2019年04月03日

酒波寺、境川、百瀬川

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境川と酒谷寺の門

3月末から強烈な寒の戻りがあって、暖冬だったにもかかわらずここ滋賀では4月に入っても桜がほとんど開花していない。
まだ漁労シーズンは始まらず川地形見学。
ここ高島市今津町の酒波(さなみ)。山のふもとでも、陰のところは雪がうっすらと地面を覆っている。



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酒波寺の参道

酒波寺には有名なエドヒガンの古木があり、参道の奥、杉木立の間からピンク色がのぞいている。

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山門に至る石段

酒波寺の開山は行基と伝えられ、古くは五十六房をもつ大寺院であったという。
1556年、浅井長政が修復するも、1572年、信長の焼打ちに会い、その後真言宗智山派の寺として復興し現在に至る。
同派の総本山は京都の智積院。
山城の蟹の寺、蟹満寺(かにまんじ)も、同派の寺院だった(2016年11月10日記事「木津川のアート、蟹」参照)。毎年4月の蟹供養ももうすぐだ。

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エドヒガンの古木

エドヒガンは高さが20メートル以上もあり、山門を登った石段の上から見る。
木の上のほうは咲いているが、下にいくほどつぼみとなっている。
ソメイヨシノよりも開花がはやいエドヒガンでさえも、ここ高島では、ちらほらか3分咲きといったところ。

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赤坂山方面への山道入口付近

酒波寺のすぐ南を流れる境川は、山地を深くえぐったような谷をかたちづくっている。
谷が深いわりに、川が小さくて、これは何だろうかと地図を見て思っていた。
谷沿いに道路が整備されていて、山中の家族旅行村への案内看板がある。

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しばらく谷に沿って登ると急カーブがある。
上のような流れがあったが、谷の終わりがすぐそこな割には、流れが多かった。
これは、雪解け水もあるだろうが、山の向こうにある淡海湖からトンネルを通じて水が流れているためではないかと思う。

淡海湖は大正時代に完成した農業用のダム。
石田川上流の谷から、南へ長さ数百メートルのトンネルを掘れば、境川の谷に流下することに着目した土木事業で、いわば人工的な「河川争奪」。

境川は石田川上流の水の一部を分けて下流に流す導水路の役割を果たしていたのだった。


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前の写真を遠望する(中央やや下の白いところが谷川)

谷は、奥の山が終点で、その山の尾根の部分を道路が走っている。
尾根の向こうには石田川の水をためた淡海湖が横たわっているはずだ。

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山の上

その山の最上部は新雪があった。北西の季節風をまともに受ける雪深い場所のようだ。
標高は500メートルちかくあるだろう。
淡海湖と、境川への導水部分を確認したかったが、雪のため次の機会にすることにした。

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北向きの眺望

家族旅行村の手前で、肝を冷やすような急斜面沿いを道が通り、眺望がひらけた。
北東の方角で、琵琶湖や、琵琶湖に突き出た海津大崎、手前のマキノの平野が一望できる。
平野の中央を手前から奥へと蛇行しているのが百瀬川。
百瀬川の左には、砂防のための遊水池が見える。

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深い谷

さらには東側を見やると、急斜面となっていて、百瀬川の深い谷が刻まれている。
平野部との高低差は300メートル以上あるだろう。
平野は沈降していて、山地は隆起しているのだろうか。平地と山地がはっきりと地形が分かれている。

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百瀬川

湖西の清流、石田川との河川争奪の舞台として知られる百瀬川。
大きな川でもないのに広い扇状地を形作っている百瀬川には、石田川の上流だった谷のひとつが、断層の動きで百瀬川に下るようになった。
石田川の谷は断層をまたぐように西に流れていたが、断層の西側が東側に対して隆起して、水が行き場を失って土砂がたまり、現在の家族旅行村がある平たい土地を形成。あげく、相対的にいちばん低かった東側の百瀬川の谷に落ちるようになったと考えられる。

いったんつながった百瀬川の谷には大量の土砂が急激に流れ落ちる。
いまも盛んに土砂崩れがあって、河原は石や砂利がいっぱいだ。河川争奪は火山灰の堆積から2万9千〜7千年前に起きたという説もあるそうだ。

百瀬川の下流に降りると、たしかに川の割に河原が広い。
水も思ったより流れている。やはり雪解けのせいだろうか。ここより下流に行くと、伏流してしまうのか、あるいは農業用水にとられるのか流れが少なくなっていった。


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百瀬川の下流から野坂山地をみる

下流の橋から山のほうを見ると、雪で山頂部が白くなった赤坂山などが見える。
巨大な壁のように高さがそろっていて、やっぱり隆起してできたのだなと思わせる。
土地がべりっと直線状に割れて、ぐんぐん高まっていくみたいな様子をイメージする。

あすこの高さになるのに、どれくらい時間がかかっただろうか。琵琶湖が現在の形になったのが40万年前というから、たぶん周りの山もそれに呼応して、数十万年とか100万年くらいの時間をかけて隆起したのではないか。

逆に平野部はどんどん沈降している。

もしこのまま土砂の供給がなければ、平野部はいずれは沈降して琵琶湖に飲まれてしまう。
げんに湖岸沿いでは、湖底に沈んでしまった村の跡もある。

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境川河口付近からみた琵琶湖。竹生島、伊吹山を望む

古代は堤防も何もなかったから、土砂を含んだ洪水で、ホースを右へ左へとまき散らすようにして土砂が積もっていっただろうが、堤防で川を固めて水の流路を固定して、土砂の堆積が見込めないとすると、どうやって沈んでいく土地を守るのか。

もっとも、沈降の速度は100年とか200年では問題にならないと思うが、数百年か数千年に一度は断層が動く大地震があったりし、地滑りを繰り返すうちに、沈んでしまうかもしれない。数千年や数万年後、はたしてその時代には人類のくらしはどうなっているのか、それは何ともわからない。。。

百瀬川流域の河川争奪現場から扇状地、伏流水、天井川、遊水池をめぐる「百瀬川めぐり」をいつか挙行してみたい。
本日は下見にとどめる。

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〈おまけ〉今年もチューリップが咲きはじめた
posted by 進 敏朗 at 17:49| Comment(0) | 河辺の叙景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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