
北側から見た神泉苑全景
京都市営地下鉄東西線の二条城前で降り、二条城の堀沿いに西へ歩くと、南側にグレーの塀で囲まれた一角があってその中に神泉苑があった。

南に入る道路は不自然に下り坂となっていて、神泉苑に北側から入ると、池は地面より1.5メートルくらい低いように見えた。

案内看板
この神泉苑は、自然の泉だったといい、いまでは半町四方の池だがもとは南北4町、東西2町の広大なものだったという。

敷石。赤色チャートや、緑色岩などの川石
1962年刊行の岩波新書「京都」(林屋辰三郎著)は「京都は、神泉苑からうまれた」とはじまる。この一見、特別な印象を感じられない池が、京都の肝であったという。空海が雨ごいをした。そうすると、法力によって雨が降ったんだという。

二条城の堀と門
しかし江戸幕府が成立すると、神泉苑の北側は徳川家康の二条城に取られてしまった。神泉苑の池の肝となる水湧出場所も、二条城のなかの庭園にあるといい、竜王の霊力も江戸幕府に取り込まれてしまった。
二条城の堀をみたら、出口は50センチくらいの滝になっていて、神泉苑の池よりも水面が高いみたい。

二条城堀の出口
もともと二条城の堀と神泉苑の池はおなじ水面だったはずだが、二条城が築造された時点で、切り離されて堀のまわりに堤防が築かれたのか。それが坂道の起源なのかもしれない。

神泉苑西端を示す石碑
神泉苑の東端と西橋を示す石碑もたっていて、これは地下鉄東西線を掘った際にわかったそうだ。それは「京都」掲載の地図とくらべてみると、東側については大宮通でほぼ正確だったが、東側については、壬生よりも数十メートル東寄りだった。

陸地との高低差がほとんどない池の南端
池の南端にいくと、池の水面と地面は10センチくらいの高低差しかない。これは、豪雨なんかあったら、あふれることもあるんじゃないかと思わせた。
神泉苑はいまよりもっと南にも広がっていて、南端は三条通だったという。いまではアーケードの商店街になっている。池の痕跡はあるのだろうかと南に行くと、南西側が低い土地になっているように感じられ、そこには「池ノ内町」という地名もあった。ちょくせつの池とか川とか、水気は感じられなかった。
「京都」掲載の地図によると、神泉苑の池には中島があったらしく、それは神泉苑の南側をとおる御池通があるあたりにあったようだ。その中島で、空海も雨ごいをしたんじゃないか。しかし、いまの御池通に立ってもその痕跡は、認められないのだった。二条城の堀から出た水も、神泉苑の池の水も、下流は暗渠になっていて、流れというものが見えないようになっている。人口が密集する都市部だから、すこしでも車や人が通る道を確保したいと事情があるのだろう。
いまの神泉苑よりも30倍は広かったと推定される平安時代の池や湿地を想像するのは、ちょっと難しかった。その痕跡のようなものは、残された現在の池の、水面の高さに感じられた。

神泉苑のスズメ