神田川の橋(午後3時ごろ)
日帰りで東京を訪れた。
新幹線のぞみの格安プランがあって、早朝出発、深夜帰宅で通常よりも2割も安くてびっくりだ。
東京の博物館や美術館、企業、個人のギャラリーで開かれている展覧会の質、量は関西の比ではなく、いつも羨望をつのらせる。
この日は国立博物館の顔真卿展、江東区の竹中工務店本店にあるギャラリーでの「木下直行全集」を見る。
最高峰といわれる書や、つくりもんについて学べて興味深かった。
午後から東西線で「早稲田」下車、の穴八幡宮を見、そのまま北上して早稲田大の前を通り、ギャラリーの場所を探していたところ神田川に突き当たった(冒頭の写真)。
深く掘りこまれた神田川
まったく興趣をそそらない、深く掘りこまれた川。
もし落ちたら上がるところがない。水は深くないんだけど、落ちたら最低でも骨折は免れないだろう。打ち所が悪かったら死ぬだろう。
橋の上から川を眺めて足がすくむ。
排水をもっぱらに設計されたことは一目瞭然だった。
ゆるやかなカーブが地形を反映しているようだ。
神田川の生物
こんな神田川でも、魚や生き物すんでいると説明がある。
フナ、コイ、ドジョウ。クチボソ(モツゴ)、ヨシノボリもいるぞ。
ニシキゴイ、金魚が野生の魚と同列に描かれているのは、都会を感じさせる。
水質の変化
年ごとの水質の変化もあって、2000年以降は、琵琶湖の南湖並みか、それよりもきれいな水質となっているんだけど、年によっては極端に悪化することもあるようだった。
流域がほとんど都市域という川にしては、水質は悪くない。
関口町
地名についての説明版もあった。
神田川上水は江戸時代に開削されたという。
井の頭の湧水池から引かれた上水は、目白の台地の南側に堰が設けられ、下流に分水していた。
堰があったから関口。納得の地名だ。
江戸名所図会に掲載の大洗堰の説明
江戸時代の絵図によると、滝のような構造物で、だいぶ大がかりな堰だったみたい。
堰の跡
水を分けていた堰の跡。断面が五角形のしっかりとした石柱が残っていた。
それは現在の神田川の水面よりだいぶ高い。
左が堰で、右が神田川
横から見ると上の写真のようだ。
もし神田川を掘り込んでいなかったら、写真右の右岸のほうが、洪水に悩まされてしまうだろう。
水神社
そんな堰があった場所だったからか、神田川の左岸、北側に水神社という名の小さな神社があった。
鳥居が近年の台風で倒れたそうで新しくなっている。
石段上からの眺め
神社の石段の上には大きなイチョウの木が並んでいて川を見下ろす位置にある。
文京区の指定樹木となっていた。戦前から生えていたのだろう。
神田川のこの付近は江戸川と呼ばれていたそうで、新江戸川公園のあたりは左岸側が文京区、右岸側が新宿区で、左岸側の上流には豊島区の東端が細長く切れ込んでいて、三つの区がせめぎ合っている。
台地と川があって、大きな堰もあったから、土地の分かれ目、区界となっていることにもなんか納得がいく。
肥後細川庭園の入り口
水神社に向かって左隣、西側に「肥後細川庭園」があった。
門の前で案内を見ると、入場が無料ということであった。入らない手はない。
もはやギャラリーの場所探しはそっちのけだった。
水が抜かれた庭園の池
池の泥を浚渫するため、水が抜かれていた。
泥がたまっている。なあんだと思ったが、水は完全になくなることなく少し流れている。
水はどうやら、北側の台地からしみ出ているようだった。
水が抜かれたことで、かえって、池への水の供給のしくみが詳しく観察できる機会のようだ。
源流と小川
標高30メートルくらいの台地の崖から、水しみだしていて、小川となっている。
こうやって水が供給されるから、きれいな水が池に絶えることはない。
その小川、流れが緩やかで、メダカとか放したらちょうどいいのではないか。
まさにこういう場所を見たかったのだった。
琵琶湖博物館エントランスの、なんちゃって清流とか、この江戸時代設計の庭園の足元にも及ばず恥ずかしい思いがする。
高い場所から見る
水の流れが池底の泥上に澪筋を描いている。
右下に、青い籠が見える。庭で草刈り作業をしていた男性に尋ねると、これは、池の水を抜くに当たり捕獲した生き物を避難させているとのこと。
3年にいちどはこうして浚渫が行われるのだという。
東京の都心に、こうした自然地形を生かした庭園があることを今さらながら知って驚きを禁じ得ない。
事前に調べもせずたまたま訪れた場所での発見にすがすがしい気分となった。