2016年10月20日

中央構造線の露頭

高見山.jpg
奈良・三重県境の高見山(1248メートル)=中央

いつか中央構造線が見たいと思っていた。

三重県の松阪市飯高町の山奥に観察しやすい露頭があって、地図をみると滋賀県南部からだとそんなに遠くないはずなんだが、まっすぐに行ける道がなくて、地図で見ると左下、それから右下方向、また左方向…とジグザグに進む。

8時半に出、信楽から、山中を抜ける現代の忍者道「伊賀コリドールルート」や、名阪を行きつつ、2時間後に宇陀水分(みくまり)神社で一旦休憩。30分ほど過ごす。

宇陀水分神社の池.jpg
小赤が群れる宇陀水分神社入り口付近の池。奈良県の感じがした

そこから国道166号を進み、三重県境が近づくと、冒頭の写真のように鋭い三角形をした山が見えてきた。トンネル、ヘアピンカーブを通過、11時20分ごろ櫛田川沿いの波瀬(はぜ)地区に着き、「道の駅」でジビエカレーを食す。

そこから少しだけ櫛田川沿いに西進したところで左折、支流の月出川沿いの渓谷を進む。
「月出」という地名は、奥琵琶湖の湖岸にもあって、山峡の村と奥琵琶湖とでは一見違うけど、どちらも道を奥まで行った場所にある点が共通している気がした。

獣害防止の柵を開けて進むこと約15分、正午過ぎに駐車場に着いた。
自宅からは130キロくらい、所要時間は休憩や昼食を除くと2時間40分くらいで思っていたより近かった。

駐車場から、下に500メートルほど歩いて下っていく。
なおこの駐車場の3.8キロ手前で、露頭に行く道が分岐していたが、そこからは900メートル坂道をのぼっていく格好になる。

見えてきた.jpg
見えてきた

すると進路の左のほうに、上の写真のように露出した岩盤が見えてきた。中央構造線の露頭のようだ。

全景.jpg
広場から見上げる

黒い岩、赤茶色っぽい部分に、白い岩が右上から左下にかけて帯状の模様をつくっている。

中央構造線、それは九州の西部から四国、紀伊半島、中部地方にかけて続く、日本で最も長い断層。

中央構造線図解.jpg
(画像に点線を加工)

拙いが点線を入れて中央構造線を図示。

上のほうを拡大.jpg
上のほうを望遠レンズで撮る

上のほうは割とはっきりと線を認めることができる。遊歩道が付いているが、土砂の崩落や倒木もあって、立ち入り禁止となっている。

説明板.jpg
説明の看板

黒っぽい岩は海洋プレートが起源の「領家帯」の黒色片岩で、左側の白っぽいほうは、1億年前とかの、日本がまだ大陸の一部だったころの花崗岩でこちらは「三波川帯」に属する岩々。

茶色っぽい部分は、両者の境界になって、粉々にくだけた岩石でできた破砕帯ではなかろうか。

起源の違う二つの岩が、プレートの動きで、地下10キロのあたりで幅1000キロメートルにもなる合わせ目となった。それが隆起して、このような山中で見られるのだった。

近年の研究で、もともと大陸の周縁部だった日本の土地は、このように海から次々と、陸地が付け加わってできてきたことがわかってきた。

なぜ日本列島はこのような形になっているのか。
大陸や島、とくに日本のような島は、太古からかっちりとこの形だったわけではなく、長い年月のうちに動いたり変形したりすることを知った。

みそ汁に例えれば、地底のマントルは汁で、陸地は表面に浮かぶ「あく」のようなもの。
みそ汁の対流する方向が、ある時期に何かの加減で変わる。すると「あく」もそれに引っ張られてちぎれたり、引っ付いたする。

日本はもと大陸の一部で、朝鮮半島やロシア沿海州の横あたりに引っ付いていた細長い土地だったが、この中央構造線を境に、海側から新しい「あく」が付け加わった。紀伊半島の南半分やら四国などの部分。
そのころは太平洋のプレートの動きが今とは違っており、中央構造線がまさに活断層として動いていた。

が、そのあと太平洋プレートが西方向に動くようになり、それにつれて日本は海洋へと引っ張られ、大陸から分割、日本海ができる。

その際に、もとは別々のパーツだった西日本は時計周りに、東日本は反時計回りに動き、現在の8時10分を指す日本列島の形になったのだそうだ。

中央構造線はプレートの動きが変わった時期かそのちょっと前かに、動きがとまったとみられている。

熊本地震の際、中央構造線が動き出すのではと取りざたされたことがあったが、一気にこの中央構造線が1000キロにわたりずれるといったようなことは考えにくいそうだ。

「地質調査総合センター」の記事ではこの中央構造線を「古傷」と例えていた。
見た目には目立つ傷だが、それは血の出る生傷ではないということみたい。

今でも中央構造線が活断層の地域もあるが、それは中央構造線に沿って動く別物の活断層だとの説明だった(この辺の説明はよく呑み込めなかった)。

この現場で見る限り、黒い岩と白い岩、どちらの岩の上にも同じように杉の木が植林されており、岩の違いで育ちが違うとか、そんなことは感じられない。

沢.jpg


とまあ思いを巡らせた。

秋晴れの空に雲が流れる。谷間から吹きあがる風は強い。

さて、広場から見るだけなのも何なので、ロープが張ってあったんだけど、ちょっとだけ、沢に降りてみた。

白い石.jpg
白い石

白っぽい石が落ちている。ごま塩模様で花崗岩のようだ。これは、ここから下流の櫛田川でもよく見られる。

黒い石.jpg
黒い石は簡単に割れる

黒い石は、ざらざらした手触りで、手で簡単に割ることができる。黒い粉が指先についてまるで炭か鉛筆の芯のよう。これが三波川帯の結晶片岩なのか。

あとで広場のあずまやに、パンフレットが置かれていたのに気がついた。観察の助けになってありがたかった。もし可能なら、岩の見本とか、現場にある岩のどれがどれというような写真入りがあったら、筆者のような者にもわかりやすいのではと思った。

沢の水をカップに汲んで飲んでみる。

中央構造線を見ながらの一杯は格別…。

まあこうやって、日本の土地が張り合わされた現場を見ると、いろんな地形をかたちづくっている秘密の一端を垣間見れたような気がして興味深い。

表面のさらに奥にあるものが、たまたま目に見えるかたちであらわになっている。その現場を見て地質情緒にひたった。





posted by 進 敏朗 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック