2017年04月28日
瀬田川右岸下り(中)
瀬田川右岸を石山寺方面へ南下
うららかな新緑の日、瀬田川右岸を歩いて下った。
国道1号線、東海道本線、東海道新幹線、名神高速道路の橋下をたてつづけにくぐる。ここがいかに交通の要衝であるかを物語っている。
古代の壬申の乱最終決戦は瀬田の唐橋を舞台に繰り広げられた。軍事の要所でもあった。
でも、この辺を車で訪れると慢性的に渋滞していて狭苦しい場所だなと思っていた。歩いてみると川沿いに広い歩道があって、景色はまるで違っていた。
道端のビオトープ
もうすぐ石山寺、という歩道の脇にビオトープ出現。
土手も緩やかに、浅場にメダカ群れ近くで観察
メダカ群れる浅場
細やかな造作でしばし見入る。池づくりの参考になること多し。
土地がゆるやかに北に傾斜していて、瀬田川とは逆の方向に水が流れている。
金魚もいて
石山寺に参詣する人に憩ってもらおうとの趣旨なんだろうか。
これにくらべると、先日旧草津川の公園でみたせせらぎはつくりの細やかさで見劣りは否めない。
朗澄の池
ビオトープだけじゃない。山門に至る手前の道沿いに池があった。
これは石山寺中興の祖、朗澄を記念する池であるらしい。
朗澄律師は絵もうまくて多宝塔の壁画はこの人が描いたのではないかと言われる。
しかしすごいのは、「石山寺縁起」によれば死後、鬼の姿となって一切経や石山寺の聖地、さらには畜生類を引き連れて万民の平穏を守ったということで、池をのぞむ庭園が、鬼となった朗澄が遊ぶ癒しの空間であるようだった。
鬼になったという伝承があるが、平安末期から鎌倉初期にかけての人物で意外に新しい。
岩穴
さてこれは石山寺境内の岩穴。
一帯は石灰岩や、石灰岩が変成した硅灰岩の丘になっていて、瀬田川のすぐとなりにそういう奇岩の高台で眺めもいいとあって、古くからなにか特別感をかもしだしていた場所だったと思われる。
石山硅灰石
石山寺で、寺の名のおこりとなった硅灰石を見る。
桜の葉っぱでちょっと隠れてしまう。
別角度からも見る
そこで岩が見えるような別角度からも見る。
滋賀県南部の低山はほとんどが花崗岩でできているのに、ところどころ、石灰岩起源の場所がある。昔からある寺や神社は、そういう奇岩・絶景などの場所に目を付けて建立された場所も多いので、しぜんと寺や神社を訪れることが多くなる。
岩の肌目
硅灰石は石灰岩が熱変成を受けてできた岩で、それは大理石と同じようなものではないかと思うが、違いは何なのか。肌目を拡大すると、細かい透明感のある六角形のような粒になっていた。黒っぽく見える岩は、磨くと大理石のように白くつるつるになるのではと思われた。
岩アトラクション
瀬田川を見下ろす「月見台」の近くにはこのように花崗岩を積み上げ峻厳な岩山を模した造作も。
石山寺からの瀬田川の眺め
樹木がはびこっており、下には道路も走っているが、昔は瀬田川の眺めが見どころだったはず。花崗岩の岩山はそうしたムードを高めるための演出だっただろう。
石山寺本堂の近くに咲いていたシャガ
さて、石山寺を出て南下する。
滋賀大の環境調査艇「清流」
川は一様な広さ、ゆったりさだが、これはなぜかというと、もう少し歩けば南郷の洗堰に行きあたる。
その堰で水がプールされており、琵琶湖の水位操作は洗堰によって行われている。だから、その上流部で眺めても流れが見えない、川っぽさが感じられないのは当たり前のことだったと今さら気づいたのだった。
大日山
南郷に至る手前で川の向こう岸に見える低山は大日山といい、かつてはもっと瀬田川に突き出しており浅瀬が広がっていたという。そこで戦乱時に唐橋が落とされた時でもこの付近から渡河できたのだという。
しかし明治に入り、南郷洗堰建設の際に山が削られ川幅が広げられたという。
瀬田川洗堰
こうして瀬田川洗堰にたどりついた。
ここが琵琶湖の水位を調整する水位操作の要。
長いこと筆者はこれのことを「南郷洗堰」「南郷の洗堰」と呼んでいたが、南郷洗堰は明治時代にできた古い堰のことで、今では取り壊されてこのやや上流に遺構が残っている。
南郷洗堰の遺構
瀬田川洗堰下流
瀬田川洗堰の下流から川をみると、上の写真のように流れが始まっている。
じっさいの瀬田川の流量はここから流れ出ている水で、ここまで見てきたゆったりした川というのは、いわばダム湖を見ているのと同じようなものだった。だから、洗堰ができるまえの瀬田川というものを想像しようと思ったら、ここから下流部分の川を観察しないといけないのだった。(つづく)
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