2023年11月26日

上月城から尾高城 山中鹿介と進家の戦国模様(下)

冬の山陰はカニの季節

鳥取への帰省の途中、兵庫県の岡山県境に近い上月城に立ち寄り、「山陰の麒麟児」こと山中鹿介が、上月籠城に参戦していたわが一族の祖先に出した感状についての記録を見、城山に登った。滋賀から山陰への往還途中、いつもの水辺ではなくて歴史探訪を行ったのだった。

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荒れる浜。冬の日本海の光景。浸食進みブロック頭出す

その晩、空き家となっている鳥取県中部の浜辺の町の祖母の家に至り、松葉ガニを食べた。
近くの道の駅に今月解禁となったカニが並んでおり、カニが手に入りやすい環境だったのである。
小さめのが2杯一盛りで3800円の所を、半額で1杯だけ購入。
この季節に帰省することはめったにないがカニがあるので悪くないと思った。
さらに隣の食堂店頭の鮮魚コーナーでは23センチくらいの良型アジ6匹が550円と、内陸県滋賀では考えられない値段と鮮度であったので、買って干物づくりを行った。初冬の日本海の幸を楽しんだのだった。

戦国西伯耆の拠点、尾高城へ

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浜から見た大山

翌日の午後、米子の実家への帰省の途中、大山の「観光道路」入り口付近にある尾高城に行く。
観光道路、かつては「有料道路」とよばれ料金所があった。
「有料道路経由 大山寺行」のバスが、米子の街に行く乗り慣れた路線で「公会堂前」から最寄りバス停までの名が今でも思い出される。
尾高城は私が卒業した中学校区にあるが、城跡に立ち寄るのは今回が初めてだった。
灯台もと暗しというか、いろいろ知らないものがあった。
尾高城から石垣が発見されたとのニュースを見、この際立ち寄ってみることにしたのだった。

西伯耆の要害、尾高城は戦国時代に尼子や毛利の争奪戦が繰り広げられた。
山中鹿介の逸話はこの尾高城にも残る。
毛利軍との戦で捕らえられ尾高城に幽閉されるが一計を講じて逃げたという話だ。
赤痢と称して頻繁に便所に通い、そのうち番兵も面倒になったかついてこなくなった。
そのすきを見て、便槽の中をくぐって逃げたというのである。機知を働かせながらも、最後は果敢に難局を突破するワイルドな武人なのだった。まさに「七難八苦」をものともせず。

尾高城は石垣をちらっと見て行こうかなと思っていたが、たまたま市による遺跡の説明会が開かれていたため滞在は長くなった。詳しい説明が現地で聞けてラッキーだった。

大山裾野の天然要害

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元尾高ハイツ

昔「尾高ハイツ」と呼んでいた施設に停める。
今は「シャトー尾高」と看板があった。
おしゃれな形をした縦長のビルで、1970年代には高い建物は付近には存在せず、平地から眺めると白亜の塔のようで目立っていたが、営業をしていないのか、静まりかえっていた。
ここは大山すそ野の末端にあたる高台の上で、尾高城は平地を見下ろすように立っていたのだった。

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尾高城の背後にそびえる孝霊山

高台の尾高城、西を見やれば、木々の向こうに箕蚊屋(みのかや)平野とよばれる米子東部の田園が広がる。
背後を振り返ると、雪をいただいた大山がそびえる。左側には紅葉で染まった孝霊山。

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土塁ごしに見る大山

意外に感じたが、外部からの守りとなる土塁は大山側に築かれていた。敵は平地からやってくるんじゃないかと思ったが、そちらは天然の急崖があり、攻め入るには高台に回り込むしかなかったようだ。

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大規模な堀の跡を行く

尾高城跡の遺構はけっこう広い。
台地の端に沿って南北方向に本丸や二の丸といった郭が整然と並んでいるが、区域と区域の間はいずれも、深さ数メートル、幅も10メートルくらいありそうな大規模な壕で区切られていて、島状に並ぶ城塞の間は、橋を渡して行き来する形となっていた。

高台の土地は大山の火山灰でできているということで、掘削がしやすかったのかもしれない。
台地の崖直下には川が流れていたとされており、天然の水堀となってまさに難攻不落の要害。
説明会で広い遺構の各ポイントに係員が待機し、順路をたどっていく形式で数人ずつのグループで移動していった。

松江では山中鹿介の人望は低い?

まず遺跡の入り口で、最初の係員から概略的な説明があった。
この尾高城では、弥生時代からの遺跡が見つかっているそうで、古代から重要な拠点であったようだ。
妻木晩田遺跡クラスの集落が眠っているかもと。

そして戦国時代の話となり、やはり山中鹿介の便所の逸話となった。
「捕らえられたのは、末吉(大山町)の消防署のあたりです」と具体的。
見慣れた風景に戦国時代がリンクされていく。
幽閉され、便所に通った回数は300回とも。
誰が数えただあ、という話だが(笑)

「しかしあれですね、山中鹿介は負け戦が多かったんですが、それでもたくさんの人がついてきたということは、人望があったんでしょうなあ」と、係員氏が話の締めくくりに漏らした。すると、
「いや、鹿介は人望はなかったでえ」
と、見学者の1人のおじさんが反論した。お隣島根県の松江から見に来たという方だったが、あちらの方では、鹿介が神社を壊して回ったので、評判が良くないというのだった。
そうだったのか。神話の里出雲だけに。
係員氏もこれには、確かにそういうことはありましたが、と話した。
鹿介はいずれにしても、山陰で関心が高い武将なのだった。

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石垣の遺構前で行われていた説明

そして順路を巡り、本丸と二の丸の間から出土した石垣を見学。
それは自然の石を並べたようで、大阪城とか彦根城などで想像される切石ではなかった。城に石垣が組まれるようになったのは戦国末期のことだったという。

こうした初期の石垣は、東伯耆の八橋(やばせ)城でも確認できると、石垣担当の係員氏の説明があった。昨日、それを城郭研究の権威、中井均先生と確認に行ったという。その頃私は目と鼻の先の場所におり、カニを買い求めていた。

「非道の武士」?杉原盛重

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備前焼のかけらか。杉原盛重が愛用?

この尾高城の城主で山中鹿介と敵対していたのが、毛利の武将杉原盛重だった。
伝えられる話によると笑った顔を家来が見たことがないという、たいへんに怖そうな人である。
わが先祖に伝わる話を記した譜記によると、この杉原盛重に、箕蚊屋の土豪であったわが進家の刀が大晦日、日吉津の神社に参拝の折、強奪されたとされ、杉原のことを「非道の武士」という表現で罵っている。
うちは尼子についていたので、毛利の支配下となり肩身が狭かったことを反映しているのであろう。
杉原城主の時代、日吉津の神社の神主が新たに連れて来られており、当家は副神主をやっていたと父からは口伝えに聞いている。神社にまつわる権益縮小もあったかもしれない。

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堀の遺構を利用したとみられる道路


土の中から出てきた石垣は、戦乱のピークであった杉原よりは後の城主時代のものとされ、城全体ではなくて、天守と二の丸の間の堀の面だけに築かれていたようだった。実質的な防御面というよりは「城を立派に見せる」ことに主眼が置かれているのではないかとの説明。
国史跡に指定され、米子市は土地の所有者から買い取り交渉を行うという。

高台への注目の高まり

米子には米子城があり、いまの米子の市街地は米子城の町割りが基礎になっていて、米子城は米子のシンボルともいえる存在である。
米子城は中海に面しており、川や堀はまちとつながり、船も行き来して平和な江戸時代には平地に商業が発展した。
しかし、それ以前の戦乱の時代にあっては、伯耆西部の拠点は内陸の尾高城だった。そこは外敵に備え、にらみをきかせる高台の拠点であり、争奪をめぐって山中鹿介や、杉原盛重ら武将が活躍した。いま、戦国の遺構が掘り返され、高台が再び脚光を浴びつつあるような印象も受ける。

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箕蚊屋平野から見る秀峰大山

奥播磨と山陰の、約150キロを隔てた「点」である城跡をめぐったにすぎないが、私にとっては450年前の山中鹿介と先祖をめぐる「線」が浮かび上がった有意義な体験となった。

posted by 進 敏朗 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月25日

上月城から尾高城 山中鹿介と進家の戦国模様(上)

奥播磨・上月城資料館

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上月城資料館

長い表題となってしまったが、山陰に帰省の途中、中国自動車道の佐用インターを出、そこから約20分ほどの上月城資料館を目指した。
上月城は、戦国時代の山陰の武将、山中鹿介が最後に敗北した地。
これに加わり米子から参戦した当家の先祖への感謝状があるらしいと聞いたので以前から行きたいと思っていた。
だが春とか夏は、一目散に海のある山陰を目指し、途中の山間部に寄り道することは時間がもったいなく思われた。
しかし11月下旬ともなると寒いので海のレジャーはやらず、かわりにいつもとは別の行動を企画したのであった。
この日はときおり雨もぱらついており、貴重な休日に水辺を風景をめでるのではなく資料館の中を訪れるには悪くない天気だ。

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「上月籠城」について、山中鹿介の感状の展示

山中鹿介は主君尼子氏の再興を期して奮戦、その勇猛さとエネルギッシュな行動力は「山陰の麒麟児」とよばれ、忠義を尽くした武士として戦前は人気が高かったという。「我に七難八苦を与えよ」という言葉が知られる。後世の絵では、鹿の角の兜をかぶった姿が描かれ、キャラが立っている。

「忠義専用者」と感謝の意

中国地方のライバル・毛利氏との戦いで劣勢となる尼子一党は織田信長につく。姫路の周辺で毛利勢と信長勢が激しくやり合ていた中、天正6(1577)年12月、信長配下の秀吉軍が上月城を攻め落とし、ここの守りを尼子軍が任された。だがその後、三木で在地武士別所氏の離反があり、秀吉軍はそちらを鎮圧することに。孤立無援となった上月城は翌年4月、近畿に進出する3万人とされる毛利軍の本隊に取り囲まれてしまったのだった。ああ無情。

上月城には鹿介ら「雲伯因作(出雲、伯耆、因幡、美作)の諸浪人」が籠城しており、秀吉は、援軍を送るか信長に仰いだが、撤退を命じられる。冷徹な信長により上月の尼子軍は見捨てられたのだった。ついに籠城すること約3か月、7月5日に当主の尼子勝久が自害して降伏した。
展示では、その翌日の7月6日の日付で、鹿介が「進清右衛門」「進源七郎」の、「進」姓の2人の人物に感状を出したとあった。
長らくの籠城での働きへの感謝を表す書状であった。

資料館の係員の方が、合併前の上月町時代に作成された資料集「上月合戦〜織田と毛利の争奪戦」を持ってきてそれを見ると文書の中身が記載されていた。

「今度上月籠城、無二相届抽粉骨無比類候、弥々忠義専用者也」とあった。
籠城の際に粉骨ぶりが比類なく、忠義の者として賞賛されているようである。

長期間の籠城の末、降伏して尼子再興の夢破れ、自分もこの先生きてはおれぬと覚悟していただろう中で出された感謝状であることを思うと、中々感慨深いものがある。
このあと鹿介は連行途中、高梁川のところで斬られるが、この時33歳くらいであったとみられる。降伏後、毛利に反抗的な者は殺されたが他の者は命は助けられたという。先祖はどうであっただろうか。

原典は萩藩の文書ということで、実物が見てみたいと思った。

上月城山に登る

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城への入り口

資料館の真ん前の小山が、籠城の舞台となった上月城跡という。
この先の日程もあるし登るのはちょっと…と思ったが、折からの雨は上がり薄日が差してきた。係員氏に聞くと「1時間でいってこれます」とのことだったので、思い切って登ってみることにした。
杖も無料で貸してもらえるサービスもうれしい。
城への入り口の用水路のような川は、濠の跡だろうか。

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見晴らしの良い場所

坂道を数分進んだところで見晴らしの良い場所に出る。
谷をはさんで山が相対する。毛利軍ににらまれていたのだろうか。

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堀切の跡

さらに尾根筋を進むと、堀切が現れ、その上が本丸のようだった。
運動不足ゆえ息が切れたが、そんな高くはなく、ほどほどの運動量となった。

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本丸の場所

本丸跡はなかなか広い平たい土地となっており、地元のガイドの方が訪問者へ説明を行っていた。
険しい山城を想像していたが、佐用川沿いの道路に近い比高100メートルくらいの山だった。
ここで3か月もよく持ちこたえたものだ。

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城山の全景

1時間もかからず約40分で下山。
再び車に乗り、出てきた佐用インターではなく、県境を越えた作東インターを目指した。
上月は、兵庫県と岡山県の県境にあって、中国道を通過しての印象は、とても山深い場所のようだったが、国道を走ってみると案外広くて走りやすく、上月は鳥取方面から姫路方面を結ぶ因幡街道の要衝であった。
今では滋賀からでも3時間かからない途中下車の地だが、山に行ってみて、山陰からはるばる転戦して籠城戦を耐えた当家の一族の粉骨を想像してみた。

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杖貸し出しサービス


posted by 進 敏朗 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 山陰往還記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月09日

北勢への遠足(下)

四日市あすなろう鉄道

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ナローゲージの車両

北勢への遠足旅行、東海道を歩き、四日市あすなろう鉄道の内部(うつべ)駅に着いた。
時刻は11時すぎ。発車までの時間を利用し、20分ほど写真を撮る。
線路幅762ミリのナローゲージで営業をしているのは日本で3か所だそうだ。
そのうち2カ所が三重県の北勢地方にあり、ひとつはこの四日市あすなろう鉄道、もう一つは桑名から出ている三岐鉄道北勢線で、そちらは昨年などに乗車したので、北勢のナローゲージ鉄道はどちらも乗車となる。

上の写真の車両はモ260形で車体長15メートル。
JR在来線の車両の4分の3の長さしかない。小さな駅に小さな電車が愛らしい。
ナローゲージ沿線の住民になり、駅前に住んで「マイ鉄道」として日常の足にしたい。そんな気持ちにさせる。

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内部駅には車庫もあった。内部車庫の内部が見える。

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延伸しようとした線路

そして反対側に目をやれば、線路を延伸させようとした形跡も残る。
駅で配布されていたパンフによれば、内部川に橋を架けて対岸には采女駅、さらに西進してあと5駅設けられる予定だったというが、ついに川を越すことはできなかった。

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電車に乗り込む

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幅が狭い車内

ミニ電車のミニ旅

さて乗り込むと、幅の狭い車内には一人がけシートが並ぶ。
車体の幅が約2.1メートルで、これは大型バスの2.5メートルより40センチも狭い。
3両編成の車両の両端の車両は、席は運転台のほうを向いており、中間車両は通路をはさんでシートの向きが逆になっていた。
二つ先の追分駅まで乗車。

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車両の先頭

走り出した。
内部の駅端には大きなアガベ(竜舌蘭)が植わり、ミニ電車と不思議なコントラストを醸し出す。
モーターがうなりを上げ、左右への揺れが大きい。
最高速度は、スマホのアプリで確かめると42キロ。
のちほど乗った、日永〜南日永間の下り坂で45キロを記録した。
しかし、速度以上にがんばって走っている感じが強い。
野球に例えれば、力感のないフォームから130キロの速球を繰り出すピッチャーがJRの東海道線の新快速だとしたら、力いっぱい投げているのに球速は45キロしか出てないというのがこちらの車両であろう。

ただ、乗り物に乗っている臨場感と言ったらおかしいが、モーターが力を発して一生懸命に走っている乗り物に乗っている感じは、こちらのほうが強い。

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追分駅付近の踏切

崖下の湧水

降りたのは2駅先の追分。
距離にしてわずか1.4キロ。
この内部線は全線乗っても5.7キロしかなく、これは先日旅した、岐阜県のJR東海道線垂井〜大垣間(8.1キロ)の1区間分より短い。
しかし5.7キロの営業でも8駅もあって、市街地を走っているためか、高校生をはじめ多くの人に利用されていた。

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崖下にある水源(路地の突き当り)

追分駅は、東海道と伊勢街道が分岐する有名な「日永の追分」の最寄り駅である。
そこでは「追分鳥居の水」と呼ばれる湧き水が出るというが、さらに調べると、その水源は、そこから西に入った崖の下だったという。
場所は追分駅から徒歩5分くらいの路地奥だった。
現場の崖の上には、要塞のようなマンションがそびえる。
路地の横には、ブルーの波板の住宅が目立つ。
しかも、波板は塗料を塗りなおした形跡もあって色鮮やかさが保たれている。
この水色は湧き水へのオマージュなのだろうか。

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水量が多い

コンクリート擁壁の穴数か所から水があふれ出ている。
ホースから出ている水を持参したカップにつごうとしたら、勢いが強くてカップが吹っ飛んだ。そこで滑らない場所に置いて汲みなおす。
一人、ポリタンクに汲んでいるおじさんがいるのでたずねると、40年来通っているとのこと。盆栽にやっているのだという。「水道水とは全然違う」と言っておられた。
飲んでみるとまろやか。
この水は道路わきの溝を伝って下流に流れていたが、まさかこの水が、街道の分岐点で飲まれているのだろうか。江戸時代ならいざ知らず。

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日永の追分

東に進むこと数分、東海道・伊勢街道の分岐点「日永の追分」に至る。
ひろい空をバックに、鳥居が立っていて祝祭感。これから伊勢参りですよという旅の高揚を感じさせる。
それに比べたら、滋賀県の草津の東海道・中山道の分岐点は本当にあっさりとしたただの街角だなあと思わされた。

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湧水が汲み上げられている

現代の「追分鳥居の水」は、さきほどの崖下から引かれたものではなく、やはりポンプで汲み上げられているように見受けられた。
その水を汲みに人が訪れていた。水量はさきほどの崖下よりは少ない。

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公園にはミカン成る

狭かった東海道

さて、ここからは東海道を北へ歩く。
日永は五十三カ所の宿場ではないが、宿場と宿場の間の宿で宿屋もあったという。
名残の一本松を見る。立派な大きい松だ。
滋賀県でもそうだが、東海道は、国道の抜け道となっており、広くない道幅を多くの車がすれ違い、しばしば立ち止まらねばならず歩きにくかった。

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名残の松

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最古の東海道の道標

江戸時代の前期の道標が南日永駅近くの神社の境内にあった。
明暦2年(1650)建立で、当初は先ほどの「日永の追分」に立っていたという。

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木製の枕木

このようにして追分から2駅分を主に旧東海道に沿って北に進み、南日永駅に着いた。
昼の食べ物を買おうと、いったん同駅の北側にあるローソンに行こうとしたら大通りだったが、踏切が硬木で固定され、よい質感だった。
また、踏切の遮断機の長さに限界があるのか、4車線道路に、遮断機が計4本据えられているのも見慣れぬ感じ。
八王子線を含めても総延長7キロにすぎないが、市街地に路線があるので、踏切の数も多くて設備の維持も大変ではないだろうか。
道標のあった神社に戻って食べようと思ったが、案外座るところがなく、立ったまま食べた。

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南日永駅

八王子線

南日永駅から再び乗車。
こんどはクリーム色と青色ツートンカラー車両がきた。
ここから隣の日永駅で、八王子線に乗り換えるのである。

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日永駅のホーム

日永駅に着いた。八王子線が分岐する駅のホームは広かった。

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三つの線路幅を現す展示

ホーム上にはナローゲージと、日本の在来線の線路幅である狭軌(1067ミリ)、新幹線や関西の大半の私鉄が採用する標準軌(1435ミリ)が並べられ、どれくらい幅が狭いのかがひとめで分かるようになっていた。
あまり眺める間もなく、八王子線の西日野行きが四日市方面から入線してきた。
カタカナの「ト」の字を逆向きにしたような四日市あすなろう鉄道の路線であるが、「ト」の横棒にあたる八王子線の電車は、日永ー西日野のひと駅を往復しているのかと思ったらそうではなく、全便が四日市を起点として四日市−西日野間の運転だった。

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西日野駅

八王子線は約3分後、ひと駅目の西日野で終点となった。
降りてみると、特に目立つものもない郊外だった。川が隣を流れている。
線路はもともと「八王子」まで伸びていたが、川が洪水をおこして路線が破損、以後、西日野が終点となり、駅位置も川からすこし離れた東に移ったようだ。

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西日野駅のとなりの川

折り返し出発までの9分の間、駅の外をめぐる。
駅を出ると川があり、対岸の高台には高校があった。学校の近くに駅を移したのか。

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駅構内に掲示されていた写真

西日野駅の構内にあった「旧西日野駅」の写真を見ると、川のすぐ脇に駅舎がある。
川も現在の深く掘り込まれた姿とは違って、砂が堆積してすぐ間近に川の流れがある。
川の風情と一体化したいい駅の光景だなと思うが、この川との近さのために、洪水で再起不能となってしまったのが残念だ。

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列車の行き違い

9分がたち、西日野から「四日市行」に乗車。つぎの駅日永で降りると、再び内部行きの電車が連絡しており、待ち時間なしで乗り換える。
再び南日永で降りた。午後2時くらいだった。
この駅でなぜ降りたのかというと、この南日永からJRの南四日市駅まで徒歩10分くらいで目指せそうだったからだった。
亀山駅に車を停めている関係上、JRで帰らなくてはならないが、四日市あすなろう鉄道はJR関西本線とは交わっておらず、いちばん駅間が近そうなのがこの南日永と、JR南四日市の間だった。

旧国鉄感の残る駅

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南四日市駅

南日永の駅近くからは、太いまっすぐな道路が通じており、商業施設の横を通って約10分ほど東に進み、左に入るとほどなく、駅前広場があって南四日市の駅舎が見えてきた。
戦後の近代的な駅舎というか、広い窓が屋根の下までつながった軽快な雰囲気の建物で、「明るい社会」という標語のような懐かしい感じがした。
しかし中に入ると券売機もなく、建物も朽ちかけて荒廃していた。
駅前広場のだだっ広い開放感。自転車も止め放題のようで、あんまり管理がされておらず国鉄時代の風情がそのまま残っているようだった。

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ちいさなホーム上の待合所

駅舎を抜けると、貨物線が何本も走る中、ホームが島のようにぽつんとあって、小さな屋根付き待合がある。ホームの長さとの対比がすごい。広い敷地の中に、おまけのようにホームが据え付けられ、味わい深い。タイの鉄道駅を思わせた。

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コンクリ通路スペースが広いJR四日市駅

このあと同駅から、亀山とは逆方向に四日市駅まで行ってみたが、これまた国鉄時代の風情が濃厚な、重厚かつ武骨なコンクリ駅舎で、滋賀を含めた京都近郊区間のJR東海道線沿線の近代化駅舎からはとうに失われてしまった雰囲気があり、旅情緒にひたった。午後2時半ごろだったが、駅前のマルシェはすでに客は去り撤収モードに入っていた。そのにぎわいの少なさもまた味わい深い。
四日市ではJRよりも近鉄沿線のほうがにぎわっているので、JRの駅前はうら寂しいものだった。関西の東海道線でも、向日町駅とか、そんな雰囲気が残っている駅もあるが、向日町は東口開発の話もあって、ほどなく姿が変わってしまうかもしれない。そう思えば、この昭和後期で時間が止まったような雰囲気は貴重なものに思える。

このようにして後半は、すっかり乗り鉄の旅のようになり、自宅から距離的にはそんなに遠くはないがあまり知らない地域を歩いたり、ユニークな鉄道や昭和時代を感じさせる駅・路線を利用したりして、半日旅を楽しんだのだった。



posted by 進 敏朗 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月04日

北勢への鉄道遠足(上)

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JR関西線で亀山から名古屋方面へ3駅目、河曲(かわの)駅

三重方面への遠足

晩秋の晴れた日。
三重県の亀山駅から朝、8時の電車で出発する。
同駅を起点に見立て、北勢方面への「鉄道遠足」を企画。同駅までは車で1号線を経由し到着し、コイン駐車場(1日300円)に停めた。
滋賀から三重へは草津線がつながっているので、ここまで車を使わずに来ることもできるが、草津線終点の柘植(つげ)で亀山方面の連絡が良くなく、亀山でも乗り換えが不便という二重苦が待ち受けているためそれは採用しなかった。
いっそのこと車だけを使って移動すれば時間もかからず便利だが、どこか知らない場所に行くとき、鉄道で行く方が、だんぜん旅をした感じが強まる。
車は自宅と始発駅を結ぶ手段に限定し、あくまで「鉄道と徒歩の旅」という体で、亀山「始発」の半日旅とした。

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朝の亀山駅(午前7時50分ごろ)

亀山駅は1890年開業という古い駅だそうだが、駅前は真新しいロータリーが広がっていた。
ホームに待機する名古屋行き電車には乗客が乗り込み、始発のムードは満点。
亀山から東は鈴鹿川の左岸沿いに丘陵と平野が広がり、まっすぐな路線を電車は快走。
3駅目の「河曲(かわの)」に8時21分に着いた。
対面式ホームの駅から、踏切を渡り小屋のような駅舎抜けると静かなロータリーに朝の日が差す。
数人の高校生が駐輪場から自転車で走り去った。

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河原の広い鈴鹿川

鈴鹿川の土手沿いに道路が走る。
鈴鹿川は全長32キロの川で、規模でいえば滋賀県の愛知川よりすこし小さいくらいか。平野部が広めで、山間部は滋賀県の川より浅い。
河原には白砂がいっぱい堆積している。
対岸は近鉄鈴鹿線が走り、大規模な建物が望めるが、JR沿線であるこちら側は田園そのものの風情だった。
ここに何があるというのか。

古びた「御井」

さて河曲駅前の看板を見ると近くに「山辺の御井(やまのべのみい)」というものがある。
どうも昔の井戸か池の跡のようだ。

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藪の中に案内される

予定していなかったが行くことにした。
西に向かって約10分。「公家坂」という石柱のところから林の中に分け入り、すぐのところに表示があった。

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見る影もない「山辺の御井」。奥に石碑

藪に囲まれた、泥のたまった小さな池で草など生えて、使用されていない様子。
江戸時代にこの土地の伊賀神戸藩の殿様が訪れたことを記念して石碑が建っている。
この水たまりが、そこまで著名な池だったのか。

山辺の御井は奈良時代の初期の和銅5(712)年、古代の皇族である長田王が伊勢斎宮への途中に立ち寄り、歌を詠んだ現場とされる。
さらには山部赤人の屋敷があったとの言い伝えも。
万葉歌人として名高い山部赤人だが、調べると関連の旧跡は千葉や滋賀や静岡など各地にあるようだ。
そして山辺の御井についても、この場所のほか県内でも4カ所の比定地があるという。
実際ここがその歌に詠まれた場所であったのか。

ここが大和盆地から伊勢斎宮に行くルートからやや外れている点も気になる。すぐさま南下すれば行けなくはないのだが。
現在の姿は、ただの蚊が出る湿地である。
しかし、丘陵の崖下に位置しているので、泥の堆積を取り除いたら清水が湧き出る池が復活するかもしれない。
これから徒歩で向かう先には、国分寺の跡もあったりして、古代の北勢地域の中心地だったような場所なのだ。
皇族が伊勢に行く途中、少し寄り道をして立ち寄ったとしてもおかしくはない。
何せ1300年も前の話である。確かなことはよくわからず、想像は膨らんでいく。
1300年前の清水の跡が、いまも残っているとしたらすごいことだ。
丘陵の崖から出る清水、これがこの後の行程にも現れるのだった。

伊勢国分寺へ

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門のように立つ二棟の建物の間に、石柱が立つ

さてもういちど河曲駅に引き返したら9時。
こんどは進路を北に取って比高約30メートルの丘陵地を上がっていく。
するとなだらかな坂の入り口で道の両側に石柱が立っている。
この先に、伊勢国分寺跡があるという。

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史跡公園が整備されている伊勢国分寺跡

そこは考古学博物館があり、国分寺跡は史跡公園として整備されていた。
高台の上は平坦になっており、資料館の2階から全景を眺めることができた。
この日はもやがかかり、鈴鹿山脈までは望めず。

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蓮や蔓草文様の国分寺の軒瓦

伊勢国分寺は金堂・講堂・僧坊・食堂などの施設を備えていた。塔は、小院と呼ばれる区画から一辺が26メートルの建物跡は見つかったが、念入りな地固めがされた跡が見受けられず、そのことから塔の存在を疑問視する見方もあるという。だが、資料館のパンフには、奈良県の寺で地固めをしていない塔跡が発掘されたことから「塔と考えてよいでしょう」とある。どうなんだろう。でも、1300年たって地形が変わっていないことからも、地盤はしっかりしてそうな印象で、塔が立っててもおかしくはない気はする。

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巫女の埴輪

山辺の御井、そして伊勢国分寺。
この河曲のあたりには古代の遺跡が多い。
館内を見学すると、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡や遺物が紹介されている。
縄文と弥生で遺跡の場所がほぼ変わっていないことから、平野の中に点在する高台を拠点として、長い間、人が連続的に住み着いている印象を受けた。

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左の人と右の人

展示されていた一対の巫女の埴輪は、右の人と左の人で背の高さや、顔まで違う感じ(左の人は面長で目尻が下がり、右の人は切れ長の目で丸顔、薄笑い)で作られていて、実際にモデルがいたのではと感じさせる。
この後で訪れたが采女(うねめ)という地区もあって、それは雄略天皇の時代に機転を利かせて残忍な仕打ちを免れた賢い采女の出身地だという。この2人の巫女にも存在感がただよう。「できる女性」を輩出する土地柄だったのか。

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同じ高台にあった前方後円墳

国分寺から東へ約500メートルには、立派な古墳も見られた。
表面を覆っていたとみられる葺き石や、周囲には壕らしき跡も確認。つい3年前に竹藪が伐採されて丸裸になったばかりだったようで、全容が見られるのはラッキーだった。
など遺跡を見て古代情緒に浸った。
この高台では新しい家や規模の大きな住宅も多く見られ、集落をみても建て替えや、外構を新しくするなどの形跡が端々に見られ、人の暮らしの勢いのよさのようなものが感じられた。
日当たりも良く、柿やビワ、ミカンなどの果樹が至る所に生えている。
駅から近くはなく便利とは思えないが、人が好んで住む場所というものがあるのではないかと思えた。

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道の脇の林にはアケビも

東海道を行く

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1号線(左)と旧東海道

さて北上するとやがて国道1号線に突き当たり、広大なガレージをそなえた「采女食堂」の前を通り過ぎると、旧東海道が分離する。
1号線のほうは台地を切り崩してなだらなか下り坂になっているが、東海道は台地の上をそのまま進む。

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旧東海道の風景

江戸から数えて101個目の「采女一里塚」がこのあたりにあったという説明板があった。
モータリゼーション進む高度成長期、国道1号線の拡幅時に、徒歩旅の目印である一里塚が撤去されたとあり、移動手段の移り変わりを何とも象徴的に物語っていた。


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血塚社

昔ながらの街道の雰囲気を残す一角に「血塚社」とあった。
東国を征服した日本武尊が伊吹山の神にたたられ傷を負い、足を見たら血が流れていたという故事に由来。
「三重」という地名のおこりは、日本武尊が遠征に疲れ果てて、足が三重に曲がっているようだ、と言ったことに由来するという。
三重はつまり移動や旅の地、しんどさがピークに達する場所、というニュアンスを含んでいるのか。

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急坂始まる

血塚社から先の東海道は突然、急坂となっていた。
これが東海道の難所「杖衝坂」ということだったが、正直、少し迂回するなり、道をもっとS字にするなりして傾斜を緩くすることはいくらでもできたのではないか。わざわざ急坂を残したようなルート設定には理由があるのだろうと思った。随所に「難所」を残しといて、往来する人の把捉をしやすくするとか。

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坂の途中の弘法の井戸

いずれにしても今回は丘の上から下る行路だったので、この急坂を登らずに済んだのは楽だった。
資料館は残念ながら、土曜日休館ということであった。

さて私は何ゆえに東海道を歩いているのか。
それはこの先に、レール幅762ミリというナローゲージの鉄道「四日市あすなろう鉄道」があり、それに乗りたかった。

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内部川。国道1号の橋から上流方向を見る

坂を下りて国道1号に出、内部(うつべ)川の橋を渡ると、旧東海道はこんどは1号線の西側を並走する。
内部駅は左岸にあるが、内部小学校やうつべ資料館は右岸にある。川のどちら側が内部の内部なのか、外部なのか。
とにかく歩いている間は、このようなことばかりが頭に浮かんでくる。

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ロータリーが整備されていた内部駅

そして内部川の橋から東海道にいったん回って5分もしないうちに駅前にたどり着く。
グーグルの2017年撮影のストリートビューでは、駅前をふさぐように住宅が立っていたが、2021年にはロータリーとなっており、現地は数多くを収容する駐輪場が整備され、鉄道利用促進の政策が打たれていた。

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ちいさな終点の駅舎

ロータリーから下がっていくようにして内部駅の小さな駅舎があった。
切符を購入し、総延長7キロという「四日市あすなろう鉄道」に乗り込もうとする。

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四日市あすなろう鉄道の車両

穏やかな晩秋の日差しの中、古代の遺跡から、江戸時代の街道を通り、大正時代敷設のナローゲージ鉄道という「時間旅行」をぶらぶらと楽しんでいるのである。
(続く)


posted by 進 敏朗 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺を見る(滋賀以東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする