2023年11月26日

上月城から尾高城 山中鹿介と進家の戦国模様(下)

冬の山陰はカニの季節

鳥取への帰省の途中、兵庫県の岡山県境に近い上月城に立ち寄り、「山陰の麒麟児」こと山中鹿介が、上月籠城に参戦していたわが一族の祖先に出した感状についての記録を見、城山に登った。滋賀から山陰への往還途中、いつもの水辺ではなくて歴史探訪を行ったのだった。

荒れた日本海.jpg
荒れる浜。冬の日本海の光景。浸食進みブロック頭出す

その晩、空き家となっている鳥取県中部の浜辺の町の祖母の家に至り、松葉ガニを食べた。
近くの道の駅に今月解禁となったカニが並んでおり、カニが手に入りやすい環境だったのである。
小さめのが2杯一盛りで3800円の所を、半額で1杯だけ購入。
この季節に帰省することはめったにないがカニがあるので悪くないと思った。
さらに隣の食堂店頭の鮮魚コーナーでは23センチくらいの良型アジ6匹が550円と、内陸県滋賀では考えられない値段と鮮度であったので、買って干物づくりを行った。初冬の日本海の幸を楽しんだのだった。

戦国西伯耆の拠点、尾高城へ

PB260071.JPG
浜から見た大山

翌日の午後、米子の実家への帰省の途中、大山の「観光道路」入り口付近にある尾高城に行く。
観光道路、かつては「有料道路」とよばれ料金所があった。
「有料道路経由 大山寺行」のバスが、米子の街に行く乗り慣れた路線で「公会堂前」から最寄りバス停までの名が今でも思い出される。
尾高城は私が卒業した中学校区にあるが、城跡に立ち寄るのは今回が初めてだった。
灯台もと暗しというか、いろいろ知らないものがあった。
尾高城から石垣が発見されたとのニュースを見、この際立ち寄ってみることにしたのだった。

西伯耆の要害、尾高城は戦国時代に尼子や毛利の争奪戦が繰り広げられた。
山中鹿介の逸話はこの尾高城にも残る。
毛利軍との戦で捕らえられ尾高城に幽閉されるが一計を講じて逃げたという話だ。
赤痢と称して頻繁に便所に通い、そのうち番兵も面倒になったかついてこなくなった。
そのすきを見て、便槽の中をくぐって逃げたというのである。機知を働かせながらも、最後は果敢に難局を突破するワイルドな武人なのだった。まさに「七難八苦」をものともせず。

尾高城は石垣をちらっと見て行こうかなと思っていたが、たまたま市による遺跡の説明会が開かれていたため滞在は長くなった。詳しい説明が現地で聞けてラッキーだった。

大山裾野の天然要害

PB260073.JPG
元尾高ハイツ

昔「尾高ハイツ」と呼んでいた施設に停める。
今は「シャトー尾高」と看板があった。
おしゃれな形をした縦長のビルで、1970年代には高い建物は付近には存在せず、平地から眺めると白亜の塔のようで目立っていたが、営業をしていないのか、静まりかえっていた。
ここは大山すそ野の末端にあたる高台の上で、尾高城は平地を見下ろすように立っていたのだった。

PB260077.JPG
尾高城の背後にそびえる孝霊山

高台の尾高城、西を見やれば、木々の向こうに箕蚊屋(みのかや)平野とよばれる米子東部の田園が広がる。
背後を振り返ると、雪をいただいた大山がそびえる。左側には紅葉で染まった孝霊山。

土塁と大山.jpg
土塁ごしに見る大山

意外に感じたが、外部からの守りとなる土塁は大山側に築かれていた。敵は平地からやってくるんじゃないかと思ったが、そちらは天然の急崖があり、攻め入るには高台に回り込むしかなかったようだ。

PB260094.JPG
大規模な堀の跡を行く

尾高城跡の遺構はけっこう広い。
台地の端に沿って南北方向に本丸や二の丸といった郭が整然と並んでいるが、区域と区域の間はいずれも、深さ数メートル、幅も10メートルくらいありそうな大規模な壕で区切られていて、島状に並ぶ城塞の間は、橋を渡して行き来する形となっていた。

高台の土地は大山の火山灰でできているということで、掘削がしやすかったのかもしれない。
台地の崖直下には川が流れていたとされており、天然の水堀となってまさに難攻不落の要害。
説明会で広い遺構の各ポイントに係員が待機し、順路をたどっていく形式で数人ずつのグループで移動していった。

松江では山中鹿介の人望は低い?

まず遺跡の入り口で、最初の係員から概略的な説明があった。
この尾高城では、弥生時代からの遺跡が見つかっているそうで、古代から重要な拠点であったようだ。
妻木晩田遺跡クラスの集落が眠っているかもと。

そして戦国時代の話となり、やはり山中鹿介の便所の逸話となった。
「捕らえられたのは、末吉(大山町)の消防署のあたりです」と具体的。
見慣れた風景に戦国時代がリンクされていく。
幽閉され、便所に通った回数は300回とも。
誰が数えただあ、という話だが(笑)

「しかしあれですね、山中鹿介は負け戦が多かったんですが、それでもたくさんの人がついてきたということは、人望があったんでしょうなあ」と、係員氏が話の締めくくりに漏らした。すると、
「いや、鹿介は人望はなかったでえ」
と、見学者の1人のおじさんが反論した。お隣島根県の松江から見に来たという方だったが、あちらの方では、鹿介が神社を壊して回ったので、評判が良くないというのだった。
そうだったのか。神話の里出雲だけに。
係員氏もこれには、確かにそういうことはありましたが、と話した。
鹿介はいずれにしても、山陰で関心が高い武将なのだった。

PB260116.JPG
石垣の遺構前で行われていた説明

そして順路を巡り、本丸と二の丸の間から出土した石垣を見学。
それは自然の石を並べたようで、大阪城とか彦根城などで想像される切石ではなかった。城に石垣が組まれるようになったのは戦国末期のことだったという。

こうした初期の石垣は、東伯耆の八橋(やばせ)城でも確認できると、石垣担当の係員氏の説明があった。昨日、それを城郭研究の権威、中井均先生と確認に行ったという。その頃私は目と鼻の先の場所におり、カニを買い求めていた。

「非道の武士」?杉原盛重

PB260123.JPG
備前焼のかけらか。杉原盛重が愛用?

この尾高城の城主で山中鹿介と敵対していたのが、毛利の武将杉原盛重だった。
伝えられる話によると笑った顔を家来が見たことがないという、たいへんに怖そうな人である。
わが先祖に伝わる話を記した譜記によると、この杉原盛重に、箕蚊屋の土豪であったわが進家の刀が大晦日、日吉津の神社に参拝の折、強奪されたとされ、杉原のことを「非道の武士」という表現で罵っている。
うちは尼子についていたので、毛利の支配下となり肩身が狭かったことを反映しているのであろう。
杉原城主の時代、日吉津の神社の神主が新たに連れて来られており、当家は副神主をやっていたと父からは口伝えに聞いている。神社にまつわる権益縮小もあったかもしれない。

PB260128.JPG
堀の遺構を利用したとみられる道路


土の中から出てきた石垣は、戦乱のピークであった杉原よりは後の城主時代のものとされ、城全体ではなくて、天守と二の丸の間の堀の面だけに築かれていたようだった。実質的な防御面というよりは「城を立派に見せる」ことに主眼が置かれているのではないかとの説明。
国史跡に指定され、米子市は土地の所有者から買い取り交渉を行うという。

高台への注目の高まり

米子には米子城があり、いまの米子の市街地は米子城の町割りが基礎になっていて、米子城は米子のシンボルともいえる存在である。
米子城は中海に面しており、川や堀はまちとつながり、船も行き来して平和な江戸時代には平地に商業が発展した。
しかし、それ以前の戦乱の時代にあっては、伯耆西部の拠点は内陸の尾高城だった。そこは外敵に備え、にらみをきかせる高台の拠点であり、争奪をめぐって山中鹿介や、杉原盛重ら武将が活躍した。いま、戦国の遺構が掘り返され、高台が再び脚光を浴びつつあるような印象も受ける。

箕蚊屋平野と大山.jpg
箕蚊屋平野から見る秀峰大山

奥播磨と山陰の、約150キロを隔てた「点」である城跡をめぐったにすぎないが、私にとっては450年前の山中鹿介と先祖をめぐる「線」が浮かび上がった有意義な体験となった。

posted by 進 敏朗 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月25日

上月城から尾高城 山中鹿介と進家の戦国模様(上)

奥播磨・上月城資料館

PB250005.JPG
上月城資料館

長い表題となってしまったが、山陰に帰省の途中、中国自動車道の佐用インターを出、そこから約20分ほどの上月城資料館を目指した。
上月城は、戦国時代の山陰の武将、山中鹿介が最後に敗北した地。
これに加わり米子から参戦した当家の先祖への感謝状があるらしいと聞いたので以前から行きたいと思っていた。
だが春とか夏は、一目散に海のある山陰を目指し、途中の山間部に寄り道することは時間がもったいなく思われた。
しかし11月下旬ともなると寒いので海のレジャーはやらず、かわりにいつもとは別の行動を企画したのであった。
この日はときおり雨もぱらついており、貴重な休日に水辺を風景をめでるのではなく資料館の中を訪れるには悪くない天気だ。

PB250007.JPG
「上月籠城」について、山中鹿介の感状の展示

山中鹿介は主君尼子氏の再興を期して奮戦、その勇猛さとエネルギッシュな行動力は「山陰の麒麟児」とよばれ、忠義を尽くした武士として戦前は人気が高かったという。「我に七難八苦を与えよ」という言葉が知られる。後世の絵では、鹿の角の兜をかぶった姿が描かれ、キャラが立っている。

「忠義専用者」と感謝の意

中国地方のライバル・毛利氏との戦いで劣勢となる尼子一党は織田信長につく。姫路の周辺で毛利勢と信長勢が激しくやり合ていた中、天正6(1577)年12月、信長配下の秀吉軍が上月城を攻め落とし、ここの守りを尼子軍が任された。だがその後、三木で在地武士別所氏の離反があり、秀吉軍はそちらを鎮圧することに。孤立無援となった上月城は翌年4月、近畿に進出する3万人とされる毛利軍の本隊に取り囲まれてしまったのだった。ああ無情。

上月城には鹿介ら「雲伯因作(出雲、伯耆、因幡、美作)の諸浪人」が籠城しており、秀吉は、援軍を送るか信長に仰いだが、撤退を命じられる。冷徹な信長により上月の尼子軍は見捨てられたのだった。ついに籠城すること約3か月、7月5日に当主の尼子勝久が自害して降伏した。
展示では、その翌日の7月6日の日付で、鹿介が「進清右衛門」「進源七郎」の、「進」姓の2人の人物に感状を出したとあった。
長らくの籠城での働きへの感謝を表す書状であった。

資料館の係員の方が、合併前の上月町時代に作成された資料集「上月合戦〜織田と毛利の争奪戦」を持ってきてそれを見ると文書の中身が記載されていた。

「今度上月籠城、無二相届抽粉骨無比類候、弥々忠義専用者也」とあった。
籠城の際に粉骨ぶりが比類なく、忠義の者として賞賛されているようである。

長期間の籠城の末、降伏して尼子再興の夢破れ、自分もこの先生きてはおれぬと覚悟していただろう中で出された感謝状であることを思うと、中々感慨深いものがある。
このあと鹿介は連行途中、高梁川のところで斬られるが、この時33歳くらいであったとみられる。降伏後、毛利に反抗的な者は殺されたが他の者は命は助けられたという。先祖はどうであっただろうか。

原典は萩藩の文書ということで、実物が見てみたいと思った。

上月城山に登る

PB250026.JPG
城への入り口

資料館の真ん前の小山が、籠城の舞台となった上月城跡という。
この先の日程もあるし登るのはちょっと…と思ったが、折からの雨は上がり薄日が差してきた。係員氏に聞くと「1時間でいってこれます」とのことだったので、思い切って登ってみることにした。
杖も無料で貸してもらえるサービスもうれしい。
城への入り口の用水路のような川は、濠の跡だろうか。

PB250036.JPG
見晴らしの良い場所

坂道を数分進んだところで見晴らしの良い場所に出る。
谷をはさんで山が相対する。毛利軍ににらまれていたのだろうか。

PB250033.JPG
堀切の跡

さらに尾根筋を進むと、堀切が現れ、その上が本丸のようだった。
運動不足ゆえ息が切れたが、そんな高くはなく、ほどほどの運動量となった。

PB250040.JPG
本丸の場所

本丸跡はなかなか広い平たい土地となっており、地元のガイドの方が訪問者へ説明を行っていた。
険しい山城を想像していたが、佐用川沿いの道路に近い比高100メートルくらいの山だった。
ここで3か月もよく持ちこたえたものだ。

PB250058.JPG
城山の全景

1時間もかからず約40分で下山。
再び車に乗り、出てきた佐用インターではなく、県境を越えた作東インターを目指した。
上月は、兵庫県と岡山県の県境にあって、中国道を通過しての印象は、とても山深い場所のようだったが、国道を走ってみると案外広くて走りやすく、上月は鳥取方面から姫路方面を結ぶ因幡街道の要衝であった。
今では滋賀からでも3時間かからない途中下車の地だが、山に行ってみて、山陰からはるばる転戦して籠城戦を耐えた当家の一族の粉骨を想像してみた。

PB250066.JPG
杖貸し出しサービス


posted by 進 敏朗 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年07月23日

夏の海辺

DSCN9436.JPG
砂浜と海(22日午後)

21日夜に京都を出、22日未明に鳥取県中西部の浜辺の町に着いた。
米子自動車道の湯原インターを0時10分に出て、料金が3割引に。岡山鳥取県境の犬挟峠の手前で濃いガスが発生し、あせったが、トンネルを抜けて鳥取県側に出ると霧は晴れ、関金まで下り、農地の広がる県道を疾走。町役場前のローソンで白バラ牛乳とパン購入。1時に、祖母の空家に到着。およそ4時間の所要時間。

22日の朝、8時に起床、朝ごはん。屋内の掃除機がけ、草刈り。
4月の除草の効果か、新規の雑草はさほど多くなかった。やはり春季の対策が大事だ。

サア次は買い物だ。
車を出し、閉店が取りざたされるAコープでいぎす(海藻を材料とした寒天状の地元食品)を探すが、楽しみにしていた地元業者のいぎすは廃業して手に入らないことを知り、原材料の乾燥いぎす草を買う。800円。
昼ご飯はポート赤碕の牛骨ラーメン。農産物施設で小玉スイカ。
魚料理店は超満員。店頭でアジを求めるが白イカしかなくて、どういうわけかアジがない。とにかく滋賀では考えられないほど安価で手に入る小アジを使い、保存食として干物づくりをしようとしていたが、これでは自前で調達するしかない。

DSCN9485.JPG
向こうの丘の上の赤く光る物体がタコ遊具である(クリック、拡大すると中央付近に見えます)

タコの滑り台が真新しく、ぴかぴかと赤光りしている。20年ほど前、子どもと遊び、その後年々古びてくるのを見てさみしい気持ちだったが、見事に新調されてうれしい気持ち。

買い物から戻り、昼寝。
外は暑いが、おそらく京都や滋賀ほどではない。海風が開け放った家の中を北から南へと抜けていく。
あとで調べると、22日の最高気温は、海に近い大山町塩津で31.4度。同じ日、京都は35.1度、大津では35.8度といずれも猛暑日で、暑さのレベルが全然違うのだった。
しかし、だからと言って太陽光の強い真昼に海に行ったりはしない。
海はそこにあるので、もうちょっと日差しが弱まってから外に出る。

3時半ごろ起き、まずは浜に出て泳ぐ。
海水浴場の範囲を示すブイが設置されていない。ついに、やらなくなったのだろうか。泳ぎに来ている家族連れはいくらかはいた。
波打ち際に丸い石が転がっている。
これは砂層の下にあるはずのものだ。
砂浜の砂が流出しているのではないか。小石が波打ち際に増えるのは海が深くなったサインで、海水浴には良くない兆候だ。
沖の沈みテトラまでを泳ぐ。

DSCN9450.JPG
波立つ海

DSCN9444.JPG
タカノハダイ

DSCN9451.JPG
砂の感触

砂は、さらさらとした大粒で足裏に心地良い。

DSCN9459.JPG
投げ釣り(釣れず)

1時間ほど泳いだのち、着替えて、釣りに行く。
漁港の釣具店で砂虫とアミを買う。
まず赤碕港の横の浜で投げ釣りをするがまったく反応がなく、数投であきらめた。

DSCN9460.JPG
浜の漂着スイカ

漂着したスイカが波に洗われ無常を物語っているかのよう。

DSCN9462.JPG
夕方の漁港(午後6時ごろ)

もう6時が近くなってきた。
車で10分ほどの漁港に移動し、アジ釣りをする。
先端のほうにはたくさんの釣り人がいる。
手前の船着き場は釣り禁止の看板。

DSCN9463.JPG
小アジが釣れた

投げサビキをやってみる。
するとウキが沈み、アジがかかる。

DSCN9465.JPG
アコウだ

竿が下の方に沈み、重量感がある引きで。アコウだった。
サビキに豆アジがかかり、その豆アジに食いついてきたのだ。22センチくらい。
隣の釣り人の男性から「変なのがかかりましたな」と声を掛けられる。
こんなまぐれもあるのが楽しい。

DSCN9466.JPG
ブリの子どもか

魚が掛かり、力強く横走りするのでサバかと思ったら、ブリの小さいやつだった。ツバスの小さいやつとも言えるが、何というのだろう。アジよりも精悍な面構え。
サビキ仕掛けの糸が細くて、魚が暴れたショックでもつれること2回。
スペアの仕掛けがあってよかった。
なるべく魚のサイズ、パワーに合わせ、仕掛けが絡まないように、できるだけ針が大きく、糸の太い仕掛けを使ったほうが、取りこぼしたり絡まなくてすむのかもしれないと学んだ。

DSCN9476.JPG
漁火

引き揚げるころにはすっかり暗くなった。

DSCN9479.JPG
釣果

体長17センチくらいの小アジ、10センチもない豆アジのほか、外道としてアコウ、ツバスの小さいやつ、カマスが釣れた。
アコウはまだ生きていた。生命力が強い。殺すのがしのびない気にもなる。頭を切り落とそうとしたら包丁が滑って指先を切るハプニングも。
小アジ18匹とカマスを開いて干物に。豆アジはフライ。アコウとツバスの小さいやつは刺身と、アラ汁に。

DSCN9481.JPG
海の男料理

さらに昼間買っておいたイワガキ、白イカ刺身とスイカ、手製のイギスを合わせ、晩ごはんとしたときには10時を回っていた。
アコウの刺身はすばらしかった。あら汁も、頭に付いた身とかが、歯ごたえがあり最高。
スイカもうまい鳥取産。
手づくりイギスは濃くなり過ぎたが、魚フライとのマッチングがよかった。
海の幸を満喫し、そのまま寝入ってしまった。

🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊



DSCN9482.JPG
朝の浜(午前6時半ごろ)

明けて23日は、6時半起床、そのまま浜に出てキス釣りに挑戦。
キス釣りをするのも、10年以上ぶりだ。

DSCN9484.JPG
海へキャスト

昔、持っていた竿は、折れてしまったので、このたび新調したのだが、釣具店では昔ながらの投げ竿の売り場がかなり小さくなっていた。
さほど選択肢がなかった中、3.6メートルの軟調投げ竿を選んだ。ふつうキス釣りだと、25号とか30号のオモリを使うと思うが、15号のオモリにして、あんまり振り回さずに楽に投げて釣ることを考えた。
糸もPEの0.8号を導入。
投げると、それでも2色出たので、力糸と合わせて60メートルくらい飛んだ。

DSCN9486.JPG
ピンギスが釣れた

固定仕掛けで、アタリがほとんど感じられなかったがピンギスが釣れていた。
透明感のある砂色の魚体で砂浜の精といった感じ。


そのうち地合いが来たのか、3本針に3匹かかるなんてことも。
順調に釣れ続けて、エサの砂虫がなくなったので終了。

DSCN9503.JPG
シロギス釣果

18匹釣れてほとんどがピンギスだった。
これは結局、みな開いてキス天にして、一部は昼食にした。

昼前に母が来て、キス天をふるまったら好評だった。

午後、高校野球の鳥取大会準決勝をテレビで見た。
元プロ野球の川口和久さんが解説をしており、内容が詳しくておもしろかった。
試合には母校が出ていたが、1点差で負けた。
試合会場が米子でいわばホームゲームだったので、相手の鳥取の高校に逆転するのではないかと思ったが惜しかった。
この日米子の気温は全国で最も高い36.7度。
相手投手の足がつって治療休みもあった。
米子は妙に暑いことが時々ある。この日は京都よりも暑かったのだ。そんな日の午後に試合日程が当たって少々気の毒にも思えた。

そのあとの大相撲千秋楽では、新入幕の倉吉出身の令和の怪物、伯桜鵬が破れて4敗となり優勝はならず。
これを見届けて母は米子へと帰った。
私も後片づけして海辺の町を後にした。
ほどなく睡魔に襲われ、駐車して寝たら真っ暗に。
何とか日が変わるまでには帰宅した。

「泳ぎ、食べ、眠り、快適です」と、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが記した海辺の町。
そのままに過ごした。
2日の日程であったが、ぜんぜん時間が足りない釣りや海水浴の日々だった。
最低でも3泊、できれば1週間くらいは滞在したいものだ。といつも思う。





















posted by 進 敏朗 at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月10日

たまる砂

PC100488.JPG
砂が堆積した川

法事を執り行うため、鳥取県の海辺の町に帰省した。
祖母が亡くなった時と同様、12月の山陰にしては例外的に快晴で温暖な2日間だったが、次の日にはしぐれて天候は急に悪化した。
私が見たかったのは川や海だった。
いつも、祖母の家に戻ると前の川を見るのだが、砂がいつもにも増して堆積し、川幅の3分の2くらいを占めていた。
水がこれまでに見たことがないくらい澄んでいる。もしかして、流量が少ないのかもしれないのだが。
砂は右岸(写真では左側)に積もっており、流れは左岸に寄っている。
これは北西の風で砂が海岸から吹き寄せられてくるためであろう。
右岸側ではだんだん護岸コンクリの下のほうが埋まってきて、川筋が狭くなりつつあるようだ。

PC100490.JPG
砂と水が見せるさまざまな模様

砂の見せる繊細な表情。
こんななんの変哲もない川でも、流心は激しい流れが砂をえぐりとる凸凹ができ、汀(みぎわ)には水位変動でできた細かな縞模様があり、水からの近さで模様の様相が変化する。そして今季の川の最高水位のところであろう部分で段差ができ、支流からの流れ込みがぱっくりと切れている。
見るたびに模様が違って興味は尽きないのだ。

PC100494.JPG
河口

そして視線を背後に向けると、そこには海があり、川が流れ込んでいる。
水平線は割とはっきり見えるが、前日はさらに遠くまでがクリヤーに見えており、もしかしたら北西の沖合にある隠岐の島も高台にある墓地から見えたかもしれないが惜しいことだった。いつか写真に収めたい。
上の写真では、拡大するとわかるが海に漁船が数隻操業している。何を捕っているのだろう。
最近アジがよく出回っていると母から聞いたがもしかしてそれかもしれない。

PC100499.JPG
浅瀬が形成されてきた

そしてこの日の最大のサプライズは、河口の左岸側の海に、浅瀬が出現したことで最初は目を疑った。何だこれは。
半世紀近くこの海には通ったがこんな浅瀬は見たことがない。
もしかすると半世紀以上前はもっと海が浅かったのかもしれないが。
私の半世紀はどちらかといえば浜の砂が消失してきた時代だったから。家に残された昭和初期の写真なんかを見ると、浜はもっと雄大な感じだった。
しかしこの砂浜消失の時代に、こんな浅瀬ができてくるなんて何かあったのか。
よく見ると、沖合に沈みブロックが入れてあるようであるが、それは最近入れたのだろうか。
海水浴場のある右岸側にはブロックが入れてあって、一時は海が浅くなったんだけど、以後、次第に砂が流失していって、この夏泳いだ感じでは、そんな遠浅でもなくなってきた。
砂の挙動というものはわからないものだ。とつぜん出現したこの浅瀬、どうなっていくのか、今後も観察していきたい。
海をめぐるウオッチの対象が増えてうれしい。













posted by 進 敏朗 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月16日

お盆のふるさとの海

DSCN8938 浜.jpg
浜(14日の夕方)

7月末に続いて、またまた帰省した。
お盆の期間(8月13〜16日)を、本籍地である海辺の町で過ごす。
お盆とは家の行事。家を引き継いだ者としてやらなくてはいけないことだろう。
何かキャンプとか旅行とか、レジャーの一環みたいに盆のことを思うのは違うんじゃないか。
そんなことでいいのかと、突っ込まれても仕方ないところだが、私にとっては、帰省先に海があることがどうしようもなく大きい。

まずは浜に出る。
家から100歩くらい。
今年は雨が降ったり曇ったり、雷だったりと、ふだんの夏とは違って、天気が目まぐるしく変化する。
浜もそれによって違った表情を見せる。

DSCN8931 夕方の浜.jpg
雨交じり、夕方の浜。一列に浜から引き上げる家族連れ(14日)

お盆期間中は、海水浴はしないのが地元でのならわし。
祖先の霊が帰ってきている期間であり、そのようなときに海に入ると「引っ張られる」と言われたものだ。
しかし今では、素知らぬ様子で海水浴をしている家族連れもいる。
同様に、殺生をしないという観点から釣りも自粛していたものだが、釣りをしている人もいる。
それも、県外ではなく地元のおじさんがスクーターで浜に乗り着け竿を立てている。
習俗は時代とともに軟化した。
それでいいのだ。

DSCN8941 海の水.jpg
きらめく海(15日午前9時ごろ)

私も海に入る。
きらめく透明な海水よ。
朝のうちは風もおだやかで波もない。
町はさびれても、海はいつも新鮮だ。

DSCN8944 ダツ.jpg
ダツ

突堤の先端付近の水面近くを、両あごが長いダツ泳ぐ。
とがった口先はダーツを思わせる、などとおやじギャグ。

DSCN8980 コバルトスズメ.jpg
スズメダイ

日本海の雰囲気とは異なる趣のコバルトブルーのスズメダイも。
南洋の趣が、少しずつ押し寄せてきているのが感じられる。

P8150807 浜から見える大山.jpg
浜の入り口から見える大山

P8130760 迎え火.jpg
迎え火

さて、お盆行事をやるのを忘れてはいけない。
先月末に、帰省した折に買っておいた苧殻を、折って燃やす「迎え火」。
そして、お盆の灯篭セット。本来、2基を仏壇の両脇に立てるが、これは1基に省略。

P8140773 灯篭.jpg
灯篭

仏壇には、キュウリとナスによる「精霊馬」。今回、家で栽培したものを持ってきた。
虫食いがあって見栄えは悪かったが。。。
おだんご、お茶をセット。
花も。
さらに家には、仏壇とは別の部屋に神棚もあって、そちらにもお茶、榊をセット。
神棚があるのは、祖父の義父である曾祖父が神主の家出身だったことによるもの。
私が生まれるずっと前、祖父は、「サザエさん」の磯野家の「マスオさん」のように、祖母(サザエのポジション)と結婚し、曾祖父一家が暮らす家に上がり込んで同居していたのだが、曾祖父の一家は死別や結婚でいなくなっていく。とりわけ「カツオ君」にあたる祖母の弟が結核で病死し、男子がいなくなり、いつしか磯野家はフグ田家に置き変わる。曾祖父は1964(昭和39)年の5月に亡くなる。祖父が現在の家を建てた1975(昭和50)年には、すでに曾祖父はいなかったのだが、そちらの家を継ぐものが誰もいなかったのだが、神棚が設置されたのだった。
ただこの「フグ田家」にも男子がおらず子どもはみな家を出てしまったので、1代おいて孫である私が呼び出されたのだった。
そんな孫とか言ってもすでに、いいおっさんである。

DSCN8997 海と寺.jpg
海の見える墓地

墓参りもする。
水やりを毎日することで、13日にいけた花が、お盆期間中、しおれずに保つことができる。
これをするだけでも、期間中は常駐していなくてはいけない。
夕方には灯篭にろうそくを立てる。

DSCN8995 花の水やり.jpg
筒に水をそそぐ

花の筒に水をやろうとして茎をつかんで上に引っ張ると、筒の中は半分くらい水がなくなっていて、炎天下の花が水を盛んに吸い上げていることがわかる。やはり水やりを欠かしてはいけない。
墓は1基ではなく、後を継ぐ人のいない曾祖父の家や親類など、計5基あって、花を活けたり水をやるのもひと仕事だ。
これを引き継いだのはコロナ禍以降のことだった。
ここのとこ数年は、母の妹で京都に住んでいる叔母が役割を引き受け、帰省がてら友達との飲み会も恒例の楽しみとしていたそうだが、叔母はコロナ以後、帰省を控えるようになり、私の出番となった。
その前の年か前々年の夏、叔母から、おだんごの作り方や墓参りのときにすることなど、お盆の準備やルーティンについてひととおり「講習」を受けた。そのことが役に立った。
叔母は今年の7月、とつぜん心不全で亡くなった。72歳だった。
「講習」を受けた時点では、まだ世の中にコロナもなく、叔母がこんな早く亡くなるとも思わずにいたが、本当にわからないものだ。叔母には毎夏、この海辺の家で出会ってはいたが、コロナ禍以降、ついに会わないままとなってしまった。
今となっては、いろいろと話をしたり、聞いてみたいこともたくさんあったが、かなわぬこととなってしまったのが悔やまれる。
海辺の家は、昔はお盆には都会から帰省する親戚や子どもらでにぎわっていたものだが、今は来るメンバーもほぼ私か母に限られるようになった。
こういう習俗がすたれると、墓をみる人がだんだんと少なくなり、1人でみなくてはいけない墓も増える。
期間中、ひと晩実家の米子のほうに戻って、墓参りをすると、若い人は戻ってこず、近所のおじさんの口から不意に出てきたのは「日本はいずれなくなる」というテスラ会長発言の話。あの発言、思った以上に刺さっているな。
墓参りだ何だと面倒だから、やっぱり田舎の集落には若い人は寄り付かない。嫁は来ない、そうなってしまうのは無理からぬものがある。
まあ世の中が移り変わっていくのは、不可抗力のようなものだから仕方ない。その変化のスピードが早いのが少々気になるとしても。
でも一方、だからといって、いま続いている習俗を、不合理だからとすっぱりと捨て去るのも何か違う気がする。
ひとりうだうだと、酒を片手に思いにふけるお盆の夜。

P8140797 1964年ごろの.jpg
1964年ごろの浜。今より波打ち際が広い

4日間のお盆も、実にあっという間。いつも帰る時は、もっと居たいという気になる。
その昔、浜辺の町は活気があって夏は海水浴でもにぎわう隠れた名所だった。
アルバムにあった58年前の浜は、今よりも広くて遠浅に見える。たたずむ少女はその後、進学とともに町を出て、都会で就職し結婚、3人の子を育て、地域の乳幼児の子育ても長年にわたって支えたのだった。合掌。










posted by 進 敏朗 at 15:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする