2024年08月12日

海浜

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波が打ち寄せる浜

浜で泳ぐ。先日、猛暑の琵琶湖浜でも泳いだが、浜で泳ぐとき海と琵琶湖でちがうところは波であった。
東北地方に台風が接近していた。その余波か、浜には風が吹いていないのに、波だけが起きている。




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神社の高台からみた海

海水浴場はコロナの期間中営業していなかったが、コロナが明けた今年も、高齢化により監視員確保がままならないことから開かれることはなかった。
ブイのない浜を、少数の親子連れなどがめいめいに楽しんでいる。
遠浅で水質、砂も細かく裸足でも足触りもよい。細かな泡が海水に混じり、たくさんの酸素を含んだ薄いブルーの海水は健康にもよさそうな感じ。浜を30分だけ泳いだ。まさに海水浴であった。



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2024年03月16日

春の彼岸

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春の海浜(午後1時ごろ)

春の彼岸、空家となっている祖母の家に帰省。
彼岸の墓参りといえば中日(3月20日)にするイメージがあったが、彼岸に入ったらさっそく花を供えるため、彼岸の入りに合わせて2泊3日の日程を組んだ。
浜を訪れると、1月には波打ち際がだいぶ陸地に迫っていた印象だったのだが、今回の印象は波打ち際はやや沖に回復して、浜の傾斜もなだらかになっていた。

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波でぎざぎざに削られた砂の崖

波が砂を削ってできるさまざまな造形、模様をみる。
早春はこうやって、砂を見るだけでもいろいろ楽しいのではないか。

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打ち寄せる波でつくられた砂のグラデーション

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繊細な模様

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砂川のコイ

ここは砂の惑星鳥取県。
コイだってまるで海の入り江を思わせる砂の川にすんでいる。

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砂利の上にも砂が

駐車場で草を抜くと、そこにも砂が積もりつつあった。
玄関前にも砂が来るし、潮風はアルミサッシを腐食させる。

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塩蔵ワカメづくり

午後は墓のそうじ、寺へのお供え。
農産物直売所や水産物直売所などで、出回っている農水産物をみた。
リニューアルされたタコ滑り台が子供らに大人気で駐車場は満員。
道路の表示では最高気温が20度以上のぽかぽか陽気。
本格的な春ももう遠くない。

海産物は、シーズン終わりのカニやカレイ類、ヤリイカなど。
農産物直売所ではブロッコリーやシイタケなどの野菜も新鮮で安かった。
イワシがたくさん出回っていたが、鮮度保持の関係上、帰りに買うことにし、生ワカメを2パック買い、これを湯通ししたのち塩をふり保存用の塩蔵ワカメをつくる。
生ワカメは先日滋賀県のスーパーでも売られていたが、私の苦手な太茎の部分が多かったのに対し、ここで売られていたワカメはその茎の部分が少なくて良品だった。

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晩ごはん

東郷池産シジミ、赤ガレイ、地元名産の平天、ブロッコリーなどを食べる。
と、毎度のことながらそのまま掘りごたつで寝込んでしまう。

翌朝、山陰自動車道を通って実家に戻り、母を連れて来て墓参し花を供え、ホームセンターで種芋購入、祖母の家でしばらく休み、実家に戻って夕食、泊まる。
とにかく帰省すると時間の流れが高速である。

明けて3日目、8時から実家の老母の家庭菜園を手伝い、前日買ったジャガイモを切らずにそのまま植える。
体を動かし、ちょっと疲れたが午前中には実家を出て、いったん祖母の空家に戻る。
冷蔵庫の中のものなどを片付けるとともに、近くの鮮魚を売る食堂でイワシを購入した。
一つのトレーに十数匹入っている。
ウロコがついていて見た目にも鮮度よさそう。「刺身にできますよ」とのこと。これが280円だなんて。
これを冷温保持したまま滋賀まで運ぶのだ。
ほかにイギスも購入。
それは農産物直売所にあった。
昨年、イギスづくりの地元業者がやめたと聞き残念に思っていたところ、直売所に個人の方が製造し出品がされていたのだった。

祖母の家からは上の写真のように直接、海が見えるのだった。
外は強風で、海は荒れてドドド―と響いてくる。

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波が押し寄せる浜

浜に出るとこのような感じである。
黒い筋のようなものは砂鉄である。
打ち寄せる波によって浜の砂は洗われ、磨かれているのであった。

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夜。イワシ塩焼きとイギス、ワカメ

帰りの車中、ハンドルを握りながらチューチューと飲んだ白バラ牛乳(200ミリパック)が甘い!
数時間かけ夜に帰宅。
イワシを焼いたら銀紙のようにパリパリに。
新鮮なイワシは、これで十分といった味だった。1匹20円!

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2024年01月06日

5日後の東伯耆の海浜

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伯耆の東、鳥取県中西部の浜(午後2時ごろ)

能登半島の巨大地震から5日後に鳥取県に帰省。空家となっている海辺の祖母の家を訪ねた折、浜に出てみた。

石川県尾震源地近くの海辺では、最大5メートルの津波が襲ったのではないかという。津波が押し寄せる映像がニュースで流れていた。

津波は日本海側の広範囲に押し寄せ、気象庁の発表では鳥取県の境港では最大60センチの潮位変動が観測された。
日本海はあんまり潮汐の変化がないので、60センチ水位が上がったら、満潮の最高潮位よりも高く水面が盛り上がったのではないか。

さてわが本籍地の浜はどうなっているのか。

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波が駆け上がった痕跡。画面右下に漂着した果物

堤防のゲートを抜け、浜に降りるコンクリートのスロープに出たところ、波が押し寄せた痕跡があり、黄色い果物が漂着している。

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波の到達点か

梨かと思ったらミカンだった。
昔、この浜で貝拾いをしていた時、規格外の二十世紀梨が大量に打ち捨てられていたのを思い出したのである。

ミカンは水ぶくれしており波に運ばれてきたようで、ここが波の到達点であろう。
堤防の根元には吹き寄せられた砂が盛り上がっているが、波によって崩されたようにも見える。
上の写真ではスロープの傾斜がわかりにくいので、波打ち際から見た写真を下に付してみた。

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波打ち際からみたスロープと堤防

これでスロープの傾斜が見やすくなった。
ミカンはスロープの上り口に近いほうに留まっていたのである。
写真は波が打ち寄せた瞬間を撮ったものなので、平均的な海水面はもうちょっと低いと考えると、ミカン漂着地点は海水面より2メートルくらい高いのではないか。

はたして、津波が駆け上がった痕跡が確認されたのか。
そうではなく冬の季節風を受けた通常の荒波の跡なのか。
判断する材料はないが、もし津波の跡ではなかったとしても、ふだんの季節風でここまで波が来ているとなると、堤防の内側はすぐ町なので、それはそれで危ないんじゃないか。

鳥取県の津波観測地点はこの境港と、東部の岩美の2カ所しかないそうである。日本海側では従来、津波のことをあまり心配しなくてもいいだろうということなのかもしれないが、この地震を受け鳥取県知事は、津波観測装置の増設を要望しているそうである。
岩美での津波の高さ20センチだった。また、隣の兵庫県豊岡では40センチ、京都府の舞鶴でも40センチで、それらの地点よりも震源から遠い境港で高い波が観測されたことには奇妙に思えた。

だが調べてみると、これが津波の不思議というか、距離が遠いからと言ってそれに正比例して津波が低くなるかといえば必ずしもそうはならないのだそうだ。

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滑らかな海浜

とりあえず浜を確認した。被害はなかったが、波はすぐそこまでやって来たようだった。

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海抜を知らせる看板

浜から100メートルほど内陸を走る旧道沿いに、海抜を知らせる表示が電柱に貼られている。
きわめて海岸に近いところに住んでいるわけだが、古くから町があったので大丈夫のような気がしていた。

過去の日本海側の津波の歴史を調べると、島根県の益田で今から千年前に津波が襲い、内陸の数キロまで達したそうである。
隣の島根県ではいくつか津波の記録が確認できたが、鳥取県ではそうした記録は今のところ探し出せなかった。
それで、まあ鳥取県には大津波は来ないだろうと高をくくってきたのだが、実際のところはよくわからない。

このたびの能登半島地震では地面が4メートルも隆起するなど、数千年に一度規模の断層の動きがあったとも語られている。
そうなってくると歴史資料では解明できず、地質調査的な手法で調べるしかない。
数十年の人生では想像もつかない大地の動きの前には無力というほかはない。
せめて察知を早く、できるだけすみやかに避難。
そのような年の幕開け、被災地のお見舞いと、早くの復旧を願うばかりだ。

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<おまけ>空家に咲く白いサザンカ


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2023年11月26日

上月城から尾高城 山中鹿介と進家の戦国模様(下)

冬の山陰はカニの季節

鳥取への帰省の途中、兵庫県の岡山県境に近い上月城に立ち寄り、「山陰の麒麟児」こと山中鹿介が、上月籠城に参戦していたわが一族の祖先に出した感状についての記録を見、城山に登った。滋賀から山陰への往還途中、いつもの水辺ではなくて歴史探訪を行ったのだった。

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荒れる浜。冬の日本海の光景。浸食進みブロック頭出す

その晩、空き家となっている鳥取県中部の浜辺の町の祖母の家に至り、松葉ガニを食べた。
近くの道の駅に今月解禁となったカニが並んでおり、カニが手に入りやすい環境だったのである。
小さめのが2杯一盛りで3800円の所を、半額で1杯だけ購入。
この季節に帰省することはめったにないがカニがあるので悪くないと思った。
さらに隣の食堂店頭の鮮魚コーナーでは23センチくらいの良型アジ6匹が550円と、内陸県滋賀では考えられない値段と鮮度であったので、買って干物づくりを行った。初冬の日本海の幸を楽しんだのだった。

戦国西伯耆の拠点、尾高城へ

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浜から見た大山

翌日の午後、米子の実家への帰省の途中、大山の「観光道路」入り口付近にある尾高城に行く。
観光道路、かつては「有料道路」とよばれ料金所があった。
「有料道路経由 大山寺行」のバスが、米子の街に行く乗り慣れた路線で「公会堂前」から最寄りバス停までの名が今でも思い出される。
尾高城は私が卒業した中学校区にあるが、城跡に立ち寄るのは今回が初めてだった。
灯台もと暗しというか、いろいろ知らないものがあった。
尾高城から石垣が発見されたとのニュースを見、この際立ち寄ってみることにしたのだった。

西伯耆の要害、尾高城は戦国時代に尼子や毛利の争奪戦が繰り広げられた。
山中鹿介の逸話はこの尾高城にも残る。
毛利軍との戦で捕らえられ尾高城に幽閉されるが一計を講じて逃げたという話だ。
赤痢と称して頻繁に便所に通い、そのうち番兵も面倒になったかついてこなくなった。
そのすきを見て、便槽の中をくぐって逃げたというのである。機知を働かせながらも、最後は果敢に難局を突破するワイルドな武人なのだった。まさに「七難八苦」をものともせず。

尾高城は石垣をちらっと見て行こうかなと思っていたが、たまたま市による遺跡の説明会が開かれていたため滞在は長くなった。詳しい説明が現地で聞けてラッキーだった。

大山裾野の天然要害

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元尾高ハイツ

昔「尾高ハイツ」と呼んでいた施設に停める。
今は「シャトー尾高」と看板があった。
おしゃれな形をした縦長のビルで、1970年代には高い建物は付近には存在せず、平地から眺めると白亜の塔のようで目立っていたが、営業をしていないのか、静まりかえっていた。
ここは大山すそ野の末端にあたる高台の上で、尾高城は平地を見下ろすように立っていたのだった。

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尾高城の背後にそびえる孝霊山

高台の尾高城、西を見やれば、木々の向こうに箕蚊屋(みのかや)平野とよばれる米子東部の田園が広がる。
背後を振り返ると、雪をいただいた大山がそびえる。左側には紅葉で染まった孝霊山。

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土塁ごしに見る大山

意外に感じたが、外部からの守りとなる土塁は大山側に築かれていた。敵は平地からやってくるんじゃないかと思ったが、そちらは天然の急崖があり、攻め入るには高台に回り込むしかなかったようだ。

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大規模な堀の跡を行く

尾高城跡の遺構はけっこう広い。
台地の端に沿って南北方向に本丸や二の丸といった郭が整然と並んでいるが、区域と区域の間はいずれも、深さ数メートル、幅も10メートルくらいありそうな大規模な壕で区切られていて、島状に並ぶ城塞の間は、橋を渡して行き来する形となっていた。

高台の土地は大山の火山灰でできているということで、掘削がしやすかったのかもしれない。
台地の崖直下には川が流れていたとされており、天然の水堀となってまさに難攻不落の要害。
説明会で広い遺構の各ポイントに係員が待機し、順路をたどっていく形式で数人ずつのグループで移動していった。

松江では山中鹿介の人望は低い?

まず遺跡の入り口で、最初の係員から概略的な説明があった。
この尾高城では、弥生時代からの遺跡が見つかっているそうで、古代から重要な拠点であったようだ。
妻木晩田遺跡クラスの集落が眠っているかもと。

そして戦国時代の話となり、やはり山中鹿介の便所の逸話となった。
「捕らえられたのは、末吉(大山町)の消防署のあたりです」と具体的。
見慣れた風景に戦国時代がリンクされていく。
幽閉され、便所に通った回数は300回とも。
誰が数えただあ、という話だが(笑)

「しかしあれですね、山中鹿介は負け戦が多かったんですが、それでもたくさんの人がついてきたということは、人望があったんでしょうなあ」と、係員氏が話の締めくくりに漏らした。すると、
「いや、鹿介は人望はなかったでえ」
と、見学者の1人のおじさんが反論した。お隣島根県の松江から見に来たという方だったが、あちらの方では、鹿介が神社を壊して回ったので、評判が良くないというのだった。
そうだったのか。神話の里出雲だけに。
係員氏もこれには、確かにそういうことはありましたが、と話した。
鹿介はいずれにしても、山陰で関心が高い武将なのだった。

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石垣の遺構前で行われていた説明

そして順路を巡り、本丸と二の丸の間から出土した石垣を見学。
それは自然の石を並べたようで、大阪城とか彦根城などで想像される切石ではなかった。城に石垣が組まれるようになったのは戦国末期のことだったという。

こうした初期の石垣は、東伯耆の八橋(やばせ)城でも確認できると、石垣担当の係員氏の説明があった。昨日、それを城郭研究の権威、中井均先生と確認に行ったという。その頃私は目と鼻の先の場所におり、カニを買い求めていた。

「非道の武士」?杉原盛重

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備前焼のかけらか。杉原盛重が愛用?

この尾高城の城主で山中鹿介と敵対していたのが、毛利の武将杉原盛重だった。
伝えられる話によると笑った顔を家来が見たことがないという、たいへんに怖そうな人である。
わが先祖に伝わる話を記した譜記によると、この杉原盛重に、箕蚊屋の土豪であったわが進家の刀が大晦日、日吉津の神社に参拝の折、強奪されたとされ、杉原のことを「非道の武士」という表現で罵っている。
うちは尼子についていたので、毛利の支配下となり肩身が狭かったことを反映しているのであろう。
杉原城主の時代、日吉津の神社の神主が新たに連れて来られており、当家は副神主をやっていたと父からは口伝えに聞いている。神社にまつわる権益縮小もあったかもしれない。

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堀の遺構を利用したとみられる道路


土の中から出てきた石垣は、戦乱のピークであった杉原よりは後の城主時代のものとされ、城全体ではなくて、天守と二の丸の間の堀の面だけに築かれていたようだった。実質的な防御面というよりは「城を立派に見せる」ことに主眼が置かれているのではないかとの説明。
国史跡に指定され、米子市は土地の所有者から買い取り交渉を行うという。

高台への注目の高まり

米子には米子城があり、いまの米子の市街地は米子城の町割りが基礎になっていて、米子城は米子のシンボルともいえる存在である。
米子城は中海に面しており、川や堀はまちとつながり、船も行き来して平和な江戸時代には平地に商業が発展した。
しかし、それ以前の戦乱の時代にあっては、伯耆西部の拠点は内陸の尾高城だった。そこは外敵に備え、にらみをきかせる高台の拠点であり、争奪をめぐって山中鹿介や、杉原盛重ら武将が活躍した。いま、戦国の遺構が掘り返され、高台が再び脚光を浴びつつあるような印象も受ける。

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箕蚊屋平野から見る秀峰大山

奥播磨と山陰の、約150キロを隔てた「点」である城跡をめぐったにすぎないが、私にとっては450年前の山中鹿介と先祖をめぐる「線」が浮かび上がった有意義な体験となった。

posted by 進 敏朗 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月25日

上月城から尾高城 山中鹿介と進家の戦国模様(上)

奥播磨・上月城資料館

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上月城資料館

長い表題となってしまったが、山陰に帰省の途中、中国自動車道の佐用インターを出、そこから約20分ほどの上月城資料館を目指した。
上月城は、戦国時代の山陰の武将、山中鹿介が最後に敗北した地。
これに加わり米子から参戦した当家の先祖への感謝状があるらしいと聞いたので以前から行きたいと思っていた。
だが春とか夏は、一目散に海のある山陰を目指し、途中の山間部に寄り道することは時間がもったいなく思われた。
しかし11月下旬ともなると寒いので海のレジャーはやらず、かわりにいつもとは別の行動を企画したのであった。
この日はときおり雨もぱらついており、貴重な休日に水辺を風景をめでるのではなく資料館の中を訪れるには悪くない天気だ。

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「上月籠城」について、山中鹿介の感状の展示

山中鹿介は主君尼子氏の再興を期して奮戦、その勇猛さとエネルギッシュな行動力は「山陰の麒麟児」とよばれ、忠義を尽くした武士として戦前は人気が高かったという。「我に七難八苦を与えよ」という言葉が知られる。後世の絵では、鹿の角の兜をかぶった姿が描かれ、キャラが立っている。

「忠義専用者」と感謝の意

中国地方のライバル・毛利氏との戦いで劣勢となる尼子一党は織田信長につく。姫路の周辺で毛利勢と信長勢が激しくやり合ていた中、天正6(1577)年12月、信長配下の秀吉軍が上月城を攻め落とし、ここの守りを尼子軍が任された。だがその後、三木で在地武士別所氏の離反があり、秀吉軍はそちらを鎮圧することに。孤立無援となった上月城は翌年4月、近畿に進出する3万人とされる毛利軍の本隊に取り囲まれてしまったのだった。ああ無情。

上月城には鹿介ら「雲伯因作(出雲、伯耆、因幡、美作)の諸浪人」が籠城しており、秀吉は、援軍を送るか信長に仰いだが、撤退を命じられる。冷徹な信長により上月の尼子軍は見捨てられたのだった。ついに籠城すること約3か月、7月5日に当主の尼子勝久が自害して降伏した。
展示では、その翌日の7月6日の日付で、鹿介が「進清右衛門」「進源七郎」の、「進」姓の2人の人物に感状を出したとあった。
長らくの籠城での働きへの感謝を表す書状であった。

資料館の係員の方が、合併前の上月町時代に作成された資料集「上月合戦〜織田と毛利の争奪戦」を持ってきてそれを見ると文書の中身が記載されていた。

「今度上月籠城、無二相届抽粉骨無比類候、弥々忠義専用者也」とあった。
籠城の際に粉骨ぶりが比類なく、忠義の者として賞賛されているようである。

長期間の籠城の末、降伏して尼子再興の夢破れ、自分もこの先生きてはおれぬと覚悟していただろう中で出された感謝状であることを思うと、中々感慨深いものがある。
このあと鹿介は連行途中、高梁川のところで斬られるが、この時33歳くらいであったとみられる。降伏後、毛利に反抗的な者は殺されたが他の者は命は助けられたという。先祖はどうであっただろうか。

原典は萩藩の文書ということで、実物が見てみたいと思った。

上月城山に登る

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城への入り口

資料館の真ん前の小山が、籠城の舞台となった上月城跡という。
この先の日程もあるし登るのはちょっと…と思ったが、折からの雨は上がり薄日が差してきた。係員氏に聞くと「1時間でいってこれます」とのことだったので、思い切って登ってみることにした。
杖も無料で貸してもらえるサービスもうれしい。
城への入り口の用水路のような川は、濠の跡だろうか。

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見晴らしの良い場所

坂道を数分進んだところで見晴らしの良い場所に出る。
谷をはさんで山が相対する。毛利軍ににらまれていたのだろうか。

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堀切の跡

さらに尾根筋を進むと、堀切が現れ、その上が本丸のようだった。
運動不足ゆえ息が切れたが、そんな高くはなく、ほどほどの運動量となった。

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本丸の場所

本丸跡はなかなか広い平たい土地となっており、地元のガイドの方が訪問者へ説明を行っていた。
険しい山城を想像していたが、佐用川沿いの道路に近い比高100メートルくらいの山だった。
ここで3か月もよく持ちこたえたものだ。

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城山の全景

1時間もかからず約40分で下山。
再び車に乗り、出てきた佐用インターではなく、県境を越えた作東インターを目指した。
上月は、兵庫県と岡山県の県境にあって、中国道を通過しての印象は、とても山深い場所のようだったが、国道を走ってみると案外広くて走りやすく、上月は鳥取方面から姫路方面を結ぶ因幡街道の要衝であった。
今では滋賀からでも3時間かからない途中下車の地だが、山に行ってみて、山陰からはるばる転戦して籠城戦を耐えた当家の一族の粉骨を想像してみた。

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杖貸し出しサービス


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