冬の山陰はカニの季節
鳥取への帰省の途中、兵庫県の岡山県境に近い上月城に立ち寄り、「山陰の麒麟児」こと山中鹿介が、上月籠城に参戦していたわが一族の祖先に出した感状についての記録を見、城山に登った。滋賀から山陰への往還途中、いつもの水辺ではなくて歴史探訪を行ったのだった。
荒れる浜。冬の日本海の光景。浸食進みブロック頭出す
その晩、空き家となっている鳥取県中部の浜辺の町の祖母の家に至り、松葉ガニを食べた。
近くの道の駅に今月解禁となったカニが並んでおり、カニが手に入りやすい環境だったのである。
小さめのが2杯一盛りで3800円の所を、半額で1杯だけ購入。
この季節に帰省することはめったにないがカニがあるので悪くないと思った。
さらに隣の食堂店頭の鮮魚コーナーでは23センチくらいの良型アジ6匹が550円と、内陸県滋賀では考えられない値段と鮮度であったので、買って干物づくりを行った。初冬の日本海の幸を楽しんだのだった。
戦国西伯耆の拠点、尾高城へ
浜から見た大山
翌日の午後、米子の実家への帰省の途中、大山の「観光道路」入り口付近にある尾高城に行く。
観光道路、かつては「有料道路」とよばれ料金所があった。
「有料道路経由 大山寺行」のバスが、米子の街に行く乗り慣れた路線で「公会堂前」から最寄りバス停までの名が今でも思い出される。
尾高城は私が卒業した中学校区にあるが、城跡に立ち寄るのは今回が初めてだった。
灯台もと暗しというか、いろいろ知らないものがあった。
尾高城から石垣が発見されたとのニュースを見、この際立ち寄ってみることにしたのだった。
西伯耆の要害、尾高城は戦国時代に尼子や毛利の争奪戦が繰り広げられた。
山中鹿介の逸話はこの尾高城にも残る。
毛利軍との戦で捕らえられ尾高城に幽閉されるが一計を講じて逃げたという話だ。
赤痢と称して頻繁に便所に通い、そのうち番兵も面倒になったかついてこなくなった。
そのすきを見て、便槽の中をくぐって逃げたというのである。機知を働かせながらも、最後は果敢に難局を突破するワイルドな武人なのだった。まさに「七難八苦」をものともせず。
尾高城は石垣をちらっと見て行こうかなと思っていたが、たまたま市による遺跡の説明会が開かれていたため滞在は長くなった。詳しい説明が現地で聞けてラッキーだった。
大山裾野の天然要害
元尾高ハイツ
昔「尾高ハイツ」と呼んでいた施設に停める。
今は「シャトー尾高」と看板があった。
おしゃれな形をした縦長のビルで、1970年代には高い建物は付近には存在せず、平地から眺めると白亜の塔のようで目立っていたが、営業をしていないのか、静まりかえっていた。
ここは大山すそ野の末端にあたる高台の上で、尾高城は平地を見下ろすように立っていたのだった。
尾高城の背後にそびえる孝霊山
高台の尾高城、西を見やれば、木々の向こうに箕蚊屋(みのかや)平野とよばれる米子東部の田園が広がる。
背後を振り返ると、雪をいただいた大山がそびえる。左側には紅葉で染まった孝霊山。
土塁ごしに見る大山
意外に感じたが、外部からの守りとなる土塁は大山側に築かれていた。敵は平地からやってくるんじゃないかと思ったが、そちらは天然の急崖があり、攻め入るには高台に回り込むしかなかったようだ。
大規模な堀の跡を行く
尾高城跡の遺構はけっこう広い。
台地の端に沿って南北方向に本丸や二の丸といった郭が整然と並んでいるが、区域と区域の間はいずれも、深さ数メートル、幅も10メートルくらいありそうな大規模な壕で区切られていて、島状に並ぶ城塞の間は、橋を渡して行き来する形となっていた。
高台の土地は大山の火山灰でできているということで、掘削がしやすかったのかもしれない。
台地の崖直下には川が流れていたとされており、天然の水堀となってまさに難攻不落の要害。
説明会で広い遺構の各ポイントに係員が待機し、順路をたどっていく形式で数人ずつのグループで移動していった。
松江では山中鹿介の人望は低い?
まず遺跡の入り口で、最初の係員から概略的な説明があった。
この尾高城では、弥生時代からの遺跡が見つかっているそうで、古代から重要な拠点であったようだ。
妻木晩田遺跡クラスの集落が眠っているかもと。
そして戦国時代の話となり、やはり山中鹿介の便所の逸話となった。
「捕らえられたのは、末吉(大山町)の消防署のあたりです」と具体的。
見慣れた風景に戦国時代がリンクされていく。
幽閉され、便所に通った回数は300回とも。
誰が数えただあ、という話だが(笑)
「しかしあれですね、山中鹿介は負け戦が多かったんですが、それでもたくさんの人がついてきたということは、人望があったんでしょうなあ」と、係員氏が話の締めくくりに漏らした。すると、
「いや、鹿介は人望はなかったでえ」
と、見学者の1人のおじさんが反論した。お隣島根県の松江から見に来たという方だったが、あちらの方では、鹿介が神社を壊して回ったので、評判が良くないというのだった。
そうだったのか。神話の里出雲だけに。
係員氏もこれには、確かにそういうことはありましたが、と話した。
鹿介はいずれにしても、山陰で関心が高い武将なのだった。
石垣の遺構前で行われていた説明
そして順路を巡り、本丸と二の丸の間から出土した石垣を見学。
それは自然の石を並べたようで、大阪城とか彦根城などで想像される切石ではなかった。城に石垣が組まれるようになったのは戦国末期のことだったという。
こうした初期の石垣は、東伯耆の八橋(やばせ)城でも確認できると、石垣担当の係員氏の説明があった。昨日、それを城郭研究の権威、中井均先生と確認に行ったという。その頃私は目と鼻の先の場所におり、カニを買い求めていた。
「非道の武士」?杉原盛重
備前焼のかけらか。杉原盛重が愛用?
この尾高城の城主で山中鹿介と敵対していたのが、毛利の武将杉原盛重だった。
伝えられる話によると笑った顔を家来が見たことがないという、たいへんに怖そうな人である。
わが先祖に伝わる話を記した譜記によると、この杉原盛重に、箕蚊屋の土豪であったわが進家の刀が大晦日、日吉津の神社に参拝の折、強奪されたとされ、杉原のことを「非道の武士」という表現で罵っている。
うちは尼子についていたので、毛利の支配下となり肩身が狭かったことを反映しているのであろう。
杉原城主の時代、日吉津の神社の神主が新たに連れて来られており、当家は副神主をやっていたと父からは口伝えに聞いている。神社にまつわる権益縮小もあったかもしれない。
堀の遺構を利用したとみられる道路
土の中から出てきた石垣は、戦乱のピークであった杉原よりは後の城主時代のものとされ、城全体ではなくて、天守と二の丸の間の堀の面だけに築かれていたようだった。実質的な防御面というよりは「城を立派に見せる」ことに主眼が置かれているのではないかとの説明。
国史跡に指定され、米子市は土地の所有者から買い取り交渉を行うという。
高台への注目の高まり
米子には米子城があり、いまの米子の市街地は米子城の町割りが基礎になっていて、米子城は米子のシンボルともいえる存在である。
米子城は中海に面しており、川や堀はまちとつながり、船も行き来して平和な江戸時代には平地に商業が発展した。
しかし、それ以前の戦乱の時代にあっては、伯耆西部の拠点は内陸の尾高城だった。そこは外敵に備え、にらみをきかせる高台の拠点であり、争奪をめぐって山中鹿介や、杉原盛重ら武将が活躍した。いま、戦国の遺構が掘り返され、高台が再び脚光を浴びつつあるような印象も受ける。
箕蚊屋平野から見る秀峰大山
奥播磨と山陰の、約150キロを隔てた「点」である城跡をめぐったにすぎないが、私にとっては450年前の山中鹿介と先祖をめぐる「線」が浮かび上がった有意義な体験となった。