東海道線の車窓から見えるいい雰囲気の池
車窓からの風景、垂井ー大垣間
東海道線は普通列車でもスピードが速い。
非電化路でほぼ単線の山陰本線沿線に育った筆者としては、時刻表ファンだった昭和後期の少年時代、キロ数から所要時間割ってみたところ東海道本線の新快速が、山陰線の特急よりも速いことを発見しておののいていた。
新快速でない普通列車でさえも平均時速60キロに迫る速さで走っており、それは当時の山陰線特急と同等のスピードだった。これが15分とか30分毎という頻繁さで運行している。
新快速や普通を乗り回して遠出をすれば、特急券を使わずに普通料金だけで(期間によっては青春18きっぷで)、山陰線の特急に乗っているような感覚で、安く遠出ができる。羨望のような思いを昔から抱いている。
だから東海道線の普通列車(新快速含む)で遠出することは、私にとってはお得感の高い行動なのである。
岐阜県方面へ行く。米原で大垣行きに乗り換える。8時4分発の電車は折り返しではなく車庫から出て来て、駅での待機時間が長かったのでホームに長い間立たなくてすんだ。
終点・大垣のひとつ手前、垂井を過ぎると、JR東海普通電車の曇ったガラス越しに、進行方向左側の田んぼの中に趣ある池が見える。ここに行ってみたいが、岐阜県の東海道線は駅間が長く、大垣、垂井どちらの駅からも3キロくらいは離れているように思われる。
これを今回、公共交通を駆使して訪ねてみようとした。
大垣駅3番線の案内
もう9年も前、9月上旬に大垣を訪ね、金生山からの濃尾平野の眺めが素晴らしかったので、今回また、秋の始まりのこの時期に、足を運んでみることにしたのだった(2014年9月7日「水都と石灰岩の山(下)」参照)。
前回、大垣から美濃赤坂行に乗り損ねたことによるスケジュールの狂いから断念した、金生山上の古刹、明星輪寺にも行くことにする。運動不足により衰えた足腰を再び強化するきっかけにもしたい。8月までの異常な酷暑は去ったので、熱中症も多分大丈夫であろう。
前回、乗り場が分からず、大垣駅に着きながらみすみす逃がしてしまった美濃赤坂行の電車、今回は事前に大垣駅の構内図を調べておいた。
美濃赤坂行きの乗り場と電車(右)
大垣駅3番ホームは、4番ホームの西端に切り欠きのようにして存在していた。
二駅だけの区間を走る東海道線の盲腸線(何というのだろう)。 これに乗り込んだ。
終点の宿場町美濃赤坂
ホーム(手前)から離れて立っている美濃赤坂駅の駅舎
営業キロ5.0キロの道のりを、ワンマン2両編成電車は7分で走り切った。
美濃赤坂。降り立つと貨物線が荒野のように広がり、ホームからいやに離れた平地に立つ駅舎も趣深い雰囲気。
駅舎ごしに電車を見る
1919(大正8)年開業時の建物という駅舎の、床タイルの反射光が印象的な駅舎越しの眺めも趣深い。
野原と電車
駅舎を出てから振り返り、集落のすぐ裏に電車が待機している様子を見るのも風情が。
電車がこれくらい身近な乗り物であったら。
ディーゼル機関車DE10(手前)
最近あまり見なくなったディーゼル機関車が停まっている。旧国鉄で量産されたDE10。
採掘された石灰石を運搬するため近年導入されたことを知る。塗装がピカピカで、周囲の施設の古さから浮き上がって見える。
山陰ではかつてディーゼル機関車は見慣れた存在だったので、この朱色っぽい赤には懐かしさを覚える。
この体色や形、表情が読み取れない顔がベニズワイガニを連想させる。
踏切
駅周辺の風景を観察する。
貨物線「西濃鉄道」の踏切。「とまれみよ」と懐かしい、遮断機がない単線踏切。
警報機の高さや、頭部のバッテンの形が後ろの棕櫚の木とシンクロして味わい深い。
建物の門や壁
駅から北上するとすぐ、中山道の宿場であった赤坂の中心部に行き当たる。
建物の規模が大きくて、繫栄していたことがうかがえる。
赤坂港跡(旧中山道の橋から撮影)
中山道に達して東方面へ歩くと本陣跡があり、さらに3分ほどで「赤坂港跡」に達した。
16世紀前半までは、この杭瀬川が揖斐川の本流だったといい、港は線路が開通するまで使われていたといいう。
東西に中山道が走り、南北に揖斐川(杭瀬川)が流れる交点に立地する宿場では、町の東の入り口にある港で荷物の積み下ろしをし、船で下流に送ることができるのだ。道路交通と船運の要衝だったわけで、ここに赤坂繁栄の秘密があった。
さらに、町の北側にある金生山から出る石灰石が、石灰やコンクリートの原料などにもなり、赤坂のまちには石灰会社の看板や建物も見え、鉱山町のような様相も。二重にも三重にも栄える要因があったのだった。
など鉄道と宿場町の情緒に浸ったあと、金生山を目指す。
金生山・明星輪寺への道
山の入り口の坂
赤坂宿の旧中山道から、「こくぞうさん(金生山の虚空蔵菩薩に由来する地元でのお寺の呼び名のようだ)」へ行く道は分岐し、最初から坂道となっている。
標高217メートルということだったが、勾配がきつく、最初から息切れでハアハアゼエゼエとなった。
地元の人が何人も下りてくる。健康づくりのために歩いているのだろうが軽やかだ。
ピンク色のアマナ
道沿いにはピンク色をした大ぶりなアマナかと思ったんだけど、このようなピンク色のは見たことがない。
石灰岩地帯を好むのだろうか。
足を止めて息を整えた。
金生山化石館前に置いてあった石灰岩
古生代のサンゴ礁だったといわれる金生山は石灰岩でできており、そこには数億年前の海の生物化石が見られる。
明星輪寺へ至る途中にある、金生山化石館前の岩には直径10センチぐらいの渦巻き模様が見える。巻貝の化石断面だろうか。
急な坂
坂は金生山化石館を過ぎてからが特にきつく、歩き続けるのが困難になった。
足の衰えも相当なものだと実感。8月よりは暑さはかなりましになったが、気温は午前10時で30度近い。汗だくになる。
明星輪寺の入り口
ようやく寺の入り口が見えてきた時はほっとした。約2キロの登山道を、40分くらいかけてようやく到達。
駅前の自販機で買った500ミリの水はすでに飲みほしていた。
石灰岩の奇岩広がる境内や本堂
山門
持統天皇の勅願で役小角により686年創建と伝えられる古刹。
この金生山は石灰石だけでなく赤鉄鉱も産出したといい、鉄製武器が壬申の乱の大海人皇子軍勝利につながったとの説も。
山門では岐阜県の文化財である仁王像がお出迎え。
境内には石灰岩の奇岩が連なる壮観という。どんなだろう。
ミネラル豊富? 手水
神仏習合の名残か、まず水で清める。
本堂
重厚な入母屋造の瓦が印象的な本堂は幕末の建築。
山門よりも本堂が低い場所に建てられているのは不思議な気がしたが、入ってみると堂の内陣の奥は巨大な奇岩であった。
道内に入り左側から靴を脱いで内陣に入ることができる。
そこは岩のドームならぬ岩の堂(どう)であった。
奇岩をもとに本堂が建てられたことは一目瞭然で、それ故の境内の変則的なレイアウトとなったのだろう。
堂の奥に奇岩
撮影しても良いか僧侶に尋ねると、「お参りした後なら撮影してもいいですよ」と、許可をいただき撮影。
暗くてうまく写らなかった。
奇岩
そして本堂の前から石段を登っていくと、「岩巣」と呼ばれる奇岩出現。
石灰岩が長年の浸食を受け、形が複雑になっていったものが広がっている。
牛
そこにはウシや、
トラ
トラなどの岩を削った彫刻が出現。
もとの岩の形を利用したとみられ量感あふれる。
亀岩
巨亀も現る。これは自然の岩そのままの形が、首をもたげた亀のように見える。
そこは見晴らし台であり、亀は濃尾平野を眺めている。
山頂からの眺め
山上からの濃尾平野の眺めは、もやがかかっていた。前回訪れた際のような透明感はない。遠くのほうはもやがかかる。
まだ秋の空気になりきっていなかった。
川をたどっていくと赤坂港が見える。
急な崖の山であるのと、広い濃尾平野の西端に位置するので雄大な見晴らしが広がる。
日の出を眺めるには絶好の場所でしょう。
奇岩とあいまって、ここが古代国家鎮護の仏教拠点にと注目されたこともなんだか納得できる。
石灰石鉱山
いっぽう、登山路の西側をみると、石灰鉱山の採掘が進み、すでに半分は削り取られている。
採掘業者にとってはまさに金(カネ)を生む山である金生山。明星輪寺があったため、全山が削られるのを免れ、濃尾平野の雄大な眺めを見られるのは幸いなことだと思う。
山の景観の大幅な改変となったわけだが、一方で採掘によって古生代の化石が発見され、数億年前の生物の形態が知られることにもなった。
古生代の二枚貝、シカマイア化石(縞模様の部分)
下山中に、金生山化石館に立ち寄り、館員の方から、建物の脇の斜面の岩に見られる縞模様が、古生代の奇妙な二枚貝「シカマイア」が積み重なった化石であることを教えてもらった。スリッパをつぶしたように平べったい楕円形の縦方向にスリットが入り、断面は「く」の字を鏡合わせにした形という、ちょっと現在の生物では見当たらない奇妙な形の殻を持っており、それが層状に積み重なっている。カキのように岩にへばりつく生態だったのだろうか。
化石館のすぐ脇を見やるだけでこのような露頭があるところを見ても、この山には相当な密度で化石が含まれているだろうという印象。
電車に間に合わず
こうして午前11時半ごろ、下山すると、へとへとになっていた。
すでにペットボトル2本を飲み干す。
午前中にもかかわらず腹が減り、美濃赤坂の「松岡屋スーパー」でちらし寿司、バナナを購入(まけてもらって併せて430円)、公園となっている本陣跡で食べる。
さてここから、行きがけの車窓から見た池を目指すわけだが、乗りたかった10時53分発の電車はすで出ちゃっていて、つぎの13時12分発までは1時間以上も待たないといけない。休日は本数が少ないのだった。
気ままな単独行なので電車に乗り遅れることに問題はないが、次の便を待たねばならないのがじれったい。
こうした際には、休息も兼ねて宿場町内にある資料館等を訪れ時間を過ごすというのも一つの手だが、疲労によって、じっくり資料を見ようという気が失せていた。
事前の計画では美濃赤坂から電車で1.7キロ南進(ほんとうに真南に線路は進む)、途中駅の「荒尾」で降りて、西方向へ2キロほどを歩くということを考えていた。この荒尾駅、あと300メートル東にあったら、本線の駅として、駅間が8.1キロもある垂井ー大垣間の中間駅に活用できそうな位置にあるのに、なぜか盲腸線の途中駅としてしか建設されなかった惜しい駅。この駅の位置が、垂井−大垣のほぼ中間地点にある特性をいかそうと作戦を考えていたが、本日、想定を上回る疲れでスケジュールに遅れが生じてしまったので、「荒尾作戦」は断念。
グーグルマップの表示では、赤坂宿本陣前から、南西方向に位置する池まで4.6キロ。
それなりの暑さの中、日差しを遮るものもない田園をこれだけ歩くのは無謀だ。
そこで、少しでも歩く距離を減らそうと、路線バスの時刻表を調べると、消防分署行が正午すぎに来ることが分かった(続く)。