駅から、予約しておいた午前10時半発「こはくちょうバス」デマンド便に乗る。
琵琶湖に注ぐ西野水道に行きたいのだが、北陸線から湖岸までが案外遠い。西野水道がある旧高月町エリアを走るデマンドバス「観音号」は日祝日が運休で、旧湖北町エリアを走る「こはくちょうバス」(200円)は毎日運行している。いまではどちらの町も長浜市と合併したのだが、コミュニティーバスの運行形態は旧町ごとに異なるのだった。
なるべく目的地近くまでバスでにじり寄り、そこから徒歩で2キロほど歩く作戦。同行したS氏が、山越えの道を行きたいという。それは高低差が100メートルほどしかない低山で、尾根伝いに1キロほど北上したあと、東側の斜面を下りる行路で、手軽な低山めぐりで、「いいね」と同意した。
バスは10分もしないうちに山本の大きな集落をすぎ、山本山沿いに北上、西麓の県道沿いで降ろしてもらった。そこでは、冬の渡り鳥のオオワシを見ようと、大口径のレンズを構えた人たちが田んぼ道に三脚を並べている。
手持ちの双眼鏡で見ると、稜線近くの木にとまっている。
愛鳥家の人たちはワシが飛び立つ瞬間を写真に収めようとしているようだが、ワシはいつまでも木に止まっている。動かないんで、素人には捕りやすいのだが、とても手持ちのコンパクトデジカメでは撮れない。
S氏カメラで撮影画像を借用。

オオワシ(真ん中の黄色が嘴)
同行したS氏が、手持ちの双眼鏡をコンパクトデジカメのレンズにあて撮影する方法を指示。そうだその方法は、3月に米子水鳥公園でも教わったのだった。ちょっと手が震えただけで対象物を見失うこと数度、なんとか黄色い嘴らしきものを収めることができた。
さあここから西野水道を目指す。
湖北の山をくりぬいて、たまりがちな水を琵琶湖へ逃がすために掘られた西野水道。
それに行けば、奥琵琶湖の謎にひとつ、近づけるのではないか。

片山地区の、もと湖岸らしき石垣
ワシウオッチ地点から北上、旧湖北町の石川の集落があり、歩いているうちにいつの間にか旧高月町の片山の集落に入った。ふたつの集落はシームレスにつながっていた。なぜ旧町の時代はちがう町だったのかが気になる。もと湖岸だったとおぼしき切石の古い石垣や、それよりは新しい丸石をコンクリで固めた堤防があった。
この片山から、山越えの道に入る。明治時代から昭和の37年までは通学路だったという山越えの道を、約100メートルほどのぼり、峠に達したところで左のほうに折れて山の稜線に沿って北へと歩くと、古保利古墳群があった。古墳は3世紀から7世紀までのものがあって、びっしりと並んでいる様子が看板で示され、現物を見学した。
途中、山を走る人2名、鈴を鳴らして山歩きする人1名とすれ違い、行き来はけっこう多いようだった。
登ったはいいが、西野水道の真上から下りれるのかと思っていたらそこに道はなく、ちょっと困った。高月の工場からであろうウウウーというサイレンと、数秒おいて旧湖北町方面からのエーデルワイスが聞こえ、あせりを覚える。山に詳しいS氏がスマホで国土地理院の地形図で、ちょっと北に進めば下り道があるのを確認、事なきを得た。そこは高低差60メートルくらいの、ひときわ稜線が低くなった場所だった。もしひとりで登っていたら、道がないところを下りようとして破滅していたかもしれない。

「いっぷく場」の案内看板
この下り道の途中に看板がある。この道は、近郷の村民が琵琶湖に達するルートのようで、米俵をしょって歩いていたという。とても重くてしんどそうだ。
米俵をわざわざかついで登るくらいなら、平野沿いに山を迂回して港に出ればいいようなものだが、そうではないのではとS氏は言う。隣村を通るといろいろ面倒なこともあり、それよりは峠越えをしたほうが都合が良かったのではないかというのだ。まあ港湾施設使用料などのコストも掛かったかもしれない。それより峠越えをして、誰もいない湖岸に船着き場をつくれば、そこは使い放題、峠越えが少々しんどくても、そのほうが節約にもなったのかもしれない。
山から東側の平野に降りて南下すると、ほどなく西野水道の入り口があった。

西野水道入り口
西野水道は江戸時代も終わりに近づいた1845年に完成したという。

北の方向を見る。西側(左方)の田んぼのほうが低く見える
このあたりは、地盤が西側のほうが沈下しているのか、ふしぎなことに、山際に近い西側のほうが低くなっており、盆地の水が山に近づくように流れている。
水がたまりやすい地形であることは一目瞭然だった。西野水道ができるまでは、大雨が降ると一帯が水浸しになっていたという。
上の写真の奥に見える山の、さらに向こうには余呉湖もある。余呉湖も、そうやって山に囲まれた小盆地が沈下し、水の逃げ道がなくなっててできた湖といわれる。この西野あたりも、水道を掘らなければ、何万年かすると第2余呉湖のようなものが生まれたかもしれない。
しかしその可能性はなくなった。なぜなら山の岩盤をくり抜いての西野水道が完成したからだ。

西野水道の中
入り口付近にある無人案内所でヘルメットと懐中電灯を借り、江戸時代にできた西野水道に入る。トンネルの下には少し水がたまっていて、30メートルくらいまで進んで、引き返した。中は岩だ。入り口のところに、石組の梁があったが、あとは素掘りの壁だった。
よくもまあ、ノミで220メートルも掘り進んだものだ。おそらく、両側からじゃなくて片側から掘ったんじゃないかと話し合った。なぜなら両側から掘ると、出会う地点を合わせるのが難しいからだ。しかし、200メートル以上も掘っていくと、酸欠とか、大丈夫だったんだろうか。

2代目トンネルをくぐる
江戸時代の西野水道の南隣に掘られた、1950年完成の2代目トンネルが歩けるようになっており、この中をくぐって湖岸に出た。この2代目トンネルは、真ん中が道で、両サイドに幅50センチの排水溝が深めに掘られている。

西野水道の湖岸出口
現在の3代目トンネルは1980年完成ということで、これは、水抜き穴というにとどまらず、余呉川の流れそのものを付け替えた放水路となっている。初代、2代目の時代までは、余呉川放水路はなくて、あくまで大雨のときの水抜きがメーン、多少、水がついても稲が被害を出さねばオーケーだっただろう。
この、現代の余呉川放水路には大掛かりな仕掛けもあって、それは余呉湖に琵琶湖の水をくみ上げて余呉川に流し込ませ、大規模に灌漑を行っているのだった。
この場所では夏場、コアユ釣りでもにぎわっているという。しかし、滋賀県南部からは、ここまで釣りに来ようとすると、2時間近くかかりそうだ。野洲川よりずっと魚影が濃そうでひかれるが、近くの川にいるものを、2時間近くかけて釣りに来るのは、ちょっとためらわれる。