2019年03月03日

夜久野溶岩台地行(下)

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なだらかな府県境

京都府内で唯一といわれる火山活動の地形、夜久野が原。
その地名の由来は「焼け野」からという説もあるという。
焼けたような黒い土が広がる溶岩台地。
福知山市夜久野町の兵庫県との府県境は同じ台地面上にあってなだらかだった。
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宝山

その交差点の北側にそびえる小山が、京都府唯一の火山といわれる宝山(たからやま、またはたくらやま、349メートル)
ここから車で、山の東麓の「宝山公園」駐車場に停めると、もうそこは海抜220メートルくらいで、残りの高低差は130メートルに縮まった。

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マンサクの花

午前6時の予報では夕方までもつとのことだったが、早くも午前中からぱらつき始めた。
気温は10度あるかないかで風はなく、まあこの季節にしては普通だが小雨まじりでひんやりとしている。
11時半過ぎから登山。
丸太で階段がしてあって、やや坂は急だがのぼりやすい。
山の中腹も段々畑状になり、紅葉の憩の場にしようとしたのだろうか、改変が著しい。
5分もしないうちに、いつものようにハアハアと息切れ。前日も北山にのぼったという友人S氏は息ひとつ切らさない。
3月3日だったためか、正午、ひなまつりのメロディーが溶岩台地に流れた。

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山頂付近からの眺め

20分ぐらいして、山頂付近にさしかかり、眺望が開けた。
「ビューポイント」の広場よりちょと手前の登山路からのほうが、台地のようすを観察しやすい。
中央から右にかけ、高さ50メートルくらいの土地の高まりがはっきり確認できる。
「溶岩台地」というものを、観察するには良い場所なのではないか。

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赤い石

宝山はスコリアでできている火山砕屑丘(さいせつきゅう)。
石は上の写真のように赤かった。
赤いのは鉄分を含んでいるためだろう。
玄武岩は鉄やマグネシウムを豊富に含んでいて苦鉄質とかいわれるが、そのわりに鉄資源とはならない。
これを高温で溶かし、成分を分離して鉄やマグネシウムが取れるはずだが、鉄鉱石などに比べれば含有量が低くてペイしないのだろう。
そのかわり、玄武岩質の夜久野が原を、アルカリ分を入れて土壌改良すれば、そこは植物の成長に必要なマグネシウムや鉄分に富んだ土壌となって、野菜栽培にはプラスとなっている。

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宝山山頂

この宝山は、約30万年前に噴火したとみられている。
38万年前ごろ、溶岩が大規模に地底から流れ出て夜久野が原ができる。
それから数万年し、2度目の溶岩流があり、第1次の溶岩台地の上に乗っかり、台地中央部を形成。
宝山の噴火は夜久野における第3次の活動となる。
以後、現在に至るまで噴火や溶岩流はないから、夜久野での火山活動は打ち止めとなったのかもしれない。
30万年、まだ日本に人類はおらず、大陸では北京原人が暮らしていた。そんな遠い昔。
琵琶湖はこのころ、現在と同じような姿になっていた。


頂上は噴火口を取り囲んで平らになっており、左回りに回っていく。

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すりばちの形(進路から後方を振り返る)
杉木立で見通しがきかないが、すりばち状の形が確認できる。

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すり鉢の底

登山路は途中からすり鉢の中に降りて、火口からの眺めも。
この真下の地中から、高温の噴出物が吹き上げてきた。そのときはあまり流動性はなくて、小山の形になった。それは富士山とかにくらべれば、かなり小規模なものだったろうが、それでも比高150メートルの山ができるわけだから、一帯の山火事とか、噴煙によって周囲の木が枯れるとか、いろいろあっただろう。
噴火口は地図で見ると「C」の字を90度右回転させたように南側が切れていて、その谷を伝うように噴火口を出る。
駐車場に戻ったら12時45分で登り始めから1時間あまり。
低山めぐりは適度に終わった。
昼食へ道の駅へ。
いつもは弁当持参のことが多いが、今回は、この夜久野高原のそばを食べ、高原を味覚で確かめようという趣向。

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そば
十割そばは夜久野産そば粉を使用しているが、黒豆入りそばは、北海道産など国内そば粉使用とのこと。
かけそばの前者は1080円、後者は600円と値段が大きく違っていた。
地元産は高いが、これを食べねば夜久野高原を味わったことにならない。
火山性の土壌でも育つといわれるそば。しっかりした麺を堪能した。

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夜久野の地質図

市町村合併の以前に建てられた化石館の地質案内図は旧夜久野町の範囲が示されていた。
溶岩台地は左端真ん中やや下の「中部」と書かれた文字の右隣、濃い茶色の部分。
溶岩台地の広がりは、この左側の兵庫県側にも広がっているのに、町境までしか書かれていないのが残念だ。
しかし夜久野は、川ひとつ隔てても地層が違っているようで、古生代から中生代、新生代までいろんな地層が分布しており、化石採集でも非凡なものがある土地のようだった。

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宝山から吹いたとみられる火山弾

ただ化石についての展示は詳しかったが、火山活動や溶岩台地についての展示はほとんど無かった。
そこで受付のおじさんに「夜久野町史」を見せてもらい、そこに宝山や溶岩台地についての記述があったので断わって写真に収めた。
もし夜久野に、この溶岩が噴出しなかったら、溶岩台地の西の直見川と、兵庫県側の磯部川は一本の谷でつながっていたのではないか。
但馬地方には、本州でもっとも標高の低い101.4メートルの中央分水界がある。夜久野の溶岩を取り去ったら、そこには同様の標高の分水界が出現していたのでは。
でもこの場合、円山川と由良川の分水界なので、どちらも日本海に流れるから中央分水界ではなかった。

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土塁と石柱

その京都府兵庫県境に沿って、土塁のようなものがあって、石柱が立っている。

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国境を強調していた

その石碑は「これより東は丹波」とのことで国境を示していたのだった。
福知山が「福智山」と刻まれていて、もとはこちらの字が使われていたようだ。
来年の大河ドラマが明智光秀で、福智山は明智光秀の「智」からの名づけと知った。
国境が平坦なため、このように土塁を設けて隔てていたのか。
まさに国境の壁だ。
そしてこの赤黒い6角形をしたこの石柱。
これはまさに玄武岩の柱状節理ではないか。

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石碑の素材

玄武岩の大規模な柱状節理は、この石碑から東に2キロほどの「玄武岩公園」で見ることができた。
6角形の石碑は先ほどの土塁ほか、お寺などにもあり、溶岩の恵みを利用しているようだった。

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石材を掘った跡か

石材業が盛んだった夜久野。玄武岩公園では、河谷での採掘の跡などを確認。
野に落ちていた穴だらけの溶岩とは違い、ち密な質感だ。

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神社の池

兵庫県側の溶岩台地の西端、和田山町宮の神社では、岩からしみだした谷水をひいた立派な池があり、コイ泳ぐ。
背後の台地が浅い割に水量が多く、岩間から水がわき出しているようだった。クレソン、セリ群落も広がる。
夜久野が原ではほかにも、宝山の周囲などでも水がわく沢があるらしきことが「夜久野町史」の記述にもあった。
火山地形を歩き、のぼり、食べ堪能。

考えてみれば郷里には大山という巨大な火山があったのに、その存在感がありすぎて火山地形にあまり目を向けることがなかった。
近畿では少ない火山地形で、しかも1日でまわるのに適度な大きさだった。
道路開通にともなう台地の開削や、山に道をつけるため別の土地から持ってきた砂利をまき、敷くなど、もともとの山の地質や地形がわからなくなるくらいの改変も目立ったが、火山地形や台地の形そのものに注目することで、大地のつくりについていろいろと楽しい観察となった。

posted by 進 敏朗 at 12:45| Comment(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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