2022年08月16日

お盆のふるさとの海

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浜(14日の夕方)

7月末に続いて、またまた帰省した。
お盆の期間(8月13〜16日)を、本籍地である海辺の町で過ごす。
お盆とは家の行事。家を引き継いだ者としてやらなくてはいけないことだろう。
何かキャンプとか旅行とか、レジャーの一環みたいに盆のことを思うのは違うんじゃないか。
そんなことでいいのかと、突っ込まれても仕方ないところだが、私にとっては、帰省先に海があることがどうしようもなく大きい。

まずは浜に出る。
家から100歩くらい。
今年は雨が降ったり曇ったり、雷だったりと、ふだんの夏とは違って、天気が目まぐるしく変化する。
浜もそれによって違った表情を見せる。

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雨交じり、夕方の浜。一列に浜から引き上げる家族連れ(14日)

お盆期間中は、海水浴はしないのが地元でのならわし。
祖先の霊が帰ってきている期間であり、そのようなときに海に入ると「引っ張られる」と言われたものだ。
しかし今では、素知らぬ様子で海水浴をしている家族連れもいる。
同様に、殺生をしないという観点から釣りも自粛していたものだが、釣りをしている人もいる。
それも、県外ではなく地元のおじさんがスクーターで浜に乗り着け竿を立てている。
習俗は時代とともに軟化した。
それでいいのだ。

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きらめく海(15日午前9時ごろ)

私も海に入る。
きらめく透明な海水よ。
朝のうちは風もおだやかで波もない。
町はさびれても、海はいつも新鮮だ。

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ダツ

突堤の先端付近の水面近くを、両あごが長いダツ泳ぐ。
とがった口先はダーツを思わせる、などとおやじギャグ。

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スズメダイ

日本海の雰囲気とは異なる趣のコバルトブルーのスズメダイも。
南洋の趣が、少しずつ押し寄せてきているのが感じられる。

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浜の入り口から見える大山

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迎え火

さて、お盆行事をやるのを忘れてはいけない。
先月末に、帰省した折に買っておいた苧殻を、折って燃やす「迎え火」。
そして、お盆の灯篭セット。本来、2基を仏壇の両脇に立てるが、これは1基に省略。

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灯篭

仏壇には、キュウリとナスによる「精霊馬」。今回、家で栽培したものを持ってきた。
虫食いがあって見栄えは悪かったが。。。
おだんご、お茶をセット。
花も。
さらに家には、仏壇とは別の部屋に神棚もあって、そちらにもお茶、榊をセット。
神棚があるのは、祖父の義父である曾祖父が神主の家出身だったことによるもの。
私が生まれるずっと前、祖父は、「サザエさん」の磯野家の「マスオさん」のように、祖母(サザエのポジション)と結婚し、曾祖父一家が暮らす家に上がり込んで同居していたのだが、曾祖父の一家は死別や結婚でいなくなっていく。とりわけ「カツオ君」にあたる祖母の弟が結核で病死し、男子がいなくなり、いつしか磯野家はフグ田家に置き変わる。曾祖父は1964(昭和39)年の5月に亡くなる。祖父が現在の家を建てた1975(昭和50)年には、すでに曾祖父はいなかったのだが、そちらの家を継ぐものが誰もいなかったのだが、神棚が設置されたのだった。
ただこの「フグ田家」にも男子がおらず子どもはみな家を出てしまったので、1代おいて孫である私が呼び出されたのだった。
そんな孫とか言ってもすでに、いいおっさんである。

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海の見える墓地

墓参りもする。
水やりを毎日することで、13日にいけた花が、お盆期間中、しおれずに保つことができる。
これをするだけでも、期間中は常駐していなくてはいけない。
夕方には灯篭にろうそくを立てる。

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筒に水をそそぐ

花の筒に水をやろうとして茎をつかんで上に引っ張ると、筒の中は半分くらい水がなくなっていて、炎天下の花が水を盛んに吸い上げていることがわかる。やはり水やりを欠かしてはいけない。
墓は1基ではなく、後を継ぐ人のいない曾祖父の家や親類など、計5基あって、花を活けたり水をやるのもひと仕事だ。
これを引き継いだのはコロナ禍以降のことだった。
ここのとこ数年は、母の妹で京都に住んでいる叔母が役割を引き受け、帰省がてら友達との飲み会も恒例の楽しみとしていたそうだが、叔母はコロナ以後、帰省を控えるようになり、私の出番となった。
その前の年か前々年の夏、叔母から、おだんごの作り方や墓参りのときにすることなど、お盆の準備やルーティンについてひととおり「講習」を受けた。そのことが役に立った。
叔母は今年の7月、とつぜん心不全で亡くなった。72歳だった。
「講習」を受けた時点では、まだ世の中にコロナもなく、叔母がこんな早く亡くなるとも思わずにいたが、本当にわからないものだ。叔母には毎夏、この海辺の家で出会ってはいたが、コロナ禍以降、ついに会わないままとなってしまった。
今となっては、いろいろと話をしたり、聞いてみたいこともたくさんあったが、かなわぬこととなってしまったのが悔やまれる。
海辺の家は、昔はお盆には都会から帰省する親戚や子どもらでにぎわっていたものだが、今は来るメンバーもほぼ私か母に限られるようになった。
こういう習俗がすたれると、墓をみる人がだんだんと少なくなり、1人でみなくてはいけない墓も増える。
期間中、ひと晩実家の米子のほうに戻って、墓参りをすると、若い人は戻ってこず、近所のおじさんの口から不意に出てきたのは「日本はいずれなくなる」というテスラ会長発言の話。あの発言、思った以上に刺さっているな。
墓参りだ何だと面倒だから、やっぱり田舎の集落には若い人は寄り付かない。嫁は来ない、そうなってしまうのは無理からぬものがある。
まあ世の中が移り変わっていくのは、不可抗力のようなものだから仕方ない。その変化のスピードが早いのが少々気になるとしても。
でも一方、だからといって、いま続いている習俗を、不合理だからとすっぱりと捨て去るのも何か違う気がする。
ひとりうだうだと、酒を片手に思いにふけるお盆の夜。

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1964年ごろの浜。今より波打ち際が広い

4日間のお盆も、実にあっという間。いつも帰る時は、もっと居たいという気になる。
その昔、浜辺の町は活気があって夏は海水浴でもにぎわう隠れた名所だった。
アルバムにあった58年前の浜は、今よりも広くて遠浅に見える。たたずむ少女はその後、進学とともに町を出て、都会で就職し結婚、3人の子を育て、地域の乳幼児の子育ても長年にわたって支えたのだった。合掌。










posted by 進 敏朗 at 15:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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