2024年05月18日

塩津大川コアユ釣り

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塩津大川

早朝から近江塩津まで行き、県境を越える古道・深坂越で福井県まで歩いて、新疋田駅から引き返した。
まだ午前中であったので、塩津を流れる塩津大川でコアユ釣りをすることにした。
水は少なめで、じゃっかん田んぼの水が入っているのか色が濃い。
川にはあんまり魚影なし。果たして釣れるのか。

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竿を出す

竿は2.4メートルの小継竿をリュックに入れて運んできた。
えさや仕掛けを事前に用意しておくなど細かな気遣いが必要なのが投網と違うところ。
塩津大川は広くないし、とにかく釣り人が多い。ここは狭い場所でもできる釣で魚をとることにする。
2.5号3本針仕掛け。

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釣れた

ウキを付けてながすと、ほどなく反応があって魚がかかる。
大きい。数は少ないが、サイズは大きい。
魚があんまりいなかったが、釣れるときにはコンスタントに当たりがある。
釣れない時間帯もあって少々じれるが、えさがなくなるまで約3時間取り組んだ。


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釣果

釣れたのは28匹だったが、重量は475グラムあり、最長寸は15センチだった。
もう少し大きかったら塩焼きか、塩麹漬けかにするところだが、これら全部を天ぷらにした。

今年は琵琶湖の鮎が例年の1割くらいの数しか確認されておらず、コアユが少ない年のようだが釣れないことはなかった。
投網は、魚影が濃いときに一網打尽にするのに向いているが、魚影が薄いときは、釣りのようにしこしこ1匹ずつ釣り上げていくような方法が有効かも。
久しぶりにコアユ釣りをやってみたが、短くて軽い竿を使い、道具をシンプルして望んだのがよかったのか、道具が散らかることなく軽快で楽しかったので、釣りもいいかもと思い直した。


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深坂越を行く(上)

紫式部も通った近江から越前を目指す古道へ

本州を横切って日本海側から太平洋側に行こうとする場合、ひときわ陸地がくびれて谷が走り、短く結べそうな日本海側の起点の一つが敦賀であろう。
いろんな地形がある日本列島だが、敦賀の地形は不思議だ。
北は湾が食い込み、東と南は深い山に囲まれている。港から10キロ南下すればそこは滋賀との分水嶺で、谷筋には国道や高速道路、鉄道が集中している。
北陸新幹線がこの3月に金沢から敦賀まで延伸したが、ここから先、京都や大阪へのルートが小浜経由と決まったものの、京都府内などの沿線の反対などから立ち止まっている。
小浜を経由し、丹波高地の山岳地帯に長大なトンネルをうがち、京都のまちの地下深くを進もうという建設の費用は、現在試算されている2兆円余りで済むかどうか。
交通の要衝であるとともに難所でもある敦賀。
いま敦賀が注目されている。
NHKの大河でも月末に紫式部が越前へと向かうそうである。
このタイミングで、紫式部も通った近江から越前へ抜ける古道、深坂越を歩くことにした。
前置きが長くなった。

古道入り口まではバスが安全

近江塩津や大浦と敦賀を結ぶ深坂越(ふかさかごえ)は古代の官道であったという。
その道は深坂峠(370メートル)を越えて近江と越前を結ぶ。
豊臣秀吉が、もっと緩やかなルートをと「道野越」(現在の国道8号のルート)を開き、そちらのほうは海抜260メートルで深坂越より100メートル以上低い。
そんなに高低差が違うのならなぜ、古代から道野越を通らないのかとも思うが、古代はとにかく距離の短さ重視だった模様。

さて深坂越を歩くため、近江塩津駅からそのまま歩こうと思ったけど、ストリートビューで下見をしたら、国道8号の歩道が駅から約1キロ北の沓掛集落までしかなく、そこから先はカーブの上り坂もあり危険であった。
そこで古道の入り口まで路線バスを使うことにしたが、近江塩津発が午前7時18分。つぎは午後2時54分まで便なし。
ところが7時の米原発敦賀行き列車が近江塩津に着くのは7時25分で、バスに合わない。
このようなわけで車で近江塩津まで行き、駅前の市営駅駐車場(無料)に停める。

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バスが来た(午前7時18分ごろ)

時刻通りに「新道野(しんどうの)」行きバスが到着した。客が1人が降りて、乗客は私1人である。
ぐんぐん走り、坂道も軽快にのぼって、5分ほどで「近江鶴ケ丘」停留所で下車し320円を払う。
終点「新道野」は下の写真で左にカーブした先にあり、そこは福井県である。

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国道8号の坂の途中にある近江鶴ケ丘バス停付近

古道入り口はここではなく、近江鶴ヶ丘バス停より1キロ近く手前のスノーステーション付近にあり、小さなほこらが立っていたのだけど、そこにバス停はなく、停めてはもらえない、だからといって手前のバス停で降りると大型トラックが通過する国道を歩かないといけなかったので、近江鶴ケ丘から古道までショートカットする。

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国道8号から西へと向かう道

楽々散歩の歩道続く

そこは小規模な高原だった。
採石場が露天掘りみたいに地面から土砂を掘り進んでいる。
いったん沢沿いに下りる。

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タニウツギの花

日当たりがいい場所に、タニウツギの灌木が群生しピンク色の花を多数咲かせている。
平地では今年は4月末から開花したが、それよりも2〜3週間遅い感じだ。
海抜250メートル。近江塩津駅付近が110メートルだったので、バスで140メートルも登ってしまった。
深坂越の峠は370メートルなので、あと120メートル登るだけとなり、だいぶ楽な峠越えとなったのである。

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歩きやすい道

道も砂利敷き、下草刈りが行き届き、モミジも植わったりして整備された道となっていた。

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問屋跡の石垣遺構

進路の左側に石垣の遺構が現れた。
これが問屋の跡だという。

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朝の光が当たる問屋跡の説明版

この問屋で、峠を行ったり、峠を越えてきた荷物は、別の業者の馬にバトンタッチされたという。

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快適山道

ここから奥も、側溝もあり整備された林道のような道が続いていた。
坂もゆるやかで楽々と歩いた。

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深坂地蔵

峠の直前の深坂地蔵に、息を切らすこともなく到達した。
峠の守り、深坂地蔵。
それは、平清盛の命で敦賀−琵琶湖の運河開削をしようとした計画を断念させた、険しい山の象徴であった。
通行する人たちが、安全を祈願して地蔵に塩を塗るならわしがあったようだが、それを繰り返すうちに石製の地蔵が傷んできたので塩を塗らないでくださいと、長浜市の案内マップにはあった。その際、「傷む」という字が「痛む」と表現されており、まるで地蔵さんが傷口に塩を塗られて痛がっているような光景が想像された。

福井県側は険しく

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岩が突き出た崖沿いの道

深坂地蔵から先は細道となっていた。
これまでの楽々歩道は、深坂地蔵まで作業用の車を通すためだったかもしれない。すぐに峠に達し下り道となった。
斜面から岩が突き出ている横の、わずかな空間を道にしたりして、この地点などは他に道のつくりようがないから古代からそのままだったかもしれないと思ったり。

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レモン色に黒い筋が印象的なキンモンガ

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石敷き

道中にはところどころに石敷きもあって、足場をよくする工夫がなされていた。

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切通しと転がる石

尾根の右から左、また右と、切通しがされている。
たまった落ち葉に足を取られ転ぶ。
切り石とおぼしき石が転がっている。

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紫式部の歌碑

紫式部の歌碑が紹介されていた。
峠を通行しているとき、「賤(しず)の男(運搬役の人夫)」が「なおからき道なりや(やはりしんどい道だなあ)」と言っているのを耳にして、

知りぬらむゆききにならす塩津山世にふる道はからきものとぞ

と詠んだという。
知っていたでしょう。いつも通っている塩津山だけど、慣れているようでも世の中の道はしんどいのですよ。塩のように辛いですよ。
こんなような歌だ。
しょっぱい世の中を、深坂峠に思ったのか。越前への赴任で、こんな険しい道を通らないといけなくて、気が重かったのか、あるいは楽しんでいるのか。
紫式部はこのとき籠に乗っており、賤の男らはそれを担いで「しんどいなあ」と言っていたのである。
紫式部がそれを聞いて「知っていたでしょう」というのは、現代人の感覚ではずいぶん上から目線だとも感じられるが、そこは身分の上下があった平安時代なので、感覚を補正しなくてはいけないのだろう。

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マムシグサ(有毒)出現

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道沿いの沢

道はやがて谷沿いをいく感じになって、沢がどんどん大きくなっていき、朝の陽ざしが差す。

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谷の終わりも近い

前方の空が見え、里が近くなってきたことを知らせている。

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五井川

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里におりた

山道から里に出た。
西近江路方面から
流れる五位川の橋の横に出る。
時刻をみたら8時50分で、いろいろ立ち止まりながら歩いたが1時間半で着いた。
福井県側から逆方向に歩くと高低差200メートル以上あるのでやはりしんどいだろう。
この先には疋田の村があり、古代三関のひとつ愛発(あらち)関があったとされるが、その場所はわかっていないのだという。(続く)

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<おまけ>雪国の初夏

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深坂越を行く(下)

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街道沿いの集落

古道深坂越を下りて疋田へ進む

近江と越前を結ぶ古道「深坂越(ふかさかごえ)」を歩き、福井県側に出た。
福井県側は深い林の中をいく山道であった。
明るい日差しの里に出てほっとする。

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山から流れ下りる五位川

滋賀の湖西方面から北上する西近江路と合流し、「追分」の集落を通過。
峠の標高が370メートルだったが、里に出たときには110メートル。

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愛発(あらち)と地区を紹介する看板


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新疋田駅

そして坂を下っていくと北陸本線の新疋田駅があった。
滋賀県最北の駅・近江塩津からトンネルをまたいだ県境の駅だが、次の駅はもう敦賀となる。

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鉄道写真ギャラリー

ログハウス風駅舎の中は、鉄道写真ギャラリーとなっていた。
新疋田ー敦賀間にはループ線もあって、鉄道写真の聖地のようだった。
9時11分発敦賀行の電車がちょうど出て行った。
早起きしたかいもあってまだ9時台。
滋賀県側から歩き始めてまだ2時間もたっていない。歩き始めてまだ5キロくらいだったのである。

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けわしい山

さて新疋田駅から疋田の集落へは、800メートル歩を進めねばならない。
振り返ると、岩肌が露出したけわしい山が見える。
付近は東西を山にはさまれ、南北方向の谷になっている五位川沿いに道が続く。

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疋壇城の入り口

要害疋壇城は関所の適地

疋田集落に入ったところの街道のすぐ脇に「疋壇(ひきだ)城跡」があり、街道より20メートルほど高い丘になっていた。

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石段上からの眺め

東の方向、笙の川の谷が奥まで見渡すことができ、眼下の街道を監視できる。

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石段の上は広かった

石段の上は、思ったよりも広い平坦な場所で、ゴルフ打ちっぱなし練習をしている人がいるほどだった。
「西愛発小学校」があったことを伝える碑もあった。

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広場の西側は北陸本線

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スーパー雷鳥号も通過

西側は、岩籠山(765メートル)につながっていき、ここは山と川の間の段丘だった。
五位川と笙の川が合流する地点の高台で、戦国時代は織田信長の越前攻めの舞台となった。
素人目にみても、街道の往来を監視する絶好の場所だ。
奈良時代に設置され、正確な場所が不明な愛発(あらち)関、ここにあったんじゃないかと思ったが、敦賀市による調査の結果、それらしき遺構や遺物は出土しなかったという。

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人工水路の起点

運河終点の地疋田

さて、疋壇城跡をおりて疋田の集落に戻ると、ほどなく石垣でしっかりと固められた水路が見えてきた。
これが、江戸時代まで運河として使われていた水路だというのである。
平安時代に平清盛が日本海と琵琶湖を結ぶ運河を構想し、掘らせたのが始まりという。

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船型の石製ベンチ

ベンチも舟形だ。
みかげ石製で、これが水路沿いに何個かありお金がかかっている。座って水を飲み、しばし休憩。

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運河だったのか

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水路の段差

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船運の終点付近

お寺の前付近に、船運の終点があった説明版があった。
シュロ縄で両側から船を引いて水路をさかのぼらせていたのだそうだ。そのためか水路の両側は人が歩ける平たいスペースになっている。
船底がすれるので、川底をなめらかにするため木の板を敷いていたそうである。このあたりで海抜70メートル。
敦賀の河口から10キロくらいで、ここから琵琶湖までは直線で10キロほど。
中間地点と言えなくもない。

水路幅は約1メートルで、ずいぶん細い船が通っていたんだなと思っていたがそうではなく、かつては2.8メートルあり街道の中央付近までは水路だったようだ。

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お寺の石垣裏にあった説明板

もし琵琶湖まで運河を引くことができたら、日本海側の物資を一気に浜大津まで直送し、京都へ運べるので、物流の大革命になったに違いない。
そうなると荷下ろし港の浜大津は、日本海の物流の一大拠点になっていただろう(笑)。
さすが平清盛、こんな壮大なことを思いつくとはスケールの大きい政治家だ。

やはり琵琶湖運河は無理だったのか

だが、ここ疋田から琵琶湖まで運河を引くとなると、海抜370メートルの深坂越を越えなくてはいけない。
パナマ運河の閘門も、高低差は26メートル。それの10倍以上の高低差を登らせなければいけない。

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水路の上流は山が迫る

平安時代の人夫が山の岩を削ろうとしたところ腹痛に襲われた、その岩の正体であるという深坂地蔵には勝てなかったのである。
それでもこの現在見られる疋田の舟川は、江戸時代の17世紀に北前船の西回り行路が成立して以後の1816年竣工というから、琵琶湖へ通じる運河への情熱はすごかったのである。

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笙の川の鉄橋の橋脚跡。奥が上流で、左が東、右が西

日本海側最古の鉄道北陸線

さてこの水運の限界点である疋田では、北陸線の廃線跡や駅の跡が見られるという。それを確認することにした。
疋田集落のすぐ脇で笙の川と五位川が合流している。
国道8号と161号の交差点があり車がすごい勢いで走ってくる。
8号線にかかる笙の川の橋に並行して旧道の橋があり、そこから上流側を見ると、笙の川を渡る橋脚の跡が見られた。
これが初代北陸線の橋だという。
断面が五角形をしていて、上流方向に鋭角が突き出ており、水流の抵抗を減らし、障害物が引っ掛からないようにする工夫のようだ。
橋の東側には廃線跡とみられる土手が数十メートルあり、国道8号の土盛りの中に消えていた。

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橋を西に渡ると急カーブが

一方、鉄橋を西に渡るとそのまま疋田の集落に突っ込むんじゃないかという角度で架橋されていたが、橋の西詰で右にカーブしながら急こう配の下り坂となる路地があり、それが廃線跡のようだ。
集落のすぐ裏を鉄路は走っており、幹線の鉄路というよりは、まるでローカル私鉄の廃線路のようだ。

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駅看板が復活していた「疋田駅」。ホーム跡という

そして「疋田駅」に到達。
プラットホームの石垣が残り、ストリートビューにはなかった駅看板があった。
単線の片側駅舎で鉄道駅としては素朴なものである。

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新緑に映えるカラフルな公民館。2階に上がってみたい

黎明期の駅ホーム跡残る

敦賀駅や疋田駅は1882年開業という。日本海側の鉄道では最も早いのだそうだ。
同じ年、滋賀県最古の駅、長浜駅が開業。
北陸本線はまず敦賀を起点に、福井や金沢方面ではなく滋賀県の長浜を目指して鉄路が伸びていった。その際、ルートは現在とは異なり、敦賀から「疋田駅」まで進んだあと東に折れ、笙の川沿いをさかのぼっていく。豪雪地帯・柳ケ瀬から余呉川沿いを南下、木ノ本に出るというルートだった。現在みるとたいへんな秘境ルートに思える。

現在の北陸本線のルートは戦後の1957年に開業。その際、規格が小さく勾配がきつかった柳ケ瀬トンネルでは蒸気機関車での窒息死事故が頻発し、この教訓を受け敦賀から疋田へ登るルートでのみループ線が敷設、1963年に供用開始したそうである。





交通の難所敦賀に積み重なる山道や鉄路、水路

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かつての国道161号のトンネルは歩道専用に

敦賀は21世紀の現在もなお、交通の要衝であり、難所なのであった。
最新鋭の新幹線のすぐ近くに、古代のままの趣をたたえた山道や、平清盛以来の山に船を通そうという執念の軌跡である運河、鉄道黎明期の官営鉄道の施設跡が確認できるという稀有な場所。
そして謎に包まれた愛発関の場所。

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線路のスペースに比べてホーム幅が狭い新疋田駅

それは敦賀の周囲を取り囲む分厚い山塊と、幾筋かの谷が南北に走り近江まで短距離でつながっているので日本海側から太平洋側へ抜けるルートとしては他の場所よりもましというかここ以外にないという特異な地形が生み出していたのだった。

北陸新幹線の小浜京都ルートは、船と鉄道で形態は違うものの、平清盛が構想して以来、何次かにわたり試みられてきた北陸から京への「直達」計画の現代版のようにも思われる。
そこに現代の深坂地蔵はまたも立ちはだかるのか、どうなのか。

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深坂トンネルを抜け滋賀への帰還。車窓から

新疋田駅から敦賀に足を延ばし、北陸新幹線の駅や車両を拝んでから帰ろうとも思ったが、疲れたのでそのまま近江塩津まで引き返した。
深坂越の古道の下をぶち抜く深坂トンネルを通過し、7.8キロ先の近江塩津駅にわずか6分で帰着した。

posted by 進 敏朗 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 低山めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする