JR関西線で亀山から名古屋方面へ3駅目、河曲(かわの)駅
三重方面への遠足
晩秋の晴れた日。
三重県の亀山駅から朝、8時の電車で出発する。
同駅を起点に見立て、北勢方面への「鉄道遠足」を企画。同駅までは車で1号線を経由し到着し、コイン駐車場(1日300円)に停めた。
滋賀から三重へは草津線がつながっているので、ここまで車を使わずに来ることもできるが、草津線終点の柘植(つげ)で亀山方面の連絡が良くなく、亀山でも乗り換えが不便という二重苦が待ち受けているためそれは採用しなかった。
いっそのこと車だけを使って移動すれば時間もかからず便利だが、どこか知らない場所に行くとき、鉄道で行く方が、だんぜん旅をした感じが強まる。
車は自宅と始発駅を結ぶ手段に限定し、あくまで「鉄道と徒歩の旅」という体で、亀山「始発」の半日旅とした。
朝の亀山駅(午前7時50分ごろ)
亀山駅は1890年開業という古い駅だそうだが、駅前は真新しいロータリーが広がっていた。
ホームに待機する名古屋行き電車には乗客が乗り込み、始発のムードは満点。
亀山から東は鈴鹿川の左岸沿いに丘陵と平野が広がり、まっすぐな路線を電車は快走。
3駅目の「河曲(かわの)」に8時21分に着いた。
対面式ホームの駅から、踏切を渡り小屋のような駅舎抜けると静かなロータリーに朝の日が差す。
数人の高校生が駐輪場から自転車で走り去った。
河原の広い鈴鹿川
鈴鹿川の土手沿いに道路が走る。
鈴鹿川は全長32キロの川で、規模でいえば滋賀県の愛知川よりすこし小さいくらいか。平野部が広めで、山間部は滋賀県の川より浅い。
河原には白砂がいっぱい堆積している。
対岸は近鉄鈴鹿線が走り、大規模な建物が望めるが、JR沿線であるこちら側は田園そのものの風情だった。
ここに何があるというのか。
古びた「御井」
さて河曲駅前の看板を見ると近くに「山辺の御井(やまのべのみい)」というものがある。
どうも昔の井戸か池の跡のようだ。
藪の中に案内される
予定していなかったが行くことにした。
西に向かって約10分。「公家坂」という石柱のところから林の中に分け入り、すぐのところに表示があった。
見る影もない「山辺の御井」。奥に石碑
藪に囲まれた、泥のたまった小さな池で草など生えて、使用されていない様子。
江戸時代にこの土地の伊賀神戸藩の殿様が訪れたことを記念して石碑が建っている。
この水たまりが、そこまで著名な池だったのか。
山辺の御井は奈良時代の初期の和銅5(712)年、古代の皇族である長田王が伊勢斎宮への途中に立ち寄り、歌を詠んだ現場とされる。
さらには山部赤人の屋敷があったとの言い伝えも。
万葉歌人として名高い山部赤人だが、調べると関連の旧跡は千葉や滋賀や静岡など各地にあるようだ。
そして山辺の御井についても、この場所のほか県内でも4カ所の比定地があるという。
実際ここがその歌に詠まれた場所であったのか。
ここが大和盆地から伊勢斎宮に行くルートからやや外れている点も気になる。すぐさま南下すれば行けなくはないのだが。
現在の姿は、ただの蚊が出る湿地である。
しかし、丘陵の崖下に位置しているので、泥の堆積を取り除いたら清水が湧き出る池が復活するかもしれない。
これから徒歩で向かう先には、国分寺の跡もあったりして、古代の北勢地域の中心地だったような場所なのだ。
皇族が伊勢に行く途中、少し寄り道をして立ち寄ったとしてもおかしくはない。
何せ1300年も前の話である。確かなことはよくわからず、想像は膨らんでいく。
1300年前の清水の跡が、いまも残っているとしたらすごいことだ。
丘陵の崖から出る清水、これがこの後の行程にも現れるのだった。
伊勢国分寺へ
門のように立つ二棟の建物の間に、石柱が立つ
さてもういちど河曲駅に引き返したら9時。
こんどは進路を北に取って比高約30メートルの丘陵地を上がっていく。
するとなだらかな坂の入り口で道の両側に石柱が立っている。
この先に、伊勢国分寺跡があるという。
史跡公園が整備されている伊勢国分寺跡
そこは考古学博物館があり、国分寺跡は史跡公園として整備されていた。
高台の上は平坦になっており、資料館の2階から全景を眺めることができた。
この日はもやがかかり、鈴鹿山脈までは望めず。
蓮や蔓草文様の国分寺の軒瓦
伊勢国分寺は金堂・講堂・僧坊・食堂などの施設を備えていた。塔は、小院と呼ばれる区画から一辺が26メートルの建物跡は見つかったが、念入りな地固めがされた跡が見受けられず、そのことから塔の存在を疑問視する見方もあるという。だが、資料館のパンフには、奈良県の寺で地固めをしていない塔跡が発掘されたことから「塔と考えてよいでしょう」とある。どうなんだろう。でも、1300年たって地形が変わっていないことからも、地盤はしっかりしてそうな印象で、塔が立っててもおかしくはない気はする。
巫女の埴輪
山辺の御井、そして伊勢国分寺。
この河曲のあたりには古代の遺跡が多い。
館内を見学すると、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡や遺物が紹介されている。
縄文と弥生で遺跡の場所がほぼ変わっていないことから、平野の中に点在する高台を拠点として、長い間、人が連続的に住み着いている印象を受けた。
左の人と右の人
展示されていた一対の巫女の埴輪は、右の人と左の人で背の高さや、顔まで違う感じ(左の人は面長で目尻が下がり、右の人は切れ長の目で丸顔、薄笑い)で作られていて、実際にモデルがいたのではと感じさせる。
この後で訪れたが采女(うねめ)という地区もあって、それは雄略天皇の時代に機転を利かせて残忍な仕打ちを免れた賢い采女の出身地だという。この2人の巫女にも存在感がただよう。「できる女性」を輩出する土地柄だったのか。
同じ高台にあった前方後円墳
国分寺から東へ約500メートルには、立派な古墳も見られた。
表面を覆っていたとみられる葺き石や、周囲には壕らしき跡も確認。つい3年前に竹藪が伐採されて丸裸になったばかりだったようで、全容が見られるのはラッキーだった。
など遺跡を見て古代情緒に浸った。
この高台では新しい家や規模の大きな住宅も多く見られ、集落をみても建て替えや、外構を新しくするなどの形跡が端々に見られ、人の暮らしの勢いのよさのようなものが感じられた。
日当たりも良く、柿やビワ、ミカンなどの果樹が至る所に生えている。
駅から近くはなく便利とは思えないが、人が好んで住む場所というものがあるのではないかと思えた。
道の脇の林にはアケビも
東海道を行く
1号線(左)と旧東海道
さて北上するとやがて国道1号線に突き当たり、広大なガレージをそなえた「采女食堂」の前を通り過ぎると、旧東海道が分離する。
1号線のほうは台地を切り崩してなだらなか下り坂になっているが、東海道は台地の上をそのまま進む。
旧東海道の風景
江戸から数えて101個目の「采女一里塚」がこのあたりにあったという説明板があった。
モータリゼーション進む高度成長期、国道1号線の拡幅時に、徒歩旅の目印である一里塚が撤去されたとあり、移動手段の移り変わりを何とも象徴的に物語っていた。
血塚社
昔ながらの街道の雰囲気を残す一角に「血塚社」とあった。
東国を征服した日本武尊が伊吹山の神にたたられ傷を負い、足を見たら血が流れていたという故事に由来。
「三重」という地名のおこりは、日本武尊が遠征に疲れ果てて、足が三重に曲がっているようだ、と言ったことに由来するという。
三重はつまり移動や旅の地、しんどさがピークに達する場所、というニュアンスを含んでいるのか。
急坂始まる
血塚社から先の東海道は突然、急坂となっていた。
これが東海道の難所「杖衝坂」ということだったが、正直、少し迂回するなり、道をもっとS字にするなりして傾斜を緩くすることはいくらでもできたのではないか。わざわざ急坂を残したようなルート設定には理由があるのだろうと思った。随所に「難所」を残しといて、往来する人の把捉をしやすくするとか。
坂の途中の弘法の井戸
いずれにしても今回は丘の上から下る行路だったので、この急坂を登らずに済んだのは楽だった。
資料館は残念ながら、土曜日休館ということであった。
さて私は何ゆえに東海道を歩いているのか。
それはこの先に、レール幅762ミリというナローゲージの鉄道「四日市あすなろう鉄道」があり、それに乗りたかった。
内部川。国道1号の橋から上流方向を見る
坂を下りて国道1号に出、内部(うつべ)川の橋を渡ると、旧東海道はこんどは1号線の西側を並走する。
内部駅は左岸にあるが、内部小学校やうつべ資料館は右岸にある。川のどちら側が内部の内部なのか、外部なのか。
とにかく歩いている間は、このようなことばかりが頭に浮かんでくる。
ロータリーが整備されていた内部駅
そして内部川の橋から東海道にいったん回って5分もしないうちに駅前にたどり着く。
グーグルの2017年撮影のストリートビューでは、駅前をふさぐように住宅が立っていたが、2021年にはロータリーとなっており、現地は数多くを収容する駐輪場が整備され、鉄道利用促進の政策が打たれていた。
ちいさな終点の駅舎
ロータリーから下がっていくようにして内部駅の小さな駅舎があった。
切符を購入し、総延長7キロという「四日市あすなろう鉄道」に乗り込もうとする。
四日市あすなろう鉄道の車両
穏やかな晩秋の日差しの中、古代の遺跡から、江戸時代の街道を通り、大正時代敷設のナローゲージ鉄道という「時間旅行」をぶらぶらと楽しんでいるのである。
(続く)