奥播磨・上月城資料館
上月城資料館
長い表題となってしまったが、山陰に帰省の途中、中国自動車道の佐用インターを出、そこから約20分ほどの上月城資料館を目指した。
上月城は、戦国時代の山陰の武将、山中鹿介が最後に敗北した地。
これに加わり米子から参戦した当家の先祖への感謝状があるらしいと聞いたので以前から行きたいと思っていた。
だが春とか夏は、一目散に海のある山陰を目指し、途中の山間部に寄り道することは時間がもったいなく思われた。
しかし11月下旬ともなると寒いので海のレジャーはやらず、かわりにいつもとは別の行動を企画したのであった。
この日はときおり雨もぱらついており、貴重な休日に水辺を風景をめでるのではなく資料館の中を訪れるには悪くない天気だ。
「上月籠城」について、山中鹿介の感状の展示
山中鹿介は主君尼子氏の再興を期して奮戦、その勇猛さとエネルギッシュな行動力は「山陰の麒麟児」とよばれ、忠義を尽くした武士として戦前は人気が高かったという。「我に七難八苦を与えよ」という言葉が知られる。後世の絵では、鹿の角の兜をかぶった姿が描かれ、キャラが立っている。
「忠義専用者」と感謝の意
中国地方のライバル・毛利氏との戦いで劣勢となる尼子一党は織田信長につく。姫路の周辺で毛利勢と信長勢が激しくやり合ていた中、天正6(1577)年12月、信長配下の秀吉軍が上月城を攻め落とし、ここの守りを尼子軍が任された。だがその後、三木で在地武士別所氏の離反があり、秀吉軍はそちらを鎮圧することに。孤立無援となった上月城は翌年4月、近畿に進出する3万人とされる毛利軍の本隊に取り囲まれてしまったのだった。ああ無情。
上月城には鹿介ら「雲伯因作(出雲、伯耆、因幡、美作)の諸浪人」が籠城しており、秀吉は、援軍を送るか信長に仰いだが、撤退を命じられる。冷徹な信長により上月の尼子軍は見捨てられたのだった。ついに籠城すること約3か月、7月5日に当主の尼子勝久が自害して降伏した。
展示では、その翌日の7月6日の日付で、鹿介が「進清右衛門」「進源七郎」の、「進」姓の2人の人物に感状を出したとあった。
長らくの籠城での働きへの感謝を表す書状であった。
資料館の係員の方が、合併前の上月町時代に作成された資料集「上月合戦〜織田と毛利の争奪戦」を持ってきてそれを見ると文書の中身が記載されていた。
「今度上月籠城、無二相届抽粉骨無比類候、弥々忠義専用者也」とあった。
籠城の際に粉骨ぶりが比類なく、忠義の者として賞賛されているようである。
長期間の籠城の末、降伏して尼子再興の夢破れ、自分もこの先生きてはおれぬと覚悟していただろう中で出された感謝状であることを思うと、中々感慨深いものがある。
このあと鹿介は連行途中、高梁川のところで斬られるが、この時33歳くらいであったとみられる。降伏後、毛利に反抗的な者は殺されたが他の者は命は助けられたという。先祖はどうであっただろうか。
原典は萩藩の文書ということで、実物が見てみたいと思った。
上月城山に登る
城への入り口
資料館の真ん前の小山が、籠城の舞台となった上月城跡という。
この先の日程もあるし登るのはちょっと…と思ったが、折からの雨は上がり薄日が差してきた。係員氏に聞くと「1時間でいってこれます」とのことだったので、思い切って登ってみることにした。
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城への入り口の用水路のような川は、濠の跡だろうか。
見晴らしの良い場所
坂道を数分進んだところで見晴らしの良い場所に出る。
谷をはさんで山が相対する。毛利軍ににらまれていたのだろうか。
堀切の跡
さらに尾根筋を進むと、堀切が現れ、その上が本丸のようだった。
運動不足ゆえ息が切れたが、そんな高くはなく、ほどほどの運動量となった。
本丸の場所
本丸跡はなかなか広い平たい土地となっており、地元のガイドの方が訪問者へ説明を行っていた。
険しい山城を想像していたが、佐用川沿いの道路に近い比高100メートルくらいの山だった。
ここで3か月もよく持ちこたえたものだ。
城山の全景
1時間もかからず約40分で下山。
再び車に乗り、出てきた佐用インターではなく、県境を越えた作東インターを目指した。
上月は、兵庫県と岡山県の県境にあって、中国道を通過しての印象は、とても山深い場所のようだったが、国道を走ってみると案外広くて走りやすく、上月は鳥取方面から姫路方面を結ぶ因幡街道の要衝であった。
今では滋賀からでも3時間かからない途中下車の地だが、山に行ってみて、山陰からはるばる転戦して籠城戦を耐えた当家の一族の粉骨を想像してみた。
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