2023年07月02日

花園の池

DSC_1069.JPG
法金剛院で池をバックにハスの花

山陰線の花園駅は市街地に立地する駅の割に駅前がひっそりとしている。
駅の前を走る丸太町通の向かいの左手には、法金剛院の緑の生垣がまっすぐなラインをつくり、まちづくりの「にぎわい創出」とは対極の静穏な空気を漂わせていた。
ここは平安時代の初期に貴族の別荘が築かれて以来、こんにちまで連綿として邸宅や寺院として続いており、京都でも数少ない平安時代の遺構が見られる場所という。
天長7年(830年)ごろ、右大臣の清原夏野が別荘地としたのが始まりといい、珍花奇花を集めた。それで花園という地名となったそうだ。
その数年前の平安京では、空海が雨乞いの祈祷をして各地に雨を降らせたりしていた。いにしえの時代。
花園付近には花園高校や花園大学もあり、これは妙心寺派が設立した学校なので花園=妙心寺のイメージを抱いていたが、それよりも数百年古い法金剛院が花園の元祖であった。
平安遷都以来つづく京のまちだが、平安時代のものがこんにちまで続いている場所はそんなに多くない。

DSC_1082.JPG
夏空の庭園全景

そんな古寺にふと入ってみた。池があって夏の蓮が有名だ。
満開だったのはアジサイで、盛りを過ぎたナツツバキもきれいだ。蓮は、咲き始めで多くはなかったが、緑の葉に張りがあって美しい。

池は、昭和45年(1970)に掘り出され、復元された。
平安時代末期の大治5年(1130)、鳥羽天皇の中宮、待賢門院がこの場所にあった天安寺を復興して「法金剛院」としたときと同じ場所、遺構なのか。そうだったらいいなと思ったが、後で調べると、平安時代そのままの遺構ではないようである。

DSC_1078.JPG
水際が曲線を描く洲浜

もともと境内は丸太町通りや山陰線の南側まで広がっていたらしく、昭和43年の丸太町通拡幅時や、その後の花園駅の駅舎高架化の際の調査で遺構が出土している。花園駅の駅前広場のあたりに寝殿造の建物があったと、京都市埋蔵文化財研究所の資料にあった。池の本体も、いまの場所よりも南の丸太町通から花園駅にかけて広がっていた。
こうしてみると花園の駅は、法金剛院のもともとの敷地内につくられたことになり、駅名が「花園」であるのは由緒深いものだったのである。

さて、庭を訪れ、池をめぐる。
池でよかったのは、丸石を敷き詰めた洲浜。
そこは陸地と水際とのゆるやかな境目であり、水へのアプローチ。やっぱり、これがあることで池の趣はぜんぜん違ってくるように私には見える。
池造り、やっぱり洲浜がないとね。
この洲浜は復元されたものと思われるが、発掘された平安期の池跡からも洲浜が見つかっているそうである。
私のメダカ池は畦シートで取り囲み、それを粘土や砂、小石で埋め立てて造り、何とかして州浜を表現しようとしたが、できたのは州浜ではなくて草やコケが入り乱れた湿地で、浜というより潟という感じになってしまった。
何がだめだったのか。法金剛院の洲浜をよく見ると、水際が曲線を描いている。
これが洲浜の秘密かと、あらためて気づかされた。

DSC_1073.JPG
メダカが立てる波紋

池には、無駄な餌を与えていないか、もしかするとまったく餌を与えずに育てているのではと思わせる引き締まったニシキゴイのほか、浅瀬に無数のメダカが集まり小さい波紋を立てる。
ぱっと見える範囲だけで1000匹以上はいるだろう。浅瀬の大群のほか、池の全域に見られ、稚魚も多数で繁栄している。
メダカ、黒い在来種なのが素敵である。ボウフラ退治にも役立つだろう。

DSC_1079.JPG
巨石を組み合わせた青女の滝

池の奥には、日本最古級の人工滝遺構「青女の滝」。
待賢門院の発注で仁和寺の僧、静意と、林賢によって造られたとされる。
昭和の発掘調査時には、岩の上部が地表に露出しており、掘り下げたところ滝石が発掘されたという。
京都では長い歴史の中に戦乱も多くて、以前の遺構が残らないことが多い中、かなり貴重だと思う。

DSC_1080 - コピー (2).JPG
滝からの流れ込み。池まで距離がある

滝の奥は小さな山となっており、巨石を組み合わせて、深山の趣を表現しているのだろうか。
そして滝は直接池に落ちるのではなくて、流れ込みがあって、「川」となって池に注いでいる。
「極楽浄土」をテーマに築かれた庭園と伽藍。
山、滝、流れ込み(川)、池と、地形を再現している。
そこには平安時代の何かの世界観が反映されているだろう。どこかおおらかというか。
もっと時代をさかのぼると、飛鳥時代の玉石張りの人工感満載の庭園があるが、そこよりも時代が新しい平安京のこの庭園からは、自然をトータルに再現して極楽浄土を表現したいという欲求を感じる。
右京の地域が都から外れた別荘地だったということもあるかもしれない。
滝は直接、池に落ちてはいないのは大覚寺の名古曽の滝の遺構でも同じであった。滝水がいったん川となって池に注ぐことに興趣を感じていたのである。

私は自宅の庭にメダカ池を築いたが、偶然にも同じように、池に水を引くのに流れ込みをつくり、ちょっと川っぽくした。自然の地形を再現しようとしてそうなったのだが、平安時代の感性につながっていたのだった。
法金剛院の池、私の理想とするメダカ池が、ここにあるのではという気がした。
平安時代の人は、庭園に極楽浄土を求めた。末法の世到来とされた時代ムードのなか極楽浄土を求める心は、現代にはそのまま通じるかはわからないが、自然をミニチュア的に再現した庭などに理想世界を求める現代人の心は、平安時代と案外通じるものがあると思う。
本尊である平安期の国宝の阿弥陀仏を拝観するのも忘れ、池に見入った。










posted by 進 敏朗 at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以西) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック