水田に姿を映す青龍山
青龍山(333.3メートル)に登ることを決意する。
多賀町の、多賀大社の南に位置する山。そんなに高くはない。というか登り口からの高低差は180メートルくらい。
これなら、脚力にまるで自信のない筆者でも、まあ登れるのではないか。
そのように思い、現地に到着した。
田植えの終わった水田を歩くと、ヒバリがピーチクパーチクとさえずり、ケリもけたたましく鳴く。サギ、ツバメ、いろんな鳥が春を謳歌している。
男飯盛木
田園の中に目立つ大木。
斜めに、まるでサッカーのスライディングをしている人のように見える。
これは伝承のある木「飯森木」ということだった。
「御玉杓子」というものの言い伝えもある。
説明の看板
滋賀県の指定記念物で、樹齢は推定300年以上。
西側にも、もう一つ大木があり、そちらは「女飯盛木」。
女飯盛木
こちらの木は、腰のくびれを連想させた。両足を踏ん張っている人を後ろから眺めているようだ。
田んぼの中に、ただならぬ大木が2本立つこの地は、古い歴史に包まれた土地ということを物語っていた。
コンクリ用水路
広い田園を潤すコンクリ用水路。
この水源はため池であった。
大門池
満々と水をたたえる大門池は青龍山のふもとにあった。
敏満寺の集落の、民家の屋根と水面が同じくらいの高さではないか。
段丘状の地形を利用してつくられていた。
説明の看板によると、東大寺の正倉院の絵図にすでに記録がある古い池ということである。
大門池の説明板
この大門池や、下流の田は東大寺領だったという。
奈良時代、743年の墾田永年私財法によって、新田開発がブームに。その一環で開墾された池と田園みたいだ。
東大寺は、以前に訪れた大阪府島本町にも所領があったし、三重県伊賀の島ヶ原村にもあった。行く先々で東大寺領に行き当たる印象。同寺の新田開発はすごい勢いだったとつくづく思わされる。
逆に言えば、犬上川右岸のこの地は、それまでは田ではなかったということであろう。
というのは、このあたりは扇状地で、雨が降らないときの犬上川を見ても一目瞭然だが、河原からは水がなくなり、思うように水を引くことができなかったと思われるからだ。
どれくらいの人数が池の築造にあたったのか。工事をしている間の人足の食料、道具類の供与、築堤や灌漑用水を引くなど、技術を持った大規模資本がなくては実現できなかっただろう、などと思いをめぐらす。
転作の麦畑の向こうに見えるビール工場
地表水に乏しい半面、伏流水は豊富な土地柄とみえ、麦畑の向こうには大手ビール会社の工場が稼働していた。
大門池や青龍山周辺の地図
話が前後してしまったが、大門池はほぼ四角い形をしていて、水は東にある青龍山か、南側から流れ込んでくる。
池の北側には国道307号線が走り、その北に敏満寺の集落があるが、そこには直接池水は吐出せず、取水口に近い西南の角から水が流れ出たのち、北に進路を向け流れていくのがちょっと面白い造りだなと思った。
池の北側の、集落側から池(南方)の方向を見る。
階段の上には国道307号線が走り、その向こうに池がある
集落と池はかなり高低差があって、集落が池の直下にあり、破堤したらものすごい被害になりそうだが、水の出口はこちら側にはない。
1300年も続いている池なので、造りは万全なのだろう。
さて、池を眺めたあと、青龍山に踏み出す。
名神の高架下をくぐる
池から東に進むと名神高速道路の高架下をくぐり、胡宮(このみや)神社に入る。
仁王門跡
この神社は中世の敏満寺で、ちょうど名神の高架下に仁王門があったといい、巨大な礎石が残っている。
遺跡を説明する看板
敏満寺、それは主に鎌倉期から室町期にかけての大きな寺院であったといい、中世最大規模の石仏墓跡があるという(調査中で立入禁止だった)。
なんだかスケールの大きな遺跡のようだ。
「下乗」と彫られた石碑
神社境内にある「下乗」と彫られた石碑はもともと仁王門近くにあったといい、真ん中で折れていたのが繋ぎ合わされている。馬から降りる場所を示した標識のようなものと思われるが立派だ。字体がかっこいい。
そのような遺跡遺物に感心しつつ、神社から始まる登山道に入った。
青龍山の登山道
登山道は整備されていて、丸太の階段道をゆくが、早くも息切れがして体力の低下に愕然。
山中の「御池」
登山道から右に折れ斜面を下がったとこに「御池」があった。
ちょっとした崖下に水が染み出している。雨乞いをした場所という。何かいるかなと思ってのぞき込んだら、蚊群に遭遇し早々に退散。
磐座
そして巨岩あり酒が供えられる。節理が斜めに走り火成岩? 花崗岩ではないかと思ったがよくわからない。
ここまでは、比較的すぐに来れたが、山頂まではなかなかしんどかった。
前日の深夜勤で睡眠時間が短かったのも影響したかも。
名神高速道路の交通音が通奏低音のように響き、大津市南部の眺望スポットとして若者に人気の堂山も、高速道路開通の折には同じ運命となるのかと残念な気も。
最初に歩いた飯盛木の田園のほうが数段静かだ。
疲労が予想以上に激しく、苦し紛れの独り言を繰り返しているうちに行く先が明るく開けてきた。
山頂からの眺め
突然視界が開け、琵琶湖側が見えた。
先ほどの大門池が真ん前にあり、田園がひろがり、犬上川、向こうには荒神山、そして琵琶湖、対岸の湖西の山並みが広がる。
黒いアゲハチョウも飛び(写真右側の高さ真ん中あたり)、祝福ムード。
新田開発した奈良時代の東大寺関係者も、この田園の広がりをみて「よし」と思ったか。
ほぼ西の方角を見ているのだが、正面に荒神山が見えるのが何かシンボリック。
多景島も見える
そして視線を右に移すと琵琶湖に多景島が浮かんでいるのも見える。
水蒸気で景色が煙っている。
三角点の石柱
このようにして山頂の達成感を得た。
持って来たペットボトルの水を飲む。
ここからさらに登山道を進み向こう側に下りようと思ったが、道がずんずんと東側にそれていく気配を感じ、このままでは山の東に下りてしまい車から遠くなるのではと危惧、もいちど頂上付近に戻り「花の道」と案内されていた西側に下りる道を行くが、そこは藪の中だった。
突然の東屋
下山の道は唐突に整備された作業道に行き当たり終わった。
平成初期の建築物か。
ベンチに座っても、特別眺望があるわけではなかった。
砂防提下の池
出口を目指して歩くと砂防の堤防下に池があって木が倒れている。
昨冬の豪雪でやられたのか。
木はよく見ると花が咲いていて桐のようだ。
倒れてなお花を咲かせる樹木の生命力。
でも葉が出ていないので、これで枯死するかも。
桐の花
桐の木は高いので、花をこのように間近に見ることは普通できない。
倒れたことによって目の前に花。
詳細に観察する機会となった。
花の匂いをかぐ
桐の花の匂いは、甘いといえば甘い、いい香りといえばいい香りの中に、何かまじめな、地道な気分にさせるというか、机に向かい本でも開くか、といった、そんな気分にさせる香りだった。
桐の花とカエルの卵の泡
そしてもう一つ、泡状の塊、モリアオガエルの卵も見られた。
ソフトボールよりも大きくて、池には三つ確認。桐の花と混じりあって異様な趣。
このように、やっぱり山に行ってみても、見どころを水辺に見出してしまうのだった。
下山で脚がくたくたになり、運動不足を思い知らされた。
その後、車で5分ほどの町立博物館で、当地出土のアケボノゾウ全身骨格(実物)などを見学、帰宅。
大門池から流れ出る水
奈良時代の墾田、鎌倉寺院の栄華、現代のビール醸造などが田園の低山に息づく多賀・敏満寺の里。
ふところの深さを思い知らされた。