佐鳴湖
高さ30メートルくらいの台地に囲まれた佐鳴湖(午後2時ごろ)
静岡県の佐鳴湖を訪れた。
浜名湖の東にある、南北2キロぐらい、東西約500メートルくらいの小さな湖で、面積は約1.2平方キロメートル。
水が流出する「新川」を通じて浜名湖とつながっており、わずかに塩分がまじる海抜ゼロメートルの汽水湖だ。
昭和33年の発掘風景。貴重なカラー写真
佐鳴湖のすぐ東には「蜆塚(しじみづか)」と呼ばれる縄文時代の貝塚があった。
市の博物館が整備されていた一角に「貝層」と看板がある。
「貝層」の案内
階段を下りると。ガラス越しに積みあがった貝を見ることができた。
午後の光に照らされる「貝層」の断面
遺跡には貝塚が3か所あり、住居は貝塚に囲まれるようにして存在していた。
積みあがった厚さは1.5メートルくらいある。
説明によると1000年くらいの間、人が住み続けていたのではないかという。
ほとんどがヤマトシジミという部分
蜆塚と呼ばれるだけあって、たくさんあったのはシジミであった。
ヤマトシジミと説明があった。宍道湖や、鳥取県の東郷池などにもいる汽水域にすむシジミだ。
そのほか、アサリ、ハマグリ、カキなど二枚貝や、アカニシといった巻貝もあったがこれらは潮干狩りでおなじみの海の貝。
どの貝もラージサイズや特大サイズだったが、干潟には大きいのも小さいのもいることを考えると、縄文人は大きいやつだけをとって、資源管理を図っていたように思えた。
縄文時代の温暖な時期は、海面が現在よりも高かったというので、浜名湖には海水が流入し、佐鳴湖も浜名湖とつながって奥の入江みたいな感じで、汽水域と海水のゾーンがあったのだろうか。
貝塚から湖に降りる緩いスロープ状の地形があり、湖に出るとそこは、家康が正妻の瀬名(築山殿)を殺害した現場であった。
観光ボート乗り場があったが、貝塚との位置関係からいって、縄文人もおそらく丸木舟をここらへんに停めていたのではないか。
貝塚と佐鳴湖との高低差は30メートル近くもあった。
そこは三方原と呼ばれる台地で、天竜川の扇状地が隆起してできた地形とされる。
佐鳴湖の東西は、高低差約30メートルの三方原台地によって囲まれる形となっていた。
このおかげで、この日は北風が強かったのだが、佐鳴湖の西岸側は風が遮られおだやかだった。
風よけをしながら、弁当をコンビニのシジミ汁とともにいただいた。
蜆塚を見て、佐鳴湖をみながらシジミ汁を食べようという趣向だ。
コンビニみそ汁具材の殻付きシジミ(ピンぼけ)
セブンイレブンのシジミは、インド産で何と殻付きだったが、サイズはスーパーで売られているやつの半分くらいのスモールサイズだった。
そのサイズは貝塚でみたやつは殻の幅が3センチくらいはあったが、このインドシジミは1センチあるかどうかというサイズ。
いくらインドでも、こんな小さいやつを捕り続けていたら早晩枯渇してしまうのではないか。そんなことを思った。
佐鳴湖の流れ込み
たくさんの市民が湖周を歩いたり、犬を連れて散歩したりしている。
1周が5.5キロというので、速足で歩けば1時間ほどで1周できるので、健康づくりにちょうどよさそうな感じがする。
数年前までは、「日本でいちばん汚い湖」ともいわれたそうだが、下水道の整備もすすんで水質は改善傾向にあるという。
崖からの住んだ湧水が流れ込み、湿地の周辺では鳥の鳴き声がうるさいくらい。
ウ(中央やや下左の水鳥)
管理棟施設で佐鳴湖を描いたり撮ったりした絵画写真の作品展では、カワセミや、ミサゴ、オシドリ、などの鳥類が愛好家によって撮られていた。鳥類の豊富な湖であるようだった。