島式ホームの十村駅(午前8時20分ごろ)
若狭湾沿いに走るJR小浜線は1917(大正6)年12月、敦賀―十村間が開業した。
今年でちょうど100周年だ。
自宅からは車で出、まだ雪の残る国道303号線で県境を抜け27号線。倉見峠を越え、能登野で折れ、開業時の終点・十村駅の駐車場(無料)に停める。
ここから電車に乗って三方五湖めぐりを開始。旅情もアップし、3駅目の気山へ向かう。
車窓より。かつてこのあたりの田んぼは湖だったという(藤井―三方間)
敦賀行き電車は三方五湖に注ぐ鰣(はす)川の平野沿いに北上する。
355年前の寛文2(1662)年5月1日、三方地方に地震が発生。菅湖の水の出口だった気山付近が数メートル隆起し、これによって同湖とそこにつながる水月湖・三方湖の水位が上昇、この車窓から見えている一帯の田んぼは湖に飲まれたという。
琵琶湖でいえば南郷洗堰の付近が隆起してしまうようなものでそうなったら大変なことだが、南郷付近は長い目でみれば隆起しているんだという。
湖が広がったり陸地が水没したりする。湖の沿岸に住む者としては穏やかでない話だ。これはどういうことなのか。それを歩いて検証しようと三方五湖に向かったのだった。
線路と坂道
気山駅を降りると、そこは田んぼよりも数メートル高い段丘の上にある。線路の東にある国道27号線はさらに高く、その東にある学校はもう一段高い丘のうえにある。隆起を続けている地形みたいだ。
この平地と段丘の境目かちょっと東あたりに、三方断層が南北に走っているとされる。
恋の松原
気山駅から北に約1キロの田んぼの中に、石垣で囲まれた場所がある。
「恋の松原」の跡という。
ここら辺が昔の海岸線で、気山は平安か鎌倉の頃まで「気山津」という港町だったという。
今見ると、潟湖の久々子湖はだいぶ向こうにあるが、もちろん海が下がったわけではなくて陸地がこれだけ盛り上がったのだった。久々子湖の向こうに、半円形をした飯切山(78メートル)が見える。あそこはもともと島で、その左にあるリオデジャネイロの丘みたいな形をした山の間に、早瀬港があり水道が開いている。
恋の松原の下にある田んぼで、手持ちのスマホアプリ「精密な高度計」で計ると3メートルだった。
「恋の松原」説明看板
鎌倉時代にはすでに、ロマンチックな悲話が歌の題材となっている恋の松原。
「悲恋の女性の叫びが、今も聞こえてくるようです」
と結ばれている。
…あたりは静かな田園だった。
宇波西川
ここから南に向きを変え、かつて菅湖と海(久々子湖)を結んでいた上瀬川(宇波西川)に沿ってさかのぼる。
宇波西神社
十分くらいで宇波西(うわせ)神社に行きついた。
川はこの神社の前を流れている。立派な参道や石橋が付けられており地元の崇敬を集めているようだった。
江戸時代の手水鉢
この手水鉢は、浦見川開削を指揮した小浜藩の郡奉行行方九兵衛が奉納したとされるもの。
鵜のブロンズ像は、人が近づくと口から水が吐き出されるセンサー付き。
〈参考〉久々子湖と水月湖をつなぐ浦見川(2014年10月撮影)
浦見川は、しばしば釣りで訪れ、いちど歩いてみた(2014年10月12日記事「浦見川」参照)ため、今回は探索を省略。
三方五湖の各湖と浦見川の位置関係(赤線部分は下に拡大図あり)
今回記事を書くにあたり、歴史を振り返って(ネットでですが)みると、驚いたことに浦見川の開鑿は、新田開発を目的に、寛文元(1661)年8月に始まっており、9月にいったん休止した。
よりによって水路開鑿を始めた翌年に、3000年に一度動くとされる三方断層の大地震が起きて、一帯が水没してしまうとは。もちろん誰も予想できなかっただろうが、もし工事があと数年早くはじまっていたらと思わずにいられない。
…と書いてみたが、工事が終わった後に地震が起きたら、せっかく運河ができたところが隆起してしまい、もっと悲惨なことになったかもしれない。むしろ、水路開鑿の機運が高まっていたところに地震があったため、わずか2年後に水路ができたことが結果的には幸いだったかもしれない。だけど大変な難工事で「恨ミ川」とも言われ、つらいものだったことをしのばせる。
池
さて宇波西川は神社の前で、向きを変え南東の山のほうにさかのぼっていく。
ここから、昔の川跡があったと思われる西側の山伝いに道をたどると、集落があり、池が現れた。
ここで手持ちの高度計アプリでみると「7m」だった。どれくらい精度があるかは分からないが、さきほどの恋の松原から1キロくらいで、4メートル標高が高くなっている。見た目にも、付近の土地が盛り上がっていることがわかる。
学校のプールくらいの広さがある池は、川跡なのかなと思ったが、水が意外なほど澄んでいる。用水路の水が入らず、隆起した土地のピークに近いのではと思われた。
河中神社
池から約100メートル南に河中神社がある。写真手前の水路は、手前、つまり北に向かって流れており、神社の裏は、西つまり菅湖の方向にいくほど低くなっていた。この神社付近が現在の分水嶺、水分れポイントのようだ。
寛文の地震があるまでは、ここら辺が宇波西川のはじまり地点で、菅湖の湖岸がすぐ裏手に迫っていた。今では菅湖は1キロ先まで後退した。
地震の後に書かれた文書によると気山の河口は「一丈二尺」(3.6メートル)ゆり上がった(地震で盛り上がった)と記録されている。高度計もGPSもなく、「海抜」が計れないので、地震直後の菅湖の水位を、それ以前と比べたのではないか。
川跡を思わせる田んぼ。廃川ファン必見?
神社の裏手には、山に沿って蛇行した細長い田んぼがあり、いかにも川跡を思わせる。「古川」という地名も残るといい、地震の前は菅湖の出口の水路だったかもしれない。
河中神社から山沿いをぐるっと西に回って、菅湖を目指すが、予想以上に急な下り坂となっている。
訪れる前は、もっと微妙な坂を想像していたが、はっきりと土地の隆起がわかる地形。地震のものすごさを思わずにはいられない。(続く)
ラベル:三方五湖