
琵琶湖が瀬田川にかわる境界付近。瀬田川の「源流部」?(大津市晴嵐1丁目・午前10時半ごろ)
新緑まぶしい季節、石山駅で降りて、瀬田川右岸を歩いた。
瀬田川は琵琶湖から水が抜けていく唯一の川で、県内のほかの川とは似ていない。
まず、琵琶湖との境界はどこなのか?
右岸側(川の西側)では、晴嵐1丁目あたりのはずだが行ってみると看板はなかった。

「アクア琵琶」のトイレ壁にあった「琵琶湖の情報」(この日、後で訪れた)
あの「瀬田川/琵琶湖」の看板は左岸側のもの。
現場で目を凝らして、琵琶湖の幅が狭まっていている地点はあったが、くっきりと、そこから流れが始まっているとかなっていればわかるが、一様に水面が続いている風にしか見えない。
その付近でコアユ釣りの人がいる(冒頭の写真)。
コアユ釣りができるということでたぶんその地点は琵琶湖なのか?
今年はコアユの極端な不漁がニュースになっている。
のぞかせてもらうと2匹入っていた。とりあえず魚の姿は見られたが、やはり不振、不漁はくつがえせない。

屋形船と東海道線鉄橋を渡る新快速
この日は流れが弱い。平水時だろう。
瀬田川は、京都府に入ると宇治川に名がかわり、さらにいわゆる三川合流地点から下流は淀川と呼ばれる。
これが地元でのふつうの呼ばれ方だろう。
ところが国土交通省は、淀川の長さを75キロという。それは瀬田川と琵琶湖の境界から大阪湾の河口までの長さで、国土交通省的には瀬田川も宇治川も「淀川」なんだという。
つまり、三川(宇治川、木津川、桂川)が対等に合体して淀川になる、合流するまでは淀川じゃない、というぼくら住民がいだく見方ではなく、瀬田川―宇治川が淀川の本流、あとの木津川、桂川は支流にすぎないという。
国交省はこれを、三川の流量のうち半分近くが宇治川(瀬田川)で他の2川より多いという理由づけをしていた。
なるほどそういうことか、といったんは思ったのだが、じゃあ瀬田川の上流にある琵琶湖や、そこに注ぐ川はどういう位置づけなのかと新たな疑問が生じた。
というのは、山陰にある斐伊川は153キロということで、そこには宍道湖や中海も川の一部に含まれ、河口は日本海につながる境水道ということになっている。そこまで「川」としての統一感にこだわっている。
それだったら淀川も、滋賀県最北端の高時川源流から長さを計算しなくてはならないが、なぜかそうしていない。斐伊川と淀川、湖を川の一部とカウントする川と含めない川とがあって、川のダブルスタンダード、矛盾が気になる。

ミシシッピアカミミガメ2匹とオオバナミズキンバイ
琵琶湖ではびこる外来植物オオバナミズキンバイは、流れ下って瀬田川岸を覆おうとしていた。
同じく外来動物のミシシッピアカミミガメが甲羅干しをしている。
バス釣りの人もちらほらいて、ブルーギルも多い。
おじさんがブルーギルを釣って、それをアオサギに投げると、アオサギが食べようとする。だが、ことごとく上空から舞い降りたトンビに横取りされる。トンビのほうが大きいので、アオサギは抵抗できず悲しそうだ。
淀んだ場所を好み、流れを嫌うブルーギルが生息できるほど瀬田川は、流れが緩く、川っぽさが感じられない。こうして生き物を見ていると、実態として琵琶湖の南湖と変わることはない。

瀬田の唐橋
しばらく南に歩くと瀬田唐橋に出る。
壬申の乱最後の決戦地となった瀬田の唐橋。
長らく瀬田川に架かる唯一の橋だったのだが、古代の唐橋は、現在の橋よりも80メートル下流で遺構が見つかったという。

唐橋がかかる中の島の南端を見る。初代の橋はその付近を通っていたという。
川底は岩盤で、それがために橋脚を打ち込むことはできず、組み立て式の橋だったという。
その川底は海抜80.6メートル。現在の琵琶湖の水面は84メートル。
この瀬田川あたりは、川底が隆起しているといわれる。数百年にいちどは地震で隆起を繰り返しているのではないかというのだ。
瀬田川では、川底に砂がたまり浅く、水はけが悪いことが原因で、明治時代までは湖岸では水込みをたびたび起こしていた。しかし、砂を浚渫して南郷洗堰を設け、さらに戦後に堰を新造し能力アップ、水込みの問題はだいぶ解決した。
なんだけど、たとえば洗堰の川底そのものが3メートルとか5メートルとか、隆起してしまったらどうなってしまうのか? 琵琶湖岸全体が沈没だ。などと想像するが、当面は大丈夫だ。すぐには起きないだろう。

食堂のしじみ汁
上の写真のしじみ汁は、石山寺を出たあとで食べたものだった。
瀬田川はもとシジミが名産で「セタシジミ」という琵琶湖の固有種。
しかし瀬田川では、水の通りをよくするため大量の砂が浚渫された。そのためシジミもかつてにくらべれば漁獲は大幅に減ったという。
瀬田川歩きはさらに続いた(つづく)