三方五湖をめぐりながら、江戸時代にあった地震の痕跡を見、さらには縄文人の生活環境についても考えてみたのだった。とにかく、地震があって地面が盛り上がり、湖の出口の川がふさがれてしまうなんて、ショッキングな事態だ。

宇波西川の川口があったとみられる河口神社周辺(奥が東南・菅湖の方向)
江戸時代の小浜藩は2年がかりで水込みとなった水月湖と、海への出口・久々子湖を結ぶ水道を掘り、水月湖(それと水面がつながっている菅・三方湖)の水抜きに成功。これによって水位が下がり、5湖ともが現在のような海抜ゼロメートルの湖となった。
その際、久々子湖の汽水が水道を逆流して水月湖に流れ込み、水月湖の水深9メートルより深い部分は比重が重い汽水がたまり、淡水と混ざらず、二重底の湖ができたんだという。水月湖の「二重底」はこの江戸時代の工事によるもので、それ以前は淡水湖だったという。

浦見川水道の開鑿まで淡水湖だったという水月湖(2014年10月12日撮影)
これがまあ、江戸時代の大地震が引き起こした三方五湖の水込みと、浦見川開鑿のあらましなのだが、調べていてどうしても気になることが生じた。
現在は汽水湖となっている水月・菅湖だが、地震の以前はずっと淡水湖だったのだろうか。
江戸時代の大地震では、菅湖から久々子湖を結んでいた宇波西(うわせ)川が3.6メートル隆起したと記録されている。これが正確なら、現在その地点で測定した川底が海抜約7メートル前後とされているから、地震の前は海抜3.4メートルくらいだったということになる。
ということは寛文大地震以前の菅湖・水月湖・三方湖も海抜3.4メートル。
三方湖畔に鳥浜貝塚ができた縄文時代の6000年くらい前は、気候が温暖で海面がいまよりも高かったことが知られている。
どれくらい高かったかには諸説あって、2メートルという話から、3−5メートルというものまである。鳥浜貝塚を紹介する資料では「3−5メートル」と説明されていたがまあ、数メートル高かったという話だ。
いっぽう、マグニチュード7クラスとされる寛文の大地震の震源とされる三方断層は、3000年に1度くらいの周期で動くと見られている。縄文時代の鳥浜貝塚の最盛期だった6000年前ごろから江戸時代までの5700年間に1回は大地震が起きている可能性がある。
だとすると、シンプルに計算すると、6000年前の宇波西川の河口は、海抜3.4よりも3.6メートル低く、マイナス0.2メートル。いっぽう海面は仮に現在より3メートル高かったとすると、縄文時代の菅湖の入り口は水深3.2メートルの海底だったことになる。
こうなると菅湖はいきなり外洋に接し深い湖底には海水が流れ込んだだろう。そして水月湖も汽水湖となり、最奥部の三方湖も影響を受けないわけにはいかないだろう。
しかし、鳥浜貝塚から発掘された魚の骨の大部分はフナだったといい、すくなくとも三方湖は淡水かほぼ淡水の環境だったのではないかとみられている。これをどう考えればいいのか。
別に、湖に海水が入っていても、淡水魚は川にでもいたでしょう、構やしないと思われるかもしれないがそうではない。
というのは三方湖には鰣(はす)川の名の由来になったハスや、さらに大地震の3年前、1659年の地元の記録にはワタカの名も挙がっている。

ハス(2013年6月29日、野洲川)
ハスは琵琶湖水系と三方湖にしか生息しない魚で(三方湖では近年絶滅したとみられている)、琵琶湖では、夏になると小魚を追って川に上がって来るがふだんは湖の中に生息している。ワタカは湖におり、田植えになると田んぼに上がってきて苗を食い荒らすが川にのぼる習性はない。
まあ、江戸時代以前は、地震が起きなかったか、地震があってもそれほど隆起しなかったなどと考えることもできるが、ここは実際に水月湖の環境がどうだったのかと事実に即して見るのがいちばん手っ取り早いだろう。

わずかに塩分が混じるがフナやコイが生息する東郷池(2015年6月29日撮影)
そこで、福井里山里海研究所の学芸員に尋ねてみた。
応対していただいた学芸員氏によると、水月湖底の堆積物の炭素、窒素、硫黄の比率、ケイソウの遺骸などから、淡水だったか塩分が混ざっていたのかの分析ができるという。
水月湖には20万年の歴史があり「海水だった時代も存在する」とこのこと。
ただ縄文時代については詳しく調べられていないとのことだった。
お忙しい中、素人の質問に答えてくださりありがとうございます。
このようにして、まだ縄文時代の三方五湖の地形や水環境は謎に包まれている。そこには、妄想を膨らます余地が多分に残されていると言えるだろう。
ひとつ思うのは、鳥浜貝塚が長期間にわたって繁栄していたことを見ると、三方五湖の環境は縄文人にとって住み続けたい「理想的な環境」だったのではないか。
すなわち魚がいっぱいいて捕りやすい。基本は近場で捕れるフナなんだけど、海まで行こうと思ったら丸木舟で、やすやすと出ることができた。たぶん、船から降りて浅瀬を引くことなしに、すいすいと出て、マグロなんかの大物が捕れても船に積んで村まで戻ることができた。外洋を伝って交易もできた。海の環境と淡水湖の環境が矛盾せずつながっていている場所だっただろう。そんな地形はどのようなものだったか。
いつか解明の日が訪れるのを待ちたい。
ぜひ、縄文時代の環境はじめ、三方五湖が年月とともに、地盤の隆起、沈降と海面の上昇、低下とあいまってどういう変化を遂げてきたか研究が進んでほしいものだ。再来年度にできるという水月湖年縞展示研究施設に期待だ。
ラベル:三方五湖