2015年04月27日

平等院鳳凰堂の州浜

州浜の汀線.jpg
州浜の水際

子供が電車で遠足に行くという。その行先は宇治の平等院鳳凰堂だった。
そこで、鳳凰堂に行ったら、池の水際が州浜になっているから、それをカメラに撮ってほしいと依頼したところ、撮影してきてくれた。それが冒頭の写真である。感謝。

 平等院鳳凰堂を、創建時の姿に戻そうとして、池の水際が、それまでの切り立った擁壁から、州浜形式に戻されたのが10年くらい前だったことのように思う。ニュースで見て「いいね」と思ったが、実際に見に行ったことはなかった。写真で見ると、州浜は、砂ではなくて、1月に訪れた和歌山県新宮市の海岸のような丸石浜だった。

 池の際を、擁壁ではなく、浜でつくるという考えは、庭に掘ったメダカ池にも影響を及ぼしている。平安時代に花開いた国風文化は、こういう洲浜池を作ったのだった。

 平等院鳳凰堂は、浄土をイメージして作られた建物だから、彼岸ということで、船に乗って近づくのが良い感じだ。やっぱり浜のほうが趣があると思う。

平等院鳳凰堂と池.jpg
平等院鳳凰堂と池

 これを建物とともに見ると、浜に立っているように見える。ちょっと引きがない。浜の幅が30メートルくらいあったら、かなり浄土感が出るのではないかと思う。

 だが、古代の平等院の池の水際とはそのような固定したものではなかったようだ。平等院はは、宇治川のすぐそばにあるが、創建時は、宇治川は蛇行していて、平等院が立っているのはもともと中州のようなワンドのようなところだったという。そうなるともう、増水時には柱のへんまで水が来るたかもしれないし、大変なことになったのは想像に難くない。建てるとき、大工の棟梁か誰かが「ここは危ないでっせ」などと反対したかもしれないが、貴族は聞く耳を持たなかったのかもしれない。こんなところでよく1100年もの間、建物が流されもせず存続していたものだ。のちの時代に、宇治川をまっすぐにして堤防が作られ、洪水を免れたようだ。そんな水防とともに、池の形も、州浜から、しっかりした擁壁へと改変されたようだ。

 つまり池の原型は自然の川かワンドのようなものだったということになるが、そういう、陸地と水際とがあいまいになったような場所に、わざわざこんな建物を建てたというところに、平安時代の貴族の美意識があったのか。
posted by 進 敏朗 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以西) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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