2012年08月26日

廃川を訪ねてC 古代の葉山川?

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草津市教委文化財保護課の中沢遺跡説明会が開かれた。
ここは、むかし滋賀県立短大があった跡地(草津市西渋川)で、宅地造成をすることに伴う調査だ。川跡が見つかったというので見に行ってみた。
地表が引きはがされた現場には、現在の地面よりも約1メートル低いところが、5世紀ごろの地表なのだという。そこに、古代人がつくった溝の跡と、幅10メートルくらいの川の跡があった。

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蛇行する川跡と溝
この写真は下流から上流のほうを見ているが、上流にはJR東海道線があるのが見える。写真の左側、約200メートル東側には現在の葉山川が流れている。発掘された河跡は、古代の葉山川ではないだろうか。「あまり広くないから、本流ではないのでは」と文化財技師氏。古代の河は、1本の流れではなく、何本かに分かれていたとみられる。

堆積した土砂の深さからみると、川の水深はもともと1メートルくらいあったが、大雨のたびに土砂がたまって浅くなった様子が、川跡に堆積した土砂から確かめられるという。そしてかなり浅くなったところで、最終的な洪水があり、完全に川が埋まってしまったとみる。この河からは、5世紀の出土品のほかにも、弥生時代の土器や目木が出土したので、数百年間は同じ場所に川が存在していたようだ。

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水たまり

現場をよく見ていると、水たまりがある。この日照り続きの日の真っ昼間、陽射しを遮るものもないグラウンドの真ん中にできた水たまり。これはやはり、地下水であるという。もとの河道である砂礫層の上に、粘土が堆積し、水はこの砂礫層と粘土層との間に出てくるのだという。何日か前に降った雨が少しずつしみ出て来るのだといい、地下水脈のようである。発掘ではこうした地下水をくみださねばならないという。

そして二筋掘られた溝であるが、上流に行くほど間隔が狭くなっていた。現場で発掘調査を行った技師氏に尋ねると、昔、上流の石原産業(現場の東側に立っている)の下を発掘したとき、水門の跡が出てきたという。
溝の1本は不思議なことに、下流で河道と合流している。余分な水を川に排水するための水路だったのか、あるいは河に接続することで、さかのぼってくる魚を捕まえるなどの機能があったのか。もちろん古墳時代だから、現在のような宅地化はなく、コアユやフナなどが捕り放題だっただろう。

また今回説明会のあった現場より下流で、直径10センチの杭を1列に並べた堰の跡も出土したと発表があったが、それは今回見学コースに入っておらず残念だった。

こうした溝を作った人たちの集落はどこにあったのかと訪ねると、おそらくもう少し上流の、現在の中沢の集落が現在ある辺りではないかと技師氏は答えた。なぜならそこは周囲より少し小高くなっており、この発掘現場のような川や田んぼの場所は、だいたい氾濫を繰り返す湿地のようなところだったというのだ。

やはり古代人も、洪水が来ないなど、住みやすい場所を選んで村をつくるだろう。それが現在まで続いているとは面白い。一見、一様に広がる平野の中でも昔ながらの集落は、やはり住むのに条件のよい土地に立地しているようである。現在は、そうした知恵が引き継がれなくなり、洪水が起きるようなところを宅地開発してしまう。この古代の湿地跡も宅地開発されるが大丈夫なのだろうか。

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下流(西方向)を望む。彼方には比叡山が見える

現場で会社を10年以上前に退職されたKさんに出会った。Kさんは、この現場は比叡山に沈む夕陽が見えるポイントで、この半年間、比叡山に沈む夕陽を観察しているのだという。この辺りでは、三上山から陽がのぼり比叡山に沈むことがあるという。「日本に仏教が来る前の信仰はどんなものだったか」に関心があるのだそうだ。現場の溝も、下流方向を見ると比叡山が彼方にそびえている。比叡山に沈む陽を見て古代人は何を思っていたのだろうか。




posted by 進 敏朗 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 廃川訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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