年縞博物館の内部
水辺の周辺を歩きに三方五湖を訪れ、日程の後半は主に、博物館の展示などを見て、数万年の記録が残る湖と人の営みについてあれこれ思いにふける。
福井県立年縞(ねんこう)博物館には、お隣の若狭三方縄文博物館との共通チケットで入館。
水月湖の湖底にたまった、7万年分の規則的な縞模様のある堆積物「年縞」が、横倒しの形で長さ45メートルにわたり展示されている。
壁沿いを左から右にたどるとだんだん古くなり、最初の1000年分は幅が広いが、そこから先は堆積物の重みで締まって1000年分で1メートル以下になっている。
鬼界カルデラの噴火が7253年前。鹿児島南方の太平洋から降ってきたにしては厚くてびっくり。
氷河期の終わりが1万1653年前。
28888年前、大山の噴火。
3万78年前に、日本最大級の姶良カルデラ噴火とあり、5万9500年前にも大山の噴火があった。
これらの噴火では厚く火山灰が積もっているので、その際にはいずれも動植物、そして人がいたとしたら壊滅的になっていただろう。
1〜2万年に1回は、破局的な事態が訪れているようだ。
水月湖の年縞は7万年ちょっと前に始まっている。そこから下の層は堆積物が混ざって年代がきっちり計れないという。しかし、さらに下部には12〜13万年前ごろとされる年縞の状態がみられ、最終的には73メートル掘ったところで岩盤に達する。水月湖の歴史は20万年よりは新しく15、16万年前くらいだと館内のシニア解説員の方から教えてもらった。
つぎに、隣の若狭三方縄文博物館に入館。
こちらは「縄文のタイムカプセル」といわれる鳥浜貝塚を紹介する若狭町の施設。コンクリート製の巨大竪穴式住居のよう。
鳥浜貝塚周辺
館内は写真撮影禁止。
三方湖の南岸、鰣(はす)川の河口に近い湿地から見つかった鳥浜貝塚の遺物もまた、水月湖と同様に沈降する地盤と、湿地の泥によって守られた。
土器は古くて1万3000年前くらいから。それは氷河期の末期だった。
1万2600年前のウルシの木の小片も見つかったそうな。
ウルシは、日本では人里近くにしか生えていないことなどから、日本にはもともと自生していなかったとの見方が有力になっているそうだ。
そして衣の素材である大麻も、そこらへんに自生はしておらず移入された植物。そして、アフリカ原産のヒョウタンは1万年以上前の出土物の中にあったという。水筒として長期の航海には必需品だっただろう。
切れ味のするどい黒曜石は、長野や隠岐の島、奈良の二丈山、香川産。
縄文時代の人は、まわりの自然を熟知して、有用なものをより分けて利用するだけでなくて、遠方と広範囲に交易をし、必要な道具や技術を身に着けたようだった。
この日は、同じ三方地域の藤井遺跡に関する展示があって、実はこれを見たかったが、思ったよりは展示が簡素で少し物足りなかった。
藤井遺跡は小浜線の藤井駅付近から出てきた縄文時代からの遺跡で、ちょうど鳥浜貝塚があまり利用されなくなって以降の時代に遺物が出てくる。
鳥浜貝塚の場所が、5000年前ごろに地滑りに見舞われるなどして住めなくなり、古三方湖の南岸に位置していた藤井地区に移住した、というようなことだったのか、などと想像するも資料が少なすぎてわからない。
興味深いのは、東側からの尾根が延びて平野に接する部分にある同地区が、弥生時代になると拠点的な集落となり、古墳時代までの遺物が出、そして現在も集落があるので、縄文時代からスムーズに暮らしが続いてきたような印象を受けることだった。
鮒バーガー
さて昼になった。もういちど年縞博物館にあり、併設のカフェ「縞」で、期間限定のメニュー「鮒(ふな)バーガー」を食べる。
三方湖で、伝統の漁法「たたき網漁」によって捕獲されたものを使用。
揚げたフナがはさまれていた。タラなんかの白身魚よりも身離れがぱらぱらと細かく「フナの食感」がする。
滋賀県に住んでいるので何度かはフナの煮付けなどを食べる機会があったので覚えのある、淡白なフナ味だった。
鳥浜貝塚から出土した魚類では、マグロやタイなど海の魚もあるが、圧倒的に多かったのがフナの骨だという。
海に出なくても、鳥浜貝塚の目の前に広がる三方湖で、大量に捕れたのがフナだったのだろう。湖の一角にいけすを作ってしばらく活かすことも、海産魚と違って簡単にできただろう。
縄文人がよく食べた、三方湖のフナ
縄文時代から食べ続けられてきた三方湖のフナ。
これを食べてみて、三方五湖と、縄文人とつながった気になってみた。
鳥浜貝塚付近。現在の小舟
外に出る。鳥浜貝塚のあった場所は公園と船溜まりがあり、現在のフナを捕る小舟も、サイズ的に縄文の丸木舟とそう変わらない。
鳥浜貝塚西側の丘から東北方向を見る
南東側を見る。手前の平野は、縄文時代は湖(古三方湖)だったという
鳥浜貝塚西側の高さ数十メートルの丘に登ると、木々が生えているものの南や北の眺望が得られる。
愛宕神社となっており、尾根筋をいくと、平たくならされた土地も段々状につくられている。ここからだと、木を切り倒せば北や東(三方湖)や南(古三方湖)の眺望が得られる。
鳥浜貝塚の縄文人のメーン住居は、浜よりは丘の上にあったのではないか。という気もするがどうなのだろう。
さて本日はもう一館、舞鶴若狭道で行くこと約20分の、県立若狭歴史資料館(小浜市)にも行った。
そこで、バーガーでも提供されたフナの漁に関する展示がしており、鳥浜貝塚出土品のうち重要文化財はそちらで展示されているのだった。
縄文時代前期の鳥浜貝塚丸木舟1号
そこには、付近で計9艘見つかった丸木舟のうち、いちばん古い1号が展示されており、展示物の写真撮影も自由にできた。
丸木舟は、杉の木で作られる。なお、縄文時代の中期以降になると、浅くて波静かな湖の航行に特化した浅底タイプの丸木舟が登場する。
漁具や植物を編んだ製品、そのほか石臼、石製のもり、木製の弓など、縄文時代の暮らしを知る数々に見入った。
見終わったころには午後4時半で、早朝から半日を費やしたこの日の三方若狭めぐりも終盤となった。
縄文のタイムカプセル鳥浜貝塚と、地球のタイムカプセル水月湖の年縞。これらは、沈下しながらも土砂の堆積が続くことで、数万年にわたり「平衡状態」が保たれている三方五湖からもたらされていた。
鳥浜貝塚は7000年以上もの間、利用されていたが、その年月の長さは、千数百年の時間しか経過していない「日本」の歴史の数倍。
現代の社会は、ひと世代違うごとに生活はがらっと変わってしまうのに、縄文時代の前半では、同じ暮らしが数千年続いていたように見える。人口も増えない。自然の恵みは豊かだが、けっこう厳しい暮らしであっただろう。三方五湖の自然に埋め込まれた地球と人間の暮らしをめぐってばくぜんとした思いにふけった。