2024年01月06日

5日後の東伯耆の海浜

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伯耆の東、鳥取県中西部の浜(午後2時ごろ)

能登半島の巨大地震から5日後に鳥取県に帰省。空家となっている海辺の祖母の家を訪ねた折、浜に出てみた。

石川県尾震源地近くの海辺では、最大5メートルの津波が襲ったのではないかという。津波が押し寄せる映像がニュースで流れていた。

津波は日本海側の広範囲に押し寄せ、気象庁の発表では鳥取県の境港では最大60センチの潮位変動が観測された。
日本海はあんまり潮汐の変化がないので、60センチ水位が上がったら、満潮の最高潮位よりも高く水面が盛り上がったのではないか。

さてわが本籍地の浜はどうなっているのか。

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波が駆け上がった痕跡。画面右下に漂着した果物

堤防のゲートを抜け、浜に降りるコンクリートのスロープに出たところ、波が押し寄せた痕跡があり、黄色い果物が漂着している。

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波の到達点か

梨かと思ったらミカンだった。
昔、この浜で貝拾いをしていた時、規格外の二十世紀梨が大量に打ち捨てられていたのを思い出したのである。

ミカンは水ぶくれしており波に運ばれてきたようで、ここが波の到達点であろう。
堤防の根元には吹き寄せられた砂が盛り上がっているが、波によって崩されたようにも見える。
上の写真ではスロープの傾斜がわかりにくいので、波打ち際から見た写真を下に付してみた。

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波打ち際からみたスロープと堤防

これでスロープの傾斜が見やすくなった。
ミカンはスロープの上り口に近いほうに留まっていたのである。
写真は波が打ち寄せた瞬間を撮ったものなので、平均的な海水面はもうちょっと低いと考えると、ミカン漂着地点は海水面より2メートルくらい高いのではないか。

はたして、津波が駆け上がった痕跡が確認されたのか。
そうではなく冬の季節風を受けた通常の荒波の跡なのか。
判断する材料はないが、もし津波の跡ではなかったとしても、ふだんの季節風でここまで波が来ているとなると、堤防の内側はすぐ町なので、それはそれで危ないんじゃないか。

鳥取県の津波観測地点はこの境港と、東部の岩美の2カ所しかないそうである。日本海側では従来、津波のことをあまり心配しなくてもいいだろうということなのかもしれないが、この地震を受け鳥取県知事は、津波観測装置の増設を要望しているそうである。
岩美での津波の高さ20センチだった。また、隣の兵庫県豊岡では40センチ、京都府の舞鶴でも40センチで、それらの地点よりも震源から遠い境港で高い波が観測されたことには奇妙に思えた。

だが調べてみると、これが津波の不思議というか、距離が遠いからと言ってそれに正比例して津波が低くなるかといえば必ずしもそうはならないのだそうだ。

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滑らかな海浜

とりあえず浜を確認した。被害はなかったが、波はすぐそこまでやって来たようだった。

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海抜を知らせる看板

浜から100メートルほど内陸を走る旧道沿いに、海抜を知らせる表示が電柱に貼られている。
きわめて海岸に近いところに住んでいるわけだが、古くから町があったので大丈夫のような気がしていた。

過去の日本海側の津波の歴史を調べると、島根県の益田で今から千年前に津波が襲い、内陸の数キロまで達したそうである。
隣の島根県ではいくつか津波の記録が確認できたが、鳥取県ではそうした記録は今のところ探し出せなかった。
それで、まあ鳥取県には大津波は来ないだろうと高をくくってきたのだが、実際のところはよくわからない。

このたびの能登半島地震では地面が4メートルも隆起するなど、数千年に一度規模の断層の動きがあったとも語られている。
そうなってくると歴史資料では解明できず、地質調査的な手法で調べるしかない。
数十年の人生では想像もつかない大地の動きの前には無力というほかはない。
せめて察知を早く、できるだけすみやかに避難。
そのような年の幕開け、被災地のお見舞いと、早くの復旧を願うばかりだ。

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<おまけ>空家に咲く白いサザンカ


posted by 進 敏朗 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする