
「恋の松原」説明看板
鎌倉時代にはすでに、ロマンチックな悲話が歌の題材となっている恋の松原。
「悲恋の女性の叫びが、今も聞こえてくるようです」
と結ばれている。
…あたりは静かな田園だった。
宇波西川
ここから南に向きを変え、かつて菅湖と海(久々子湖)を結んでいた上瀬川(宇波西川)に沿ってさかのぼる。
宇波西神社
十分くらいで宇波西(うわせ)神社に行きついた。
川はこの神社の前を流れている。立派な参道や石橋が付けられており地元の崇敬を集めているようだった。
江戸時代の手水鉢
この手水鉢は、浦見川開削を指揮した小浜藩の郡奉行行方九兵衛が奉納したとされるもの。
鵜のブロンズ像は、人が近づくと口から水が吐き出されるセンサー付き。
〈参考〉久々子湖と水月湖をつなぐ浦見川(2014年10月撮影)
浦見川は、しばしば釣りで訪れ、いちど歩いてみた(2014年10月12日記事「浦見川」参照)ため、今回は探索を省略。
三方五湖の各湖と浦見川の位置関係(赤線部分は下に拡大図あり)
今回記事を書くにあたり、歴史を振り返って(ネットでですが)みると、驚いたことに浦見川の開鑿は、新田開発を目的に、寛文元(1661)年8月に始まっており、9月にいったん休止した。
よりによって水路開鑿を始めた翌年に、3000年に一度動くとされる三方断層の大地震が起きて、一帯が水没してしまうとは。もちろん誰も予想できなかっただろうが、もし工事があと数年早くはじまっていたらと思わずにいられない。
…と書いてみたが、工事が終わった後に地震が起きたら、せっかく運河ができたところが隆起してしまい、もっと悲惨なことになったかもしれない。むしろ、水路開鑿の機運が高まっていたところに地震があったため、わずか2年後に水路ができたことが結果的には幸いだったかもしれない。だけど大変な難工事で「恨ミ川」とも言われ、つらいものだったことをしのばせる。
池
さて宇波西川は神社の前で、向きを変え南東の山のほうにさかのぼっていく。
ここから、昔の川跡があったと思われる西側の山伝いに道をたどると、集落があり、池が現れた。
ここで手持ちの高度計アプリでみると「7m」だった。どれくらい精度があるかは分からないが、さきほどの恋の松原から1キロくらいで、4メートル標高が高くなっている。見た目にも、付近の土地が盛り上がっていることがわかる。
学校のプールくらいの広さがある池は、川跡なのかなと思ったが、水が意外なほど澄んでいる。用水路の水が入らず、隆起した土地のピークに近いのではと思われた。
河中神社
池から約100メートル南に河中神社がある。写真手前の水路は、手前、つまり北に向かって流れており、神社の裏は、西つまり菅湖の方向にいくほど低くなっていた。この神社付近が現在の分水嶺、水分れポイントのようだ。
寛文の地震があるまでは、ここら辺が宇波西川のはじまり地点で、菅湖の湖岸がすぐ裏手に迫っていた。今では菅湖は1キロ先まで後退した。
地震の後に書かれた文書によると気山の河口は「一丈二尺」(3.6メートル)ゆり上がった(地震で盛り上がった)と記録されている。高度計もGPSもなく、「海抜」が計れないので、地震直後の菅湖の水位を、それ以前と比べたのではないか。
川跡を思わせる田んぼ。廃川ファン必見?
神社の裏手には、山に沿って蛇行した細長い田んぼがあり、いかにも川跡を思わせる。「古川」という地名も残るといい、地震の前は菅湖の出口の水路だったかもしれない。
河中神社から山沿いをぐるっと西に回って、菅湖を目指すが、予想以上に急な下り坂となっている。
訪れる前は、もっと微妙な坂を想像していたが、はっきりと土地の隆起がわかる地形。地震のものすごさを思わずにはいられない。(続く)
ラベル:三方五湖